『海峡のアリア』田月仙著
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4093797455&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
田月仙(チョン・ウォルソン/公式HP)は1957年東京生まれ。桐朋学園を経て1983年プロのオペラ歌手としてデビュー、朝鮮の民族歌謡を母国語でかつオペラの発声法で歌う声楽家として、韓国・北朝鮮のみならずヨーロッパ各国も含め国際的に活躍するソプラノ歌手である。
この本は、彼女自身の手で生立ちや家族のルーツ、南北両国で公演した歌手活動を通じて、「故国=朝鮮」と「母国=日本」との海峡の距離を描いたノンフィクションである。
この手の在日コリアンの手記としては以前に『海峡を渡るバイオリン(陳昌鉉著)』を読んだことがあるけど、この本とはちょうど対照的でよかったです。
陳昌鉉氏は教育を受けるために日本に来た在日一世、田月仙女史は学徒動員で15歳で来日した父の娘で在日二世。陳氏は在日コミュニティとはあまり関わりを持たない孤高の楽器職人であり、田氏はバリバリの総連系育ちで常に朝鮮半島という出自に立って活動して来た音楽家である。世代もちょうど一世代差、故国を思う気持ちは同じでも、それぞれにアプローチも違えば故国との現在の関わりも違う。
逆に、在日コリアンと朝鮮半島との距離感は、この本の方がさらに数段わかりやすくなっていると思う。現在日本に60〜70万人が暮すという在日コリアンが、いつどのようにして来日し、なぜ半島解放後も日本に住み続けているのか、彼らは故国に対してどんな思い─反日政策・日本人拉致問題など─を抱いているのかが、彼女自身の言葉で、簡潔に率直に書かれている。
田氏は民族学校=朝鮮総連が運営する朝鮮学校の出身で日本の義務教育はまったく受けていない。
チマチョゴリを着て学校に通い、朝鮮の歴史と朝鮮語を学び、コテコテの共産主義教育を叩き込まれ、今に至るまでずっと朝鮮名で通している。
そんな彼女にとっても、現実には北朝鮮も韓国も外国だった。幼くして故国を出た父母の思いや、学校で聞かされた故国のイメージに憧れはあっても、それでも半島は遠かった。実際に訪れることになれば不安で、彼の地を踏めば違和感ばかりが強烈に押し寄せる。どれだけきちんとした民族教育を受けて自由に朝鮮語を操ることが出来ても、日本生まれは日本生まれ、日本育ちは日本育ちだった。
また彼女の異父兄4人は帰国事業で1959年に北朝鮮に渡っている。その後の苛酷な運命はショッキングでもあるし、なぜ在日コリアンたちが日本に住み続けているかという答えのひとつにもなっていると思う。疑問のある人には是非一読をお勧めしたい。ぐりは兄弟を連れて帰った義父(田氏の母の前夫)が帰国後どうなったかがいっさい書かれていないのがムチャクチャ気になったけど。
読んでいてぐりがもっとショックを受けたのは、日本統治時代に朝鮮人音楽家によってつくられた歌についての調査のくだり。
当時日本政府は朝鮮人を日本に同化させるため、“愛国的”な歌を朝鮮人につくらせて歌わせていた。もちろん朝鮮人がそんなものを進んでつくったわけはなく、つくらなければ命がなかったから従わざるを得なかった。そういう時代だった。ところが韓国では2004年に日本統治時代の真相を調査する法律がつくられ、そうした歌をつくったアーティストたちは「親日人名事典」という不名誉なリストに記録されることになってしまった。
そんな歌のひとつが「息子の血書」(作詞:趙鳴岩 作曲:朴是春)である。
母上にあて この手紙を書いています
皇軍兵士になれたのも 母上の御恩です
お国に捧げたこの体 故郷に還るそのときは
降り注ぐ敵弾の下 白木の箱で戻ります
この歌は白年雪という人気歌手が歌って大ヒットしたそうである。もちろん元の歌詞は朝鮮語で。
これ以上なにもいう必要はないと思う。というか、ぐりには、なにもいえない。
関連レビュー:『悲情城市の人びと』 田村志津枝著
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4093797455&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
田月仙(チョン・ウォルソン/公式HP)は1957年東京生まれ。桐朋学園を経て1983年プロのオペラ歌手としてデビュー、朝鮮の民族歌謡を母国語でかつオペラの発声法で歌う声楽家として、韓国・北朝鮮のみならずヨーロッパ各国も含め国際的に活躍するソプラノ歌手である。
この本は、彼女自身の手で生立ちや家族のルーツ、南北両国で公演した歌手活動を通じて、「故国=朝鮮」と「母国=日本」との海峡の距離を描いたノンフィクションである。
この手の在日コリアンの手記としては以前に『海峡を渡るバイオリン(陳昌鉉著)』を読んだことがあるけど、この本とはちょうど対照的でよかったです。
陳昌鉉氏は教育を受けるために日本に来た在日一世、田月仙女史は学徒動員で15歳で来日した父の娘で在日二世。陳氏は在日コミュニティとはあまり関わりを持たない孤高の楽器職人であり、田氏はバリバリの総連系育ちで常に朝鮮半島という出自に立って活動して来た音楽家である。世代もちょうど一世代差、故国を思う気持ちは同じでも、それぞれにアプローチも違えば故国との現在の関わりも違う。
逆に、在日コリアンと朝鮮半島との距離感は、この本の方がさらに数段わかりやすくなっていると思う。現在日本に60〜70万人が暮すという在日コリアンが、いつどのようにして来日し、なぜ半島解放後も日本に住み続けているのか、彼らは故国に対してどんな思い─反日政策・日本人拉致問題など─を抱いているのかが、彼女自身の言葉で、簡潔に率直に書かれている。
田氏は民族学校=朝鮮総連が運営する朝鮮学校の出身で日本の義務教育はまったく受けていない。
チマチョゴリを着て学校に通い、朝鮮の歴史と朝鮮語を学び、コテコテの共産主義教育を叩き込まれ、今に至るまでずっと朝鮮名で通している。
そんな彼女にとっても、現実には北朝鮮も韓国も外国だった。幼くして故国を出た父母の思いや、学校で聞かされた故国のイメージに憧れはあっても、それでも半島は遠かった。実際に訪れることになれば不安で、彼の地を踏めば違和感ばかりが強烈に押し寄せる。どれだけきちんとした民族教育を受けて自由に朝鮮語を操ることが出来ても、日本生まれは日本生まれ、日本育ちは日本育ちだった。
また彼女の異父兄4人は帰国事業で1959年に北朝鮮に渡っている。その後の苛酷な運命はショッキングでもあるし、なぜ在日コリアンたちが日本に住み続けているかという答えのひとつにもなっていると思う。疑問のある人には是非一読をお勧めしたい。ぐりは兄弟を連れて帰った義父(田氏の母の前夫)が帰国後どうなったかがいっさい書かれていないのがムチャクチャ気になったけど。
読んでいてぐりがもっとショックを受けたのは、日本統治時代に朝鮮人音楽家によってつくられた歌についての調査のくだり。
当時日本政府は朝鮮人を日本に同化させるため、“愛国的”な歌を朝鮮人につくらせて歌わせていた。もちろん朝鮮人がそんなものを進んでつくったわけはなく、つくらなければ命がなかったから従わざるを得なかった。そういう時代だった。ところが韓国では2004年に日本統治時代の真相を調査する法律がつくられ、そうした歌をつくったアーティストたちは「親日人名事典」という不名誉なリストに記録されることになってしまった。
そんな歌のひとつが「息子の血書」(作詞:趙鳴岩 作曲:朴是春)である。
母上にあて この手紙を書いています
皇軍兵士になれたのも 母上の御恩です
お国に捧げたこの体 故郷に還るそのときは
降り注ぐ敵弾の下 白木の箱で戻ります
この歌は白年雪という人気歌手が歌って大ヒットしたそうである。もちろん元の歌詞は朝鮮語で。
これ以上なにもいう必要はないと思う。というか、ぐりには、なにもいえない。
関連レビュー:『悲情城市の人びと』 田村志津枝著