落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

ビョーキな人々

2007年08月25日 | movie
『シッコ』
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国民保険制度がなく、国民の6人にひとりは健康保険に加入しておらず、年間1万5千人が保険未加入によって適切な治療を受けられずに命を落とす国、アメリカ。
よしんば保険に加入していても、必要な医療がみんな平等に受けられるとは限らない。保険会社は民間企業なので、あの手この手で医療費の負担から逃げまわる。保険でカバーされなければ治療は受けられないから、平均的なアメリカ市民は大病にかかっても治療を受けられずにやはり死ぬ。治療を受けた後で本人も知らなかった契約違反を指摘されて解約され、莫大な借金を負うアメリカ人もいる。
アメリカには世界最高の医療技術がある。医学界の最高峰と称される研究機関もみんなアメリカにある。
でもその恩恵を受けるのはアメリカ人じゃない。国民保険制度のある他の国の人たちは、それぞれの国の保険料や税金で、アメリカで開発されたクスリや技術によって思う存分治療を受けている。ま、開発してるのも実質よそからアメリカに留学した外国人だったりするんだけどさあ(爆)。

この映画を観ていて印象的なのはむしろ、アメリカの医療制度の「ビョーキっぷり」よりも、アメリカ人の世界観の狭さの方だ。
なんでもカネ、ひたすら拝金主義がすべての価値観の基礎となっているアメリカ人。よく知りもせずに国民保険制度=共産主義(笑)を怖がるアメリカ人。怪我や病気はいつ誰に起こってもおかしくない災難なのに、我が身にふりかかるまでは完全に他人事としか思わないアメリカ人。
マイケル・ムーアのドキュメンタリーは一面的で客観性に欠けるという批判ももちろんある。でも、その一面的で主観的な話法にも一貫した狙いがあることがこの作品をみているとはっきりとわかる。
「ビョーキ」なのはアメリカの医療制度だけではなくて、自らの国の異常性に気づこうとしないアメリカ人の意識の方なのだ。彼はそのことに対して警告しているのだ。医療制度以前の問題だよと。
子どもが熱を出して病院に連れていっても診てくれる医者がいない国、クスリを買うために80代の老人が肉体労働に従事しなくてはならない国、保険が下りないからという理由で入院患者を道に捨てる国、そんな国はやっぱりおかしいし、おかしいってことをまずアメリカ人自身が気づかなくてはならない。
星条旗ふりまわして威張ってる場合じゃないですよと。

けど日本も他人事じゃない。
この映画にはカナダ・イギリス・フランスの保険制度が紹介されているのだが、この3ヶ国では医療費は全額国が負担する。病気になったり怪我をしたりしても、国民はお金の心配をする必要がまったくない。医者や病院を選ぶのも国民の自由だし、イギリスでは低所得者には病院までの交通費も払ってもらえるし、フランスでは病後の有給休暇も国が補償してくれる。
日本にも国民健康保険はあるけど、ここまでじゃない。そして年々自己負担率はなんだかんだと高くなっていっている。国や自治体が治療費を一部カバーしてくれる病気もあるけど、既往によってはカバーされないこともある。
映画には紹介はされてなかったけど、カナダやイギリスやフランスの医療制度にだって欠点はきっとあるだろう。それでもやっぱり、具合が悪くなったら誰でもいつでも安心して医者を頼れる社会はすばらしいし、医学はそのためにあるべきだ。
決して金儲けのためではないはずだ。断じて違うと思う。

トータルすると、『ボウリング・フォー・コロンバイン』『華氏911』に比べると手はこんでるけど印象的というほどの作品にはびみょーになってなかったです。おもしろかったけどね。
ムーアの次回作のテーマは「アメリカの同性愛差別」、楽しみにしてまーす。

護憲はギャグで

2007年08月20日 | book
『憲法九条を世界遺産に』 太田光・中沢新一著
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読むぞ。読まねば。読もう。と思い続けてやっと読んだ。んなご大層な本でもないのに(爆)。
「憲法九条を世界遺産に」てイキナリ何ゆーねん、なタイトルだけど、ギャグなんだよね、半ば。半分はマジだけど。
改憲論議なんてもう正攻法じゃ語れない。じゃあギャグで、みたいなアプローチはぐりは好きです。内容の是非はおいといて(例によってめんどーなので)。

今の日本国憲法は日本人じゃなくてGHQ、とゆーかアメリカがつくったものだから改めて日本人がつくりなおすべき、という主張をもっともらしくする方々も世の中にはおられるそーですが、ぐりはぶっちゃけ「それの何がイカンの?」とか思っちゃう。れっきとした独立国が戦争する権利をもってないなんてヘンだ、と怒る方々もおられるけど、ぐりは「ヘンかもしんないけどべつにいいじゃん」とか思っちゃう。スイマセン馬鹿で。
この本では、九条が正しいとか正しくないとかそーゆーことは別として、国が国民に「戦争しません」と約束した九条の存在を、人類の究極の理想論と定義している。そんな約束を守るのが現実にどーゆーことかってのはおいといて、理想としては、誰だって戦争なんかない方がいいってことはわかっている(お金儲けのために戦争をしたい人もいるだろーけど、そーゆー人も混ぜると話がややこしくなるのでのけます)。それを法律にして国民に約束してくれてる国は、後にも先にも地球上には日本しか存在しない。そんでその憲法が60年も変わらず守られてる。
それってすげーじゃん。
だから世界遺産。なるほど。

読んでためになるほどではないと思うけど、護憲論の一側面としては興味深い本だとは思います。量も少ないしね。

おっさん、ダレ?

2007年08月19日 | movie
『ボウリング・フォー・コロンバイン』
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『華氏911』も映画としておもしろかったけど、ぐりはどっちかといえば『ボウリング〜』の方が好きだ。
『ボウリング〜』の方が問題がより複雑で、より身近だからだ。少なくとも、全米ライフル協会会員でもあるマイケル・ムーア自身も含めたアメリカ市民にとって、という意味だけど。
『華氏911』における「敵」はやはりどうしても「国家」であり「政府」という「他者」にみえる構図になってしまっている。でも、アメリカの銃犯罪の敵はアメリカ市民自身であり、銃から市民を守るのも市民なら、銃で市民を脅かすのもまた市民だ。アメリカ人は自ら恐怖と敵をつくりだし、自分でつくったものに怯え、憎しみあっている。これこそが自由の国アメリカの偉大なる矛盾そのものだ。

途中からなんだか『スーパーサイズ・ミー』と展開が似てくるのが不謹慎な?ェらおかしかった。
誰にも食べきれないほどの量のファーストフードが現実に不必要なのと同じように、ごく当り前の市民生活に銃なんて必要ない。あるだけ危険を招く無用の長物だ。ではなぜアメリカにはこれほど銃が氾濫しているのか。国内紛争中でもないのに、人口3億人の国に2億丁の銃はどう考えても多すぎる(ちなみにアメリカと同じく一般市民の銃所持が認められているカナダは銃700万丁/人口3000万人、狩猟用が多い)。しかもその多くは、犯罪発生率の高い都市部ではなく郊外の一般家庭に置かれている。一体なんのために?
アメリカ人に聞けばみんな「自分の命は自分で守る、それがアメリカの文化だ」という。しかし罪もない人々が年間1万人以上も銃犯罪で命を落とす事実を前にして「文化」なんてユルイことをいってる場合じゃない。家族や財産を守るために一般市民に売られている銃でだって、学校や銀行を襲うことはできる。「敵」から故郷を守るために民兵の訓練を受けた若者が、暴力事件やテロ行為に走らないとは限らないのと同じだ。

アメリカで銃犯罪が多発するのは銃が氾濫しているからではない。もちろん違う。
しかし、もしアメリカ社会がもっと銃規制に前向きなら、銃犯罪以外の犯罪も防げるようになるかもしれない。銃はある意味でアメリカ人の幻想の象徴だからだ。強くありたい、守られていたい、安心していたい、銃があれば大丈夫、というアメリカ人の幻想。実際には銃があったってそんなものなにひとつ保証なんかされない。確実なものなんて何もない。
平和な市民生活を守るのは、暴力ではなく平和でしかない。平和はお金では買えない。ましてスーパーマーケットの銃売り場なんかでは手に入らない。
そのことを、説教くさく観念的な答えを一方的に押しつけるのではなく、それでいてわかりやすく現実的に導き出したこの映画は、やっぱりいいドキュメンタリーだと思う。社会派ドキュメンタリー=真面目くさって理屈っぽい映像ジャンルという垣根を思いきりよく吹っ飛ばした上で、幅広い当事者それぞれにきちんと取材をして信憑性のあるインタビューをとるスタイルによって、ドキュメンタリー映画の社会的地位をめざましく向上させたという意味でも、功績の大きい作品だといえるし、そういう社会的・映画史的側面はべつにしても、ぐりは個人的に好きな映画です。ハイ。

ところでぐりはチャールトン・ヘストンの出演作って1本も観たことない(爆)。てか全米ライフル協会会長(現在は退任)って以外なんもしらんよ。このヒトについて。
ダレ?(爆)
無知でスイマセン。

I am not a hero.

2007年08月18日 | movie
『フリーダム・ライターズ』
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ロス暴動から2年後の1994年、ロサンゼルス・ロングビーチの公立高校に赴任した新米国語教師エリン(ヒラリー・スワンク)は、幼いころから貧困や暴力や犯罪や虐待など悲惨な境遇に晒され荒みきった生徒たちに日記帳を配り、自身の声で心の叫びを言葉に綴るように勧める。初めは白人=支配階級の教師に反発する子どもたちだが、やがて互いに深い信頼で結ばれるようになっていく・・・とゆー、まあありがちな熱血教師の感動物語です。
ただしこの映画は実話に基づいていて、作中で朗読される日記は、実際の生徒の書いたものがそのまま引用されている。
完全に破綻して久しいというアメリカの教育システムだが、教育熱心で生徒に信頼される女性教師のことを「ミスG」と呼ぶ習慣は今や全米に広まっている。「ミスG」とは、この物語のヒロイン─エリン・グルーウェルのニックネームに因んでいる。

物語はすごくいいと思う。感動的だ。そこは間違いない。
けど映画としては地味すぎます。物語を効率よく再現して簡潔にまとめるだけでいっぱいいっぱい、そこからもう一歩、登場人物たちの内面に踏み込むといった表現にまでは至っていない。
話ができすぎているだけに、これでは却ってしらじらしくみえてしまうのが残念だ。
シナリオが悪いわけではない。人物の繊細な表情をきちんと観客にみせるようなライティングやカメラワークや編集などの、演出的なディテール描写の問題だと思う。たとえば生徒たちがホロコーストの意味を知らないことにエリンが驚くシーンや、エリンが高学年を教えられないことに騒ぎ出す生徒たちに困惑させられるシーン、エバ(エイプリル・リー・ヘルナンデス)が偽証を拒むシーンなどなど、人物の心の震えや揺れが画面にみえてこずに不完全燃焼感を感じる部分が多すぎる。
招待されたミープ・ヒース(パット・キャロル)が通訳なしに訛りのない英語を操るのにもガックリ。やたらに音楽を多用しすぎていて、映画全体もなんだかやかましい。

素晴らしい物語だけに、もっと丁寧につくってほしかった。
ただ、映画としてはとてもわかりやすくコンパクトにまとまってはいるので、登場する高校生たちと同世代の若者には文句なしにオススメな良作ではある。宣伝が不十分なのは配給のUIPの解散が決まってたからですかね(爆)?イヤ観客の年齢層めちゃ高かったからさあ。
衝撃だったのは、実在のエリン・グルーウェルがぐりとほぼ同世代という事実の方である。1994年当時23歳だった彼女は150人の劣等生に希望を与えただけではない。彼らにまっすぐに向きあい、ひとりひとりの言葉に耳を傾け、何事も誤魔化しもせず妥協もせず、彼ら自らがそれぞれに抱いている可能性を決して否定することなく後押しし続け、5年後にはみんなの日記を出版して「フリーダム・ライターズ基金」を立ち上げた。
彼女ひとりがヒーローだったわけではない。でも、彼女のように、相手にまっすぐに向かいあうということは、言葉でいうほどたやすいことでは決してない。若かった、純粋だった、勢いがあった、それだけのことかもしれないけど、現実に彼女がなしえた偉業は、逆にいうなら、人間誰にでもできる筈のことなのかもしれない。

I did what I had to do because it was the right thing to do.
(私はしなくてはならないことをしただけ、それが正しいことだったから─ミープ・ヒースの台詞)

今度原作を読んでみようと思いますが・・・その前に図書館で借りまくった本の山を崩さにゃー。
ところでspecial thanksにクレジットされてたドン・チードルは何やったんだろ?

みやこにて

2007年08月15日 | movie
『いちげんさん ICHIGENSAN』
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元テレ朝の報道記者デビット・ゾペティの同名小説の映画化作品。
けっこーボロにいう人いるけど、ぐりはふつうにおもしろかったです。まあ、傑作じゃないけどね、でもみれないってほどではないよ。原作がいいのかもしれないけど(爆)。
ロバート(エドワード・アタートン)は京都の大学で文学を学ぶ留学生。ある日、視力障害者のための「対面朗読」というボランティアで京子(鈴木保奈美)という聡明な美女と知りあう。京都の町でいつでも“外国人”として疎外感を味わわされることにうんざりしていたロバートと、大学を出て仕事もせず将来を考えあぐねていた京子は惹かれあい、恋に堕ちる。だが、やがて彼らにもそれぞれ卒業と自立という人生の岐路が訪れる。
つまりこのふたりの主人公はちょうど、人生のモラトリアムに出会ったわけだ。ガイジンの彼氏と、目のみえない彼女。どちらも常に周りから浮き上がっていることにいらだちを感じている。イヤでも仲良くなるわな。そういう意味では非常に自然なラブストーリーだ。
盛り上がりに欠けるという人もいるかもしれないけど、これはこれでぐりは好きです。キライじゃない。大体、恋愛なんて始まりがあれば必ず終わりがある。みんながいちいち泣いたりわめいたりせにゃいかんという決まりはどこにもない。

日本映画でスタッフも出演者もほとんどが日本人だけど、撮影監督がピーター・ボロッシュという、オーストラリアの人なのかな?この人は?だからウマイこと「外国人の目からみた日本」を綺麗に表現した映像になっている。それもみょーに奇を衒った風ではなくて、ごく素直に、ストレートに、そんな風にみえるんだろーなー、という見え方で、でもナニゲに微妙に新鮮な感じ。
エドワード・アタートンの全編日本語の演技はもう圧巻です。訛りはあるけど聞き取りづらいところはほとんどなくてホントに上手い。長淵剛の「とんぼ」の熱唱も上手い(笑)。ひとりぼっちで、孤独なのは京都という町のせいなのか、自分が外国人だからなのか、それとも自分自身の問題なのかと迷う心細そうな人物造形がものすごくリアル。留学生にしてはトシ食いすぎってのはご愛嬌か。
鈴木保奈美はねえ、この人はもう、セリフが棒読みってのが致命的だよね。毎度のことだけど。女優としては充分に魅力的だしセンスも悪くないはずだけど、なぜかセリフ回しだけが毎度ヤヴァい。こんなに一生懸命やってたのにね。もう引退しちゃって随分経ちますが。
あと出演者では中田喜子と蟹江敬三がすごいよかったです。

外国人からみた日本をテーマにした恋愛映画としては、淡々としてて押しつけがましさもなくて、誰にでも観やすい作品だと思います。確かに地味ではあるけどね。
ただ、もっと頑張れば文芸映画としてもっといい映画にもなれそうな余地は多少感じるので、そこはやっぱり惜しいとは思います。