『ディア・ドクター』
住民1500人中半数が高齢者という山村の診療所にインターンとして派遣された研修医・相馬(瑛太)。4年前まで無医村だった田舎で孤軍奮闘する伊野医師(笑福亭鶴瓶)に従って診療にあたるうち、過疎地での医療活動にやり甲斐を感じるようになるのだが・・・。
すーばらしかった。ぶらぼー。
『ゆれる』で弱冠32歳の西川美和監督に日本中が度胆を抜かれたのが3年前。また度胆、抜かれました。すっげえなあ。
この映画の軸になっているのは鶴瓶演じる医師の失踪劇である。ある夕方、診療所を飛び出した彼はそのまま村人も研修医も棄てて忽然と姿を消してしまう。彼ひとりに全員の健康を預けていた村人たちは大騒ぎで警察を呼ぶのだが、捜査によって発覚したのは意外な事実だった。その捜査過程と並行して、2ヶ月前に相馬が村にやって来て伊野が去るまでの経緯が描かれる。
初めはだから、観客はなぜ彼が蒸発したのかがまったくわからない。ところがこうして時制を並行して語られていくうち、彼の失踪が実は、人として、医者として必然であったことが、ごく自然に、自ずから感じとられてくる。
何の説明もなく静かにじわりと浮かび上がって来るその感覚から、人間愛の深さと穏やかさ、その語りがたさが切実に伝わってくる。
そしてそんなことが、まだ30代半ばの、それも日本の商業映画にはほとんどいない女性作家によって、ここまでしっかりと表現されてしまっていることに、一種の恐ろしささえ覚える。
くりかえしになるが、この映画のすごいところは、重要なことは全部画面の外で起きていて、画面上では何ひとつ説明していないのに、すべての感情が、エピソードが、まるで自分の目でほんとうに観たかのような現実性にみちているところである。
そして、そう感じる観客のリアクションそのものが、この物語の核となっている。つまり物語の中心と、物語によって起きる現象が入れ子になっている。ホントにすごいよ。ふつーそんなこと思いつかない。
何がいいたいかとゆーと、観客はあくまで単なる「映画」を観ているだけで、スクリーンの向こうで起きていることはほんとうには観ていないはずである。それでもまるで観たかのような、わかったかのような気分にさせてくれるのが映画のおもしろさである。
物語の中でも、これとまったく同じことが描かれる。村人は誰ひとり、神と崇めて頼りきっている伊野医師その人のことを何ひとつ知らない。それでも自分たちに都合の良い存在=“優秀で親切な本物の医師”として無批判に受け入れて満足している。勝手な幻想が自動的に補強されていく危うさに誰も何の疑問も持っていないという異常性をも、結局はみんな伊野ひとりに押しつけて納得してしまう。矛盾しまくってるけど、似たようなことはどこでも起こり得るのが人間関係の真理かもしれない。
鋭いよ。鋭すぎるよ。コワイよう。けど素晴しい。
『ゆれる』もキャスティングが良かったけど、今回も素晴しい。
鶴瓶はいうまでもないけど、いちばん光ってたのは香川照之。ホントにこの人はすごい。全然!まったく!演技にみえない。いるいるいる、こーゆー人、いるよ!とゆー、リアリティにおいて今の日本映画界にこの人を置いて右に出るものはないでしょー。
笹野高史と余貴美子は『おくりびと』とキャラもポジションもカブり過ぎてて笑える。ふたりともいい演技してるけど、却って逆に似たシチュエーションとテーマを持つふたつの映画の完成度のギャップが際立つ(どっちが上かはいうまでもなし)。
シンプルな音楽もよかったし、美術や衣裳も文句ナシ。最近観た邦画がハズレ続きでへこんでたけど、いいのもちゃんとあるんだよね(爆)。当り前だけどさ。
またこんないい邦画、観たいなー。
住民1500人中半数が高齢者という山村の診療所にインターンとして派遣された研修医・相馬(瑛太)。4年前まで無医村だった田舎で孤軍奮闘する伊野医師(笑福亭鶴瓶)に従って診療にあたるうち、過疎地での医療活動にやり甲斐を感じるようになるのだが・・・。
すーばらしかった。ぶらぼー。
『ゆれる』で弱冠32歳の西川美和監督に日本中が度胆を抜かれたのが3年前。また度胆、抜かれました。すっげえなあ。
この映画の軸になっているのは鶴瓶演じる医師の失踪劇である。ある夕方、診療所を飛び出した彼はそのまま村人も研修医も棄てて忽然と姿を消してしまう。彼ひとりに全員の健康を預けていた村人たちは大騒ぎで警察を呼ぶのだが、捜査によって発覚したのは意外な事実だった。その捜査過程と並行して、2ヶ月前に相馬が村にやって来て伊野が去るまでの経緯が描かれる。
初めはだから、観客はなぜ彼が蒸発したのかがまったくわからない。ところがこうして時制を並行して語られていくうち、彼の失踪が実は、人として、医者として必然であったことが、ごく自然に、自ずから感じとられてくる。
何の説明もなく静かにじわりと浮かび上がって来るその感覚から、人間愛の深さと穏やかさ、その語りがたさが切実に伝わってくる。
そしてそんなことが、まだ30代半ばの、それも日本の商業映画にはほとんどいない女性作家によって、ここまでしっかりと表現されてしまっていることに、一種の恐ろしささえ覚える。
くりかえしになるが、この映画のすごいところは、重要なことは全部画面の外で起きていて、画面上では何ひとつ説明していないのに、すべての感情が、エピソードが、まるで自分の目でほんとうに観たかのような現実性にみちているところである。
そして、そう感じる観客のリアクションそのものが、この物語の核となっている。つまり物語の中心と、物語によって起きる現象が入れ子になっている。ホントにすごいよ。ふつーそんなこと思いつかない。
何がいいたいかとゆーと、観客はあくまで単なる「映画」を観ているだけで、スクリーンの向こうで起きていることはほんとうには観ていないはずである。それでもまるで観たかのような、わかったかのような気分にさせてくれるのが映画のおもしろさである。
物語の中でも、これとまったく同じことが描かれる。村人は誰ひとり、神と崇めて頼りきっている伊野医師その人のことを何ひとつ知らない。それでも自分たちに都合の良い存在=“優秀で親切な本物の医師”として無批判に受け入れて満足している。勝手な幻想が自動的に補強されていく危うさに誰も何の疑問も持っていないという異常性をも、結局はみんな伊野ひとりに押しつけて納得してしまう。矛盾しまくってるけど、似たようなことはどこでも起こり得るのが人間関係の真理かもしれない。
鋭いよ。鋭すぎるよ。コワイよう。けど素晴しい。
『ゆれる』もキャスティングが良かったけど、今回も素晴しい。
鶴瓶はいうまでもないけど、いちばん光ってたのは香川照之。ホントにこの人はすごい。全然!まったく!演技にみえない。いるいるいる、こーゆー人、いるよ!とゆー、リアリティにおいて今の日本映画界にこの人を置いて右に出るものはないでしょー。
笹野高史と余貴美子は『おくりびと』とキャラもポジションもカブり過ぎてて笑える。ふたりともいい演技してるけど、却って逆に似たシチュエーションとテーマを持つふたつの映画の完成度のギャップが際立つ(どっちが上かはいうまでもなし)。
シンプルな音楽もよかったし、美術や衣裳も文句ナシ。最近観た邦画がハズレ続きでへこんでたけど、いいのもちゃんとあるんだよね(爆)。当り前だけどさ。
またこんないい邦画、観たいなー。