落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

スナック小夜子

2014年11月30日 | movie
『小川町セレナーデ』

ゲイのショーダンサー・エンジェル(安田顕)の子どもを身籠った真奈美(須藤理彩)は、性転換して女性として生きようとするエンジェルと離れ、ひとりで娘を育てていこうと決意しスナックを開店。固定客もついて順調に見えた店だったが、娘・小夜子(藤本泉)が成人するころになって借金がかさみ閉店を余儀なくされる。隣町でオカマバーがはやっていることを知った小夜子は、スナックをニセのオカマバーに改装することを提案するのだが・・・。
今作が劇場用長編映画デビューとなる原桂之介監督作品。

うん。いい映画でした。
やさしくて、清々しくて、あったかい。
トランスジェンダーの父と娘の邂逅物語といえば『メゾン・ド・ヒミコ』だけど、もうあれも10年近く前の映画なんだね。あー光陰矢の如し。
『メゾン~』もファンタジーだったけど、『小川町~』もファンタジーです。魔法も奇跡もないけど、小さな町の小さなスナックを舞台にした、ささやかでほのぼのした夢物語だ。子どものころに絵本で読んだような、「それからみんなで楽しく幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」というフレーズで終わるお話。設定は似ていても、その点では『メゾン~』とは方向性がまったく逆である。

だからわかりやすいリアリティとか生々しさなんかはいっさいない。気持ちいいくらいそういう要素がごっそり省略されてるから、おそらくは意図して排除したのだろうと思う。
たとえばエンジェルが女性になったあと、どんな人生を送り実際にどういう生活をしているかは描かれていない。画面には登場しているのに、仕事は何をしているのか、どんなコミュニティに生きているのかはまるっきり説明がないのだ。まあだいたい映画が始まってから話の本筋にはいるまでに20年以上の時間経過があるんだから、ディテール語ってるヒマがないんだよね。物理的に。
けどそれで話が薄くなるわけではない。貧しくても常に明るく、水商売ながらまるで朝ドラのように清廉で前向きなヒロインも、同じくシングルマザーのホステス・りょう子(小林きな子)も、店の常連客たちも台詞の上では誰も大した話はしないのだが、雰囲気はあるが決して繁盛しているとはいえないスナックのほのかな灯りの下で見せる笑顔の向こうに、なぜかままならない人生の悲哀をしっかりと感じさせる。
おそらくこの映画の主人公はどのキャラクターでもなく、このスナックなんだと思う(爆)。どのシーンよりもスナックのシーンに強く説得力を感じるから。プロダクションデザインの勝利ですな。ブラボー。

ボロいけどレトロで情緒たっぷりなスナック小夜子はさておき(笑)、どのキャラクターもものすごくかわいく描かれている。全員なんか似てるんだよね。直情径行的で損得勘定でものを考えることができないのだが、真面目で正直で純粋で、愛すべき人ばかり。違いは年齢や性別や生活背景の設定ぐらい。
ぐり的にはりょう子がすごく好きでした。ぷくぷくしたまるい体型がキュートでお料理上手、息子が語る「ママ(=真奈美)に雇ってもらえて、お風呂のある家に引っ越せて、いつもとってもママに感謝してる」なんて素直さが愛おしい。彼女もハッピーエンドだったけど、あの橋の上のシーンはとにかく感動したなあ。感動して、笑えて、なかなかの名シーンになってるので、これからご覧になる方にはそこに注目していただきたい。
けどいちばんの名シーンはやっぱラーメン屋だね。しびれたわー。

公開そのものは10月からで、今回は原監督が今作で新藤兼人賞2014銀賞を受賞した記念上映だった。
個人的な話で恐縮だが、原くんが助監督だった数年前、何度か仕事でお世話になったことがある。まだ20代だったけど、若さに似合わず冷静沈着で頭の回転が素晴らしく速くそしてタフで、とても頼りになる助監督さんだった。原くんがいてくれてほんとうによかったと、現場で何度救われたことか。行定勳や三池崇史やSABUなど、錚々たる売れっ子監督に引っ張りだこだったのも頷ける。
厳しい現場で長い時間をともに過ごしたこともあったし、いろいろな話もした。苦労してない映画人なんかいないけど、原くんにもさまざまな苦労があったはずだと思う。その原くんがとうとう映画監督としてデビューし、こんなに素敵な作品を撮って、そしてちゃんと評価されたことが嬉しくて、映画館の座席でスクリーンを観ながら、胸がいっぱいになってしまった。
原くん、おめでとう。よかったね。次回作も期待してます。頑張れ。



I don't know anymore.

2014年11月20日 | movie
『デビルズ・ノット』

1993年5月5日、アーカンソー州ウェスト・メンフィスの森で3人の8歳男児が遺体で発見された。まもなく町の不良少年であるダミアン・エコールズ(ジェームズ・ウィリアム・ハムリック)、ジェイソン・ボールドウィン(セス・メリウェザー)、ジェシー・ミスケリー・Jr.(クリストファー・ヒギンズ)が容疑者として逮捕され、確たる物的証拠も見つからないまま裁判が始まるのだが、捜査と報道に疑問を抱いたロン・ラックス(コリン・ファース)はプロボノで3人の弁護団に協力を申し出る。
アメリカで社会現象にもなった冤罪事件「ウェスト・メンフィス3」(Wikipedia)を名匠アトム・エゴヤンが映画化。

ぐり大好きエゴヤンの最新作。『秘密のかけら』『アララトの聖母』(感想続き)『スウィート ヒアアフター』に続いて実在の事件を題材にした物語。たぶんこれがいちばん実際の事件に近い表現になってるんじゃないかと思います。脚本も初めて他の人のシナリオ使ってるみたいですし。これまでの3本は明らかになってない部分の描写があったりしてだいぶ翻案化されてる。
でも一種独特のモヤッと感は相変わらずです。この人の描くカタストロフっていつも、観客が期待してない方向からくるんだよね。こういう事件もの、裁判ものの映画ってどうしても、観客はカタストロフのくる方向に無意識に身構えてしまう。日々あらゆるメディアの情報のシャワーを浴びている人間にとって避けがたい反応ではあるんだけど、エゴヤンがスクリーンの奥から投げかけてくるメッセージは常に、その観客の盲点を突いてくる。

このウェスト・メンフィス3事件は早い段階でメディアの注目を集め、ドキュメンタリー映画は4本もつくられてるし本も何冊か出ている。事件発生から20年を経てもなお未解決であるにも関わらず、既に警察の捜査は終了しているという非常に特異な事件でもある。
だからこの映画でも明確な結末は描かれていない。基本的に逮捕された3人の少年は冤罪だったという観点で描かれてはいるものの、他に真犯人を追求するまでには至らずに物語は終わっている。犯罪もの、裁判ものの映画としては消化不良ともいえるんだけど、この映画で大事にしているのはそこじゃないんだよね。
“百人の罪人を放免するとも一人の無辜の民を刑するなかれ”。たとえ何人の真犯人を逃しても、無実の人を罪人にしてはいけない。裁判の基本中の基本。どうしてか誰もが忘れがちな真理だ。この映画では、悪意のないオーディエンスが寄ってたかって3人の少年たちを犯人に仕立てようと演じる茶番の軽薄な空虚さと、それにふりまわされる関係者の苦悩の対比が最も大きなテーマになっている。
とくに登場人物の容貌や挙措動作、口調はかなり実在の本人に似せていてほぼ「そっくりさんショー状態」だというから、そういう意味ではシリアスに滑稽さを演出しようとしているし、裁判や報道が些末な状況証拠の立証のみに終始するまま進行していく展開には呆然としてしまう。結局何の真実も議論されることなく3人の子どもの命の代償が問われる司法に司法の意味などない。

実際の事件でも映画でも繰り返し言及される悪魔崇拝による暴力犯罪だが、現実には悪魔崇拝でも狂信的な信仰でも起こり得る。日本ではオウム真理教事件で多くの人が犠牲になったし、神戸連続児童殺傷事件の少年Aが悪魔崇拝を連想させる犯行声明文を書いたことはいまもよく知られている(※Aの犯行と悪魔崇拝の関係は明確でない)。
だが究極的には被疑者の信仰や趣味嗜好そのものは犯罪の証拠にはなり得ない。どれだけ状況証拠が揃っていて目撃証言があっても、物的証拠や実行犯にしか知り得ない事実が出てこない限り、殺人を立証することなど不可能だし、なによりも大切なことは無実の人を罪人にしてはいけないという原則であって、とりあえず怪しい人間に手っ取り早く犯人役を押しつけることでは決してない。
それなのになぜか多くの冤罪事件では、被疑者の無実を証明することではなく、いったん被疑者とされた人物をいかにして真犯人に固めるかということに人の関心が集中してしまう。ほかに誰かいるかもしれないという当り前に重要なはずの可能性が、いつの間にかどこか遠くに追いやられてしまう。むしろそうした現象の方が、犯罪そのものよりも怖いと感じる。

逮捕・起訴されたダミアン、ジェイソン、ジェシーは有罪が確定し服役したが、支持者の努力により無実を証明する証拠が次々に見つかり、2011年に特殊な司法取引によって釈放されている。
しかし逮捕時まだティーンエイジャーだった彼らは既に30代になっていた。青春のいちばん楽しいはずの時期を、彼らは刑務所で逸してしまった。それだけではない。小さな男の子を3人も残虐に暴行し殺害した真犯人は罪に問われることもなく平穏に暮らしているのだ。
人々がヘヴィメタ好きでスティーブン・キングの愛読者だというだけで罪もない少年たちを吊るし上げ袋叩きにしている間、彼は何を思ってその狂気のパニックを眺めていたのだろう。貧困層が多くペンテコステ派というキリスト教原理主義が信じられている地域社会が、この不幸な結び目(knot=ノット)の背景になったのだとはぐりは思いたくない。
恐ろしいことが起こったとき、馴染みのないもの、違和感のあるものに自動的にその恐怖を転嫁したがる心理は、おそらくはどこの誰にでも起こり得る。もしかしたらそれは生き物としての生存本能なのかもしれない。
大切なことは、人間の心にはそういう凶器があることを忘れないでいることではないだろうか。

ジョニデ、エディ・ヴェダーらも支援し続けた冤罪死刑囚らが18年間投獄の後、遂に釈放!(2011年の釈放時の報道)




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「海外の捜査官に聞く~取調べの可視化の意義~」院内集会
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『冤罪 ある日、私は犯人にされた』 菅家利和著
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『僕はやってない!―仙台筋弛緩剤点滴混入事件守大助勾留日記』 守大助/阿部泰雄著
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『福田君を殺して何になる 光市母子殺害事件の陥穽』 増田美智子著
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『LOOK』
『日本の黒い夏 冤罪』
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『休暇』

残念日記

2014年11月01日 | movie
『悪童日記』

第二次世界大戦下のハンガリー。一度もあったことのない田舎の祖母(ピロシュカ・モルナール)のもとに預けられた双子(アンドラーシュ・ジェーマント/ラースロー・ジェーマント)。祖母は地域で「魔女」と呼ばれ、祖父を毒殺したとも噂されていた。生きぬくために学び、お互いを鍛えることを誓った双子は、冷酷な祖母にこき使われながら独自の倫理観と処世術を身につけていく。
アゴタ・クリストフの世界的ベストセラーの映画化。

この小説、日本語版は91年に出て当時かなり売れた記憶があるんですが。
ぐりも刊行直後に読んでいて、その後の続編『ふたりの証拠』『第三の嘘』、クリストフの次作『昨日』も続けて読んでいる。ハイ、ハッキリとハマってました。でも30代過ぎてから読み返したりはしてないので、内容の細かいところまではちょっと記憶に自信がない。とはいえ観る前に読み返したりもしなかったんですが。

ぶっちゃけたことをいえば、まあまあうまくまとまった作品にはなってるんじゃないかとは思う。原作そのものにはかなりえげつない表現が多くて映像化は難しいだろうと思われていたから、その手のアレな部分をうまく避けて、それでも原作通りのストーリーを忠実に再現してはいる。
なんだけど、それ以上でも以下でもないんだよね。原作ほど印象的でもない。悪くないんだけど良くもない。真面目に原作を映像化しただけで、それ以上に原作の世界観をちゃんと消化しきれてない感が非常に強かったです。
双子のキャラクターは原作通りだったんだけど、カメラワークとか照明とか美術とか編集とか、ビジュアル面で原作のビザールでゴシックな独特の暗さが再現できればもうちょっと違ったんではないかと思う。そういう映像的な工夫はぜんぜんなかったのが残念でした。べつにエグさを再現しなくてもできることはあったと思うんだけど。

ぐりの記憶にある限りでは、原作は戦争の苛酷さが子どもの目線を借りて斬新な側面から描かれた傑作だったはずなんだけど、この映画に斬新な要素はなにひとつなかった。
うまく撮れてる優等生的な映画ではあるけど、記憶に残るような作品では決してない。原作が好きだっただけにかなり残念でした。



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帝王伝説

2014年11月01日 | movie
『イヴ・サンローラン』

1957年、20歳そこそこでディオールの助手となったイヴ(ピエール・ニネ)。若くしてその後継者に指名され一大メゾンの伝統を受け継ぐ重責を負うが、1960年、故郷アルジェリアのフランスからの独立戦争に召集され、まもなく精神を病んで施設に収容される。
デザイナーとしての才能には恵まれていたものの内向的で人格的にもろく繊細なイヴを、公私ともに献身的に支え続けたピエール・ベルジェ(ギヨーム・ガリエンヌ)の視点から描いた伝記映画。

映画を観ていて、学生時代、学園祭でのファッションショーに参加したことを思い出した。
ぐりの母校は美術系で舞台衣装をベースに服のデザインを学ぶクラスがある。デザイナーはその学科の学生たち、モデルも彼らが学内でスカウトした学生、運営スタッフも学生で全員あわせると100人単位。予算も100万円単位で舞台美術や照明・音響装置やヘアメイクなどは人材育成のためにプロがサポートしてくれるという、それなりに規模の大きいものだった。ぐりは運営スタッフの中にいた。
入場料を徴収しスポンサーも募る本格的なショーとはいえ参加者は全員素人学生、毎年恒例でいくらかノウハウは引き継がれるもののメンバーも入れ替わり世の中の景気も変化するから、想定通りにいかないことばかりである。なにしろ美術系の学生でしかもファッション系といえばその当時はスポイルされ放題で奔放さだけが自慢のような子ばかりだったから、マニュアルをつくってそれを周知し守ってもらうだけでひと苦労だった。準備から残務整理までの1年近くの間、日々忍耐の連続だった。

だからファッションデザインそのものには興味はあったし、ホントにメゾンのファッションショーに行ったり、コレクションラインをまめにチェックしてた時期もある。実際にサンローランも何点か持ってました(もちろんリヴ・ゴーシュ。オークションで入手)。でもそれも10年くらい前までで、いまは着るものにもう興味はない。ファッションが好きなだけで簡単に服飾史を独学しただけだから大した知識もない。
ちょっともったいなかったのは、もしこの映画をそのころ、ファッションが好きだった若いころに観てたらすごく共感しただろうなということ。残念ながらいま観てもさほど心動かされない。映画が悪いんじゃないと思うんだけど。
逆にいえば、ファッションが好きとかサンローランが好きという人がこの作品を観ればどう感じるのかが、とても気になる。

映画はイヴという地味でおとなしい若者がパリで見いだされ若くして成功しモードの帝王と呼ばれるようになり、プレッシャーや孤独と戦いながらファッション界に革命を起こし続けた日々を、ただただ淡々とパートナー側の視点から描いている。
ファッションという華やかな世界を描いていながら、サンローランのキャラクターがストイック過ぎて、物語に盛り上がりとか色気というものがほとんどない。そのわりに視点がパートナーのピエールに限定されているのでやや一面的に偏っていて、繊細で移り気なサンローランの内面の描写にもうひとつ踏み込みが足りないような気がしてしょうがない。ピエールというパートナーがいながらこれみよがしに浮気を繰り返したり薬物に溺れたりするサンローランがいったい何を恐れていたのか、その背景がもうひとつクリアに伝わってこなかった。

サンローランを演じたピエール・ニネはメディアで見かける生前のサンローランそっくりで、その演技は確かにピエール・ベルジェのお墨付きというだけあって真に迫ってたと思う。
でも見どころといえばそこ以外にもう思い出せないのは、観てから1週間経っちゃってるからではないと思う。
サンローランとかファッションデザインのファンにとってはもっとアツく感じるのかもしれないけど、ゴメン、ぐりはもうそうじゃないからムリでした。