落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

負け犬 in Paris

2009年01月31日 | movie
『ブロークン・イングリッシュ』

ニューヨークのホテルでマネージャーとして働くノラ(パーカー・ポージー)は30代後半の独身、いわゆる「負け犬」。ある日パーティーで出会ったフランス人のジュリアン(メルヴィル・プポー)に熱烈にアプローチされて恋に堕ちるのだが、2日後に彼は帰国。いっしょにパリに行こうと誘われたものの、臆病なノラは素直に同意することができないでいた。

うーん。やったぜ。
もうどのシーンもどのエピソードも、「そうそうそうそう!」「わかるよそれ!わかるわかる!」の連続なんだよー。心の中でばんばんと膝を打ちまくりで、妄想のフトモモがまっかに腫れております(笑)。それくらいリアルなの。観てる間中ニヤニヤしっぱなしさあ。
まず主演のパーカー・ポージーがイケてないってとこがいい(爆)。いや魅力的なんだけどね。それにしてもちょっと必要以上に老けこみすぎてるとゆーか、よれてる。痩せ過ぎてるし、ヘアスタイルもダサいし、お肌もたるんじゃってるし、大体歩き方からしてヤバい。ガニ股で猫背でおなかを突き出して、よたよたというかほてほてというか、見るからに自信のなさそうな歩き方なんだよね。負け犬芝居もここまで来れば完璧っす。
そんな彼女が有名人にナンパされてほいほいついてっちゃって舞い上がって大失敗しちゃったり、親のアレンジで見合い?みたいなことをしてしょっぱい目に遭っちゃったり、そんな災難続きのせいで白馬の王子=ジュリアンの登場にひよってしまったり、もうその気持ちがいちいちものすごくわかる。痛々しいくらいすごくわかる。

そもそもフランス人は口がうますぎるんだよね。ぐりは10年以上前にパリでナンパされたことがあるんだけど、そのときのフランス男の台詞がおかしくて未だに笑える。「Your hair is very beautiful」ときたもんだ。ちなみに当時ぐりは肩までの髪にワッフルパーマをかけていて(細かい三つ編みにしてパーマをかける)、ぱっと見にはプードルみたいな、ぶっちゃけとんでもないヘアスタイルにしていた。その髪を見て「すげえ髪型してるね」なんて呆れる人はいっぱいいたけど、ビューティフルっておかしい。ヨイショするにしてもそこなの?みたいな。
まあ日本にいても声をかけてくる外国人男性って口がうまいよなあって思うことはよくあるけど、アメリカ男はああいう歯の浮くよーなことってあんましいわないのかしら?この映画に出てくるアメリカ人男性は全員が揃いも揃って口下手だったけどー。
ただ口が上手いだけならまだしもメルヴィル・プポーですよ。王子ですよ。そりゃー誰でもびびりますわね。当り前でございます。「好きだ」「理想の女性だ」なんて口では誰だってなんとでもいえる。いっしょにいて楽しいけど、ホントにこれでいいのかな?あたしホントに彼といっしょにいていいのかな?これ以上ムダに傷つくのはやなんだけどな・・・って思うさ誰でもー。

ストーリーそのものはとくに斬新さはないけど、展開がスピーディーでディテールの表現が的確で、観客を立ち止まらせない構成がとても練れている。新人監督の作品とは到底思えません。さすが血は争えない。
音楽とかファッションもよかった。ノラの衣裳がみんなかわいくて、どれも着てみたくなりました。ゴージャス!ってんではなくて、さりげに個性的な感じがすてきー。
メルヴィル・プポーは最近ハリウッド作品に続けて出てるみたいですが、正直あんまし安売りはしてほしくないかなー。こういう王子キャラな役が続いてるのも微妙に気になる。ちょっとファンなので・・・。
あとイタかったのはヒロインの親友オードリー(ドレア・ド・マッテオ)がダンナ(ティム・ギニー)にイラついて、そんな自分にブルーになってたとこ。傍目にはいい条件の相手と結婚して幸せそうに見えてるから、そんな結婚に不満な自分が間違ってる気がしてなんかしんどいとゆー、えもいわれぬ気分。女ってゼータクな生き物です。そこがかわいいんだよ、っていってくれる男性ばっかりだといいんだけどね。

愛は愛でも

2009年01月31日 | movie
『ロルナの祈り』

アルバニアからベルギーにやって来たロルナ(アルタ・ドブロシ)は国籍目当てにクローディ(ジェレミー・レニエ)と偽装結婚。無事に身分証を得たのちにクローディは地下組織に殺される運命にあったが、薬物中毒の彼に同情したロルナは必死に組織に抵抗をこころみる。

宣伝ではまるでロルナとクローディの間に恋愛沙汰でもありそーな雰囲気だったけど、そーじゃないですね。これ。
ロルナ超つめたいっす。もうもろにクローディを邪険にし過ぎっす。仮にも夫なのにい。偽装だけど。
でもヤク中じゃどーしよーもないよねー。しょーがない。ぐりでも邪険にしちゃうかも。
一方のクローディは果たしてほんとうにロルナを愛していたのか。それもよくわからない。ただ、健康な彼女を日々間近にみて、更生したいと強く意識し始めてたことだけは確かだと思う。その彼の気持ちを愛とみてとるには、彼のすがりつき方があまりに一方的過ぎる気もする。相手の気持ちなどまったくおかまいなしに、乳を求めて泣く子のように、溺れる者が藁にもすがるように、彼はロルナにしがみつく。
けど実は、それが愛かどうかなんて女にはわりとどうでもいいことだったりする。女ってあんな風にすがられたら本能的に「守ってやりたい」と感じてしまう生き物なんじゃないかな?あんな風に求められて、それを蹴りとばしてはね除けてまで、生きようと死のうと自分には関係ないと開き直れるほど、女の心は強くないんじゃないかな?
そこに理屈とか利害は関係ない。母たる女性の生き物としての本能の問題なんじゃないかなあ。

ロルナだって最初は自分の利益のためにクローディを利用してそれで済ますつもりでいた。ところがどうしても彼をみすみす死なせる気にはなれない。
そこで組織が彼を殺して彼女を未亡人に仕立てる前に(彼女には次の偽装結婚が予定されていた。後がつかえていたのである)、家庭内暴力をでっちあげて離婚調停を申し立てる。そのために自分で自分の身体に傷までつける。それでも、その段階までは彼女はクローディに個人的な感情は持っていない。少なくとも自覚はしていない。単に殺人の片棒までは担ぎたくないという罪悪感からそうしたまでのことである。
彼女の企みが失敗したあとも、彼女はそうして自覚した自分の良心に今度は自分でしがみつこうとする。消えてしまった相手への感情が、思いが、心の中から遠のいていくのがどうしても許せない。自分が誰かの一生を奪ったのかという現実が受け入れられない。
それは果たして愛なのだろうか。

90年代から国際問題化している移民問題を題材にしてはいるけど、基本的には女性の母性、女性の女性たる根源的な感情をミニマムに描こうとした力作だと思う。ちょっと地味だけどね。
しかしイタリアマフィアってどこでもトラットリアやってるもんなのかしらん?んでなんでロシアンマフィアってあんなにコワいんやろ?マフィアのコワさ番付なんてのがあったら、ぐり的にぶっちぎりナンバーワンは今のところロシアなんだけど、実際のところはどーなんでしょーねー?


関連レビュー:
『この自由な世界で』
『題名のない子守唄』
『13歳の夏に僕は生まれた』
『あたたかな場所』
『イースタン・プロミス』
『ファーストフード・ネイション』

当事者って誰だ

2009年01月31日 | lecture
ピープルズプラン研究所主催「一度に読み解くセックスワークと人身取引」の第4回<人身取引禁止動向とアメリカの影>に行って来た。

今回の話題は前回と次回のつなぎみたいなもので、議題としては地味とゆーかゆるい話が多かった。
でもつなぎはつなぎでも結構重要な話だったりもする。

*冷戦終結とともに拡大した経済のグローバル化。
90年代以降に顕在化した移動労働問題の背景にはこれに伴う情報(ライフスタイル)の拡散がある。
そこにはやはり冷戦終結とともに普及したインターネットの存在がある。
インターネットがもともと軍事用に開発された情報技術だったことは知られているが、冷戦が終わって情報統制が解除され一般に開放されたのがこの新しいメディアの発達のそもそもの出発点である。

*人身取引の国際問題化。
国連で国際組織犯罪防止条約・人身取引議定書が採択されたのは2000年。
人の自由な行き来をも制限する非民主的なこの条約の効力が飛躍的に拡大したきっかけは、翌年に起きたアメリカ同時多発テロだった。
日本では2004年に人身取引対策行動計画が策定され、2005年に刑法に人身取引罪が追加された。
ちなみに日本には「日本人を国外へ売っちゃあいかん」とする法律はもともとあったのだが、「海外から人を買って/連れて来て売ってはいかん」とゆー法律はなかったそうだ。

*その人身取引対策行動計画のきっかけになったのは、かの有名なアメリカ国務省発行のTrafficking in Persons Report
2004年度版で日本は名指しで「要注意国」と批判され、慌てて法整備にとりかかった。
ところがこの報告書、完全にアメリカ国内の基準で書かれており、ワールドスタンダードと判断することはとてもできない。
たとえばブッシュ政権は「人身取引は人権問題ではなく安全保障問題である」と名言していて、この報告書で人身取引問題に取りくんでいないと判断された国には経済制裁も辞さないとしていた。つまり問題をごくおおっぴらに軍事的・政治的に利用しているというわけである。
しかしこの報告書は国務省の担当官がたとえば日本なら日本の人身取引に関わる専門家をアメリカ大使館に呼びつけて聞き取り調査をして書いたというだけのもので、ここまで政治力を持たせられるほどの信憑性はまったくない。被害者や人身取引事件の逮捕者など当事者への聞き取りや、綿密な現地調査などが行われている形跡はないらしい。
逆にいえば、国務省が書きたいように書くために、専門家の聞き取りを言い訳にすることもしようと思えばできてしまう。

あとこれは本筋とはまったくべつの興味深い話。
講師の青山薫氏が上梓した『「セックスワーカー」とは誰か』がある賞(失念)の候補となったのだが結果的に選には漏れた。
その理由が、選考団体がセックスワークそのものを認めておらず、セックスワーカーの労働環境整備を訴えたこの本を認めるわけにいかない、ということらしい。
アメリカでも日本でもどこでも、フェミニズムや人権問題を訴える人々の中にはセックスワークそのものを悪と決めつけ、全否定する向きはかなり多い。だがその考え方がセックスワーカーへの心ない差別をうみ、差別がセックスワーカーの抱える諸問題を助長しているということがなぜ理解されないのか、ぐりにはよくわからない。
セックスワークをこの世の中から完全に排除することなんか土台不可能なのに、どうしてそれができると思える人がいるのか、不思議でしょうがない。そんなのただの傲慢じゃないの?


JR奈良駅旧駅舎。いったん取壊しが決まって隣に仮設駅舎が建てられたんだけど、地元住民の反対でまだそのままになってるらしい。
立派な建物なのに、なんで大事にとっとかないのかな?ここにあったサモトラケのニケはどこ行ったんやろー?

洋服は好きですか

2009年01月30日 | diary
先月の記事で「自分なりのファッションを楽しむのは好き」と書きましたが。

ぐりは普段TVを観ないし、ファッション雑誌も月に一度美容院に行ったときくらいしか読まないので(でも大概はNewsweekを2号ぶん読むだけで終了)、ファッションの流行にはかなり疎い。
もともと流行にはそれほど興味はない方だと思う。最新モードには興味はあるからファッションショーのニュースはチェックするけど、あれは流行とゆーより服の造形美が好きなんだよね。ヘンな服が好き。だからその逆の、よく中吊り広告で見かける「モテ系」とか「愛されファッション」みたいのにはさーっぱり関心がない。
自分が着る服を選ぶ基準は、着てて心地良くておもしろい服。かわいいとか綺麗とかそーゆーのは割りと重要じゃないです。あとはまあまあ似合ってればそれでよし。
ただメイクやヘアスタイルの流行は微妙に気になる。やっぱし客観的に「ヘンな髪型」とか「ヘンなメイク」の人に見えちゃうのは不本意なので。たまにそういう人を見かけると「気をつけよう」とか思ってますが、自分では自分のヘアスタイルやメイクがOKかどーかはよくわからないので、ときどき周りの人に「アタシ大丈夫?」なんて確認したりしてます。ヘアスタイルは基本的に美容師さん任せなのでそれほどヘンじゃないと思うんだけど、メイクは自信ないわー。これ読んでるリアル友だちのみなさま、ぐりがヘンなメイクしてたらダメ出しお願いします。

逆に服はたまに「変わった服着てるね」「ヘンな靴履いてるね」とかいわれるけど気にならない。
これも先月書いたけど、ここしばらくで急に痩せたのでこの数年に買った服が全部ブカブカになってしまい、押入れにしまってた20代のころの古い服をひっぱり出して着てるけど全然ヘーキっす。デニムなんか股上深いよー。今のデニム全部ヒップハングだもんね。寒い季節は重ね着するから良いけど、夏はさすがにちょっとマズイかも。
けどそうやって着てる古い服を見て「それかわいいね。どこで買ったの?」なんていう人もいるので、流行なんてあてにならんもんですわー。ぐりのワードローブは7割以上が古着で、中には古着で買って15年以上経ったのもあったりするんで、どこで買ったかなんてほとんど覚えとりゃせんのですけども。覚えてても店なくなってたりしてね。
ただもともと流行と関係ない服が趣味だから、多少古くても見た目にあまり気にならないデザインのが多いってこともあるかもしれない。急にサイズダウンしたりするようなことがあるとこれは意外に便利です。
まあそーゆーことは誰にでもしばしば起こることではないですけども。


京都にて。ちっちゃい家。

Play House

2009年01月29日 | movie
『レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで』

1950年代のコネチカット州。日々の単調な仕事に飽き飽きしていたOA機器メーカー勤務のフランク(レオナルド・ディカプリオ)は、妻エイプリル(ケイト・ウィンスレット)に「私が働くから、会社を辞めてパリで出直そう」と提案されて戸惑いつつも同意するのだが、その矢先に彼女の妊娠が発覚。堕胎してでもパリ行きにこだわる妻と、昇進のチャンスを前に仕事を手放すことに逡巡する夫との間には徐々に溝が広がり始め・・・。

アメリカでは有名な小説『家族の終わりに』の映画化作品。原作おもしろそうですね。是非とも読んでみたいです。
ケイト・ウィンスレット主演でサバービアものといえば『リトル・チルドレン』ですな。めちゃめちゃキャラかぶってます。ストーリーのトーンとしては『アイス・ストーム』原作レビュー)の方が近いかな?『アイス〜』は夫婦ものというよりホームドラマだし時代背景がもっと後ですけど、舞台は同じコネチカット州だし。
んー。原作はおもしろいんだろーなーってさっきも書きましたが、ほんとそんな感じなんだよね。すごい頑張ってるとは思うんだけど・・・原作を消化するのに必死で全然余裕がないってゆーか。出演者の演技はどの人もすごくいいし、どこって問題とか欠点とかそーゆーものは見当たらないんですがー。けどなんだか、ストーリーのコアというかソウルというか、肝心なところが、映画として映像として再現しきれてないとゆーか。やることはちゃんとやってんだけどそれだけ、みたいな。うまくいえないんですが。

しかしこのレオっち演じるフランクはスゴイです。
何がスゴイって、夫たるものがやっちゃいけないことを全部ひととおりやっちゃうんだよね。それも完全に無自覚に。薄っぺらな俗物で優柔不断で無神経で自意識過剰。プライドだけは一丁前のくせに決断力はなくて、感情的になるときだけはやたらに威張ってる。世の男性はみなさま彼を見習うべきですね。反面教師として。彼がやってることはひとつ残らず夫としてやっちゃいけないことの見本でございます。ひとつひとつは大したことじゃないかもしれない。些細なことかもしれない。けどそれが全部、妻を傷つけ、ふたりの間の愛や信頼を確実に蝕み、破壊していく。自分を愛してくれた妻を自ら絶望させていることに、彼は最後の最後まで気がつかない。どこまでアホやねん。ブラボーなり。
エイプリルは確かに夢見がちで大人になりきれない厄介な女かもしれない。でもおそらく彼女のした過ちはたったひとつだ。夫を愛し、彼を特別な人だと思いこみ、本人のナルシシズムを助長してしまったこと。彼女は自分自身をも愛し過ぎたのかもしれない。自分に見合うだけの夫像をダメな男に求めて裏切られてしまった。かわいそうな女だ。

人は誰でもすべての可能性を秘めて生まれてくる。
すべての可能性はやがて環境や時間や自身の怠慢によってひとつ、またひとつとこぼれ落ちていき、知らず知らずのうちに手に残されたカードはほんのわずかという現実がめぐってくる。そういうときは誰でも落ちこむし、ブルーになる。
けどそれが大人になるってことだし、カードはそのうちまたまわってくることだってある。いちいち絶望するのは閑人のやることなんじゃないかねー?世の中にはそういうときのためにお酒ってものがあるし、だからお酒は大人の嗜みなんじゃないかなあ。
ところでこの映画、演出にところどころ意味不明な箇所があり。たとえばフランクが来客に飲み物をつくるシーンで、わざわざふたりぶんつくろうと台詞でいわせているのに結局つくった酒を自分で飲んで、誰もそれにツッコまない。なんでー?
あとラブシーンが2ヶ所あるんだけど、どちらも妙に短い。いやべつに短くてもいいんだけど不自然に短いんだよね。編集でカット尻を切るとかして自然な長さにみせかけるとかすればいーのに、あれじゃーセックスしてるよーには見えないなりよ。ダンナ(サム・メンデス監督)の前でラブシーンはやりづらかったとウィンスレットがいってたけど、演出する方もやりづらかったんでしょーがそこは仕事なんですからちゃんとやってねー?
ラストシーンでキャシー・ベイツ演じるギヴィングス夫人が夫(リチャード・イーストン)と会話してるシーンがめちゃブラックでおもろかったです。「結婚前は両目をよく開いて、結婚したら片目をつぶって」だっけ?でもホント、心に思ったことを何もかも正直に話しあってそれを全部お互いに背負いこみあってたら夫婦なんてやってられないものなのかもね。ぐりは経験ないからよくわかりませんがー。くわばら。