落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

裏ミュンヘン

2007年03月24日 | movie
『パラダイス・ナウ』
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えーとおもしろかったです。すっごいふつーに。
自爆テロとゆーテーマだけにずごーーーーん!と重ーーーーい映画をイメージするじゃないですか。ふつー。ゼンゼンそんなことないです。も思いっきりふつーに観れます。しかもよくできている。
主人公のサイード(カイス・ネシフ)とハーレド(アリ・スリマン)は幼馴染み同士の自動車修理工。年齢は20代前半くらい、スラム育ちではあるけど、どこにでもいるごくごくふつうの若者だ。ピタTなんか着ちゃったりしてファッションは完全に西欧化されてるし、淡いラヴ♪なんかも当り前に経験したりする。それがいきなり自爆テロ。なんでやねん。
日本にいて日々の報道で自爆テロを耳にする我々の素朴な疑問。なんで自爆?どーして自爆?そこをこの映画は非常に丁寧に、でも淡々と、そして巧みに簡潔に語っている。誰にでもわかるやさしい自爆テロ講座。
けど安易に共感を求めようともしていない。共感しなくたってわかる描き方がほんとうに上手い。

観ていてここ数年に公開されたいろんな映画を思いだした。
『ミュンヘン』『ユナイテッド93』『グアンタナモ、僕達が見た真実』、どれもイスラム武装組織と西欧社会との対立を描いた映画ばかりだ。
『パラダイス〜』はそれを逆側からの視点で描いている。マスコミというフィルターの向こうにいるパレスチナ武装組織、おなかに爆弾を抱えてやってくるテロリストたちに、どんな家族がいてどんなごはんを食べて、どんな音楽を聴いているのか、指令を受けてからのふたりの運命の48時間に、そんな「真実」が表現される。けどまったく情緒的じゃない。ストーリー展開はなかなか映画的だけど、ヘンに涙や感動を押しつけたりはしない。そこにぐりはとても好感を持ちました。

この映画はとくに『ミュンヘン』に似ていた。
国のため、名誉のために罪を犯そうとする人々。大義のためなら人殺しは罪じゃない、純粋にそう割りきってみたり、迷ったり、苦しんだり、悩んだり、揺れる心はイスラエル人もパレスチナ人も同じなのだ。敵同士となって戦う彼らが信じていることが、互いにそっくり似ているところが悲しい。せつない。
暴力は何も生まない。それなのに殺しあいをやめない人間がいるのが、ぐりにはどうしても理解できない。
だからサイードに共感することはできなかったけど、映画としてはとっても優れた作品だと思います。オススメ。
映像がすっごい綺麗でした。撮影はオゾン組のアントワーヌ・エベルレ。娯楽映画としてもちゃんと観れる作品になってましたよ。ハイ。

松ヶ根乱射事件

2007年03月17日 | movie
『松ヶ根乱射事件』
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舞台は90年代、とある北国。
光太郎(新井浩文)は交番勤務の巡査。実家は酪農家だが父(三浦友和)が浮気をして家出、家業は姉の陽子(西尾まり)夫婦が継いでいる。光太郎には双子の兄・光(山中崇)がいるが、真面目な光太郎とは顔も性格も似ても似つかず、家業もろくに手伝わず、適当に遊んでばかりいる。
ある日、この光がひき逃げ事件を起こしたのがきっかけに物語が展開してくんだけど、大抵「〜事件」なんてタイトルの映画で主役が警官ったら、観客は事件が起きて警官がそれを解決する話だと思うじゃないですか。違うんだよね。

これいってみれば日本版『ファーゴ』みたいな映画です。
いや、話は全然違うよ。誰も誘拐されないし、死人も(ほとんど)でないし、あんなに暴力的な話じゃない。けど舞台がみるからに凍えそうな雪国で、絵に描いたように退屈な田舎で、主役が警官で、登場人物全員なーんかかっこわるい、ゆるーくて黒ーい、乾いたダークコメディっつーと、ぐりはどうしても『ファーゴ』を思い出す。冒頭に「実話を基にしている」とゆー(いささか胡散臭い)テロップが出るとこも似てるし。
あの映画もストーリーはどーっちゅーことないのよね。登場人物がいちいちなんかヘンで、1シーン1シーンがなんかヘンとゆー「奇妙さ」のディテールの積み重ねで映画ができている。この『松ヶ根〜』ももろにそれと同じで、1シーンそれぞれが独立しておかしいの。それも爆笑、ってほどのことはなくて「えへへ」「ぷぷぷ」みたいなこそっとした笑いなの。光太郎が「警察いこう」ってゆーシーンは場内爆笑だったけどね。さすがに。
ぐり的には虎舞竜の「ロード」とかclassの「夏の日の1993」なんとゆー、90年代を象徴するよーな(爆)選曲も爆笑もんだったけど。

新井浩文はやっぱいいですよねえ。この人、決して目立つ二枚目ではないんだけどすらっとしてて見栄えのするプロポーションしてるし、お肌もキレイだし、実はナニゲにかっこいい。警官の制服とか剣道の胴着もバッチリきまってたし。作品ごとにまったく違う演技をするし、存在感もあるし、邦画じゃ今いちばんの若手有望株じゃないでしょーか。人気じゃ松ケン@『デスノ』にゃ負けてるかもしんないけどね。
しかし山中崇はキモかったあ・・・彼が演じた光を、もうちょっとソフィスティケートさせて「母性本能くすぐり系」のだめんずとして描くこともできたと思うし、従来の邦画なら大体そうしてたと思うんだけど、あえてあそこまでキモいダメ兄に設定したことで作品の完成度がより高くなったんじゃないかと思う。

最前列にマスコミ席が設置されてて上映前に予告編が流れなかったので何かと思ってたら、上映後に山下敦弘監督と木村祐一のトークショーがあった。
とくにレポしたいよーな話はなくって、ぐりはもう山下監督の髪の毛に思いっきり寝癖がついてたことしか印象に残らなかった(爆)。いやホントすごかったの。
あとありえない続編のことで話が盛り上がりすぎて、進行を気にした監督が司会者に「あ、続編の話はもういいですか」と訊くと「考えるだけならいくらでもお好きなだけ」とものすごい返され方をしてたことくらいか。

春のめざめ

2007年03月17日 | movie
『春のめざめ』
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イワン・シメリョフ著『愛の物語』を油絵アニメーションという驚異の技法で映画化した短編。
油絵をアニメーションてまたすごいこと思いつきますよねえ。アレクサンドル・ペトロフ監督はバックライトを照射したガラス板に指で油彩画を描き、一コマ撮影するごとに少しずつ絵を描き変えていく、という手法で油絵をアニメーションさせている。旧ソビエト時代から実験アニメーションが盛んだったロシアという国柄らしい作風の映画だ。
ストーリーそのものはまあぐりはあんまりお好みではない三島由紀夫の『春の雪』みたいな、上流階級の童貞のおぼっちゃまのホヤホヤした夢幻のような恋愛と性の目覚め、そんな子どもの周囲で現実を生きる若い女性たちの悲しい運命。
ただのこの映画の魅力は、まさにすべての生命が萌えいずる春のむずがゆいようなときめきを身内に抱えた思春期の少年の、女性や恋愛や性に対する熱い憧憬と深い畏れが、春先の陽炎の向こうに揺らめくような情緒的な映像に見事に表現されている、そのヴィジュアルの美しさがすべてだ。
ぐりは申し訳ないが若者のこうした青い性にはいっさい興味も共感ももてないので話には感動できなかったけど、感情を映像に表現するという意味では確かにものすごくキレイな映画でした。
同時上映の超短編『岸辺のふたり』もよかったです。ぐりはどっちかといえばこっちのが好みだ。

わたしを忘れないで

2007年03月10日 | movie
『叫』
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デパートの化粧品売り場で販売員さんと話していたら、館内のBGMが『雨に唄えば』に代わった。
外で雨が降り出したらしい。このデパートでは雨が降ってくると『雨に唄えば』が流れるのを、前に教えてくれたスタッフがいたのだ。「傘持ってこなかったのに」というと、彼女も「私も。予報で降るっていってたんですけどね」と答えた。
外に出ると既に雨は止んでいたのだが、その後映画を観終わって席を立つ時、忘れ物がないかバッグを覗いたら、赤い折畳みの傘が入っているのが見えた。いつも通勤バッグに入れっぱなしにしているカードタイプの軽量傘だ。
今日持って出たのはその通勤バッグではない。出がけに普段のバッグから休日よく使う小ぶりのショルダーバッグに財布と化粧ポーチ、タバコとライター、携帯電話とペンを移し替え、洗濯したハンカチを入れたことは覚えている。でも、TV(=天気予報)をみないぐりが、いつどういう発想で折畳みの傘をそこへ入れたのかはどうしても思い出せない。

こんな具合に、人間の記憶とはきわめてあやふやで頼りないものだ。
覚えているはずのことが思い出せない。忘れるはずのないことを忘れる。
逆のこともある。覚えていたくないことを、人間は「忘れた」ことにしてしまうことができる。その方がラクだから。というか、この能力があるからこそ人間は正気を保って生きていられるのだろう。覚えておく必要のない情報は自動的に記憶の表層から削除されていく。 その取捨選択の基準には、「覚えていたくない」「忘れたことにしたい」「できればなかったことにしたい」という逃避願望も含まれている。相手がどん?ネに「覚えていてほしい」「忘れないでほしい」と切実に願っていても、人はしばしば自分が「覚えていたくない」「忘れたい」ことをさっぱ?閧ニ忘れてしまう(そううまくいかないこともあるけど)。一旦「忘れて」しまったら、記憶の方から「おまえはそれを忘れていてもいいのか?H」と問われでもしない限り、それはいつしかほんとうに「なかったこと」になってしまう。
実際には人間の脳は「忘れる」ってことはないらしいけどね。自分の意思でその記憶を意識の上に引き出せないだけで。ということは、人間は自分の意思でどうしようもない膨大な“記憶”という別の“自己”を抱えて生きているということになる。
『叫』はそんな“人間の記憶という暗く得体の知れない深い海”についてのサスペンスホラーだ。

もーーーーーお、チョー怖かったよおー。なんつうかねえ、誰が怖いとか、話が怖いとか、そういうことじゃないのよ。世界観が怖いのよ。黒沢清だからねー。
観てる間じゅう、「あなたはどうなの?え?あなたは自分がやったこと全部覚えてられる?ホント?責任もてる?忘れたことにして、忘れたフリしてること、ないの?ねえ?」とゆー、ドスの利いた葉月里緒奈の声が頭の中でわんわんと鳴り響いているよーな気分だった。今も?ソょっとそんな気分かも。
葉月里緒奈コワかったあ。ある意味「貞子」っぽい。キャッチーな衣装とか、すさまじい形相とか。
“思い”が伝播するという部分は『リング』に通じるところはあるけど、たぶん『叫』の怖さは『リング』みたいには若い子や子どもにはわからないんじゃないかな?この主人公吉岡(役所広司)の「オレは何をやったんだ?いや、オレは何も知らないはず・・・アレッ?」という、自分で自分を信じられない、記憶の頼りなさからじわじわと広がる恐怖感って、やっぱ物忘れを自覚している、“老化”が始まった後の世代でないと実感涌かないんじゃないかな?どうでしょう?

予告編は例によってメチャクチャだったけど、本編そのものは期待通りおもしろかったです。
シナリオがすんごいミニマムになってて、黒沢清も巨匠化してんなとは思いましたが。そこは好き嫌いの分れるところかな?ぐり的にはもちろんOKッス。
美術も音響設計もいうことなし。いうことがあるとするなら、いささかキャスティングが豪華過ぎってことくらい。オダジョーとか加瀬亮とか全然出てこなくてよかったもん。つかむしろもっと誰だかわかんない人のがよかったかも。あの役柄なら。野村宏伸はまたどーしよーもないボンクラ役がハマってておかしかったけど。
葉月里緒奈は素晴らしかったです。怖さも含め。この人、けっこう好きなんでもっと活躍してほしいんだけどね。

ディテールに神

2007年03月04日 | movie
『ボビー』
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1968年6月5日、ロバート・F・ケネディ上院議員がロサンゼルスのアンバサダーホテルの厨房で銃撃された。
ホテルには当時さまざまな人がいた。ホテルの従業員─支配人・シェフ・ボーイ・電話交換手・美容師・ウェイトレス・ドアマンetc.─、滞在客─歌手・マネージャー・ハネムーン客・結婚式を挙げる新婚夫婦・ヒッピー─、そして選挙関係者─議員秘書・選挙ボランティア・マスコミ─。
この映画はそんな無数の人々のそれぞれの1968年6月5日を描いている。選挙のために働く若者、サボる若者、ホテルの仕事をする若者、不倫するカップル、夫婦喧嘩をするカップル、これから夫婦になるカップル、それぞれがそれぞれの感情を抱いて1968年6月5日という一日を生きていた。

まあはっきりと地味な映画です。すんげえオールスター豪華共演だけど。美術も音楽も脚本も映像も非の打ち所がありませんが。地味なものは地味。
でも地味でいいじゃん。地味でなにがいけないんですか。と開き直ればこれはいい映画です。そこは間違いない。ひじょーに真面目な、良心的な佳作です。
この映画の最後はロバート・F・ケネディの演説で終わる。画面には銃撃後の混乱したホテルの情景が映っている。そこにオフスクリーンでボビーの声が重なる。一部引用する。

地上での私たちの人生はあまりに短く、なすべき仕事はあまりに多いのです。
これ以上、暴力を私たちの国ではびこらせないために。
暴力は政策や決議では追放できません。
私たちが一瞬でも思い出すことが大切なのです、
ともに暮らす人々は、皆、同胞であることを。
彼らは私たちと同じように短い人生を生き、
与えられた命を、私たちと同じように最後まで生きぬきたいと願っているのです。

(劇場用パンフレットより)

マスコミやホテルスタッフやパーティー客でごったがえした厨房で起きた銃撃事件。
もちろん巻き添えになった人もいた。
この映画は全編そっくり、この演説を聞かせるための映画だ。
いい演説だと思う。正論だと思う。理想論かもしれないけど、ストレートでまともな演説だ。
けどもう今の時代、ただ正論を吐いただけでは誰も振り返らない。
だからそれがなに?で終わってしまう。
あのとき、1968年6月5日、ボビーが撃たれた時、そこにいたのはこんな人たちでした、と懇切丁寧にひとりずつ説明することで、人間誰もが「私たちと同じように短い人生を生き、与えられた命を、私たちと同じように最後まで生きぬきたいと願っている」という当たり前のことを、実感のこもった言葉にしてもう一度伝えようというのが、この『ボビー』という映画だ。
きちんとしたいい映画です。感動的。これもオススメです。