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随分前に古本屋で買ったきり放置してたんだけどやっと読了。
1959年アメリカ中西部カンザス州の田園地帯ホルカムで、ある裕福な一家が何者かに惨殺された。被害者一家はいずれも周辺地域では広く知られた好人物で4人とも他人の恨みを買うような事情を持たず、常日頃小切手を使っていた被害者宅には盗まれるようなものもなく、めぼしい遺留品も目撃者も全く出て来なかった。ところがある些細な手がかりから1ヶ月半後に呆気なく犯人─ディックとペリー─は逮捕、ふたりは裁判で有罪判決を受け6年後絞首刑に処せられた。
事件前夜から犯人の生立ちとその死までを、筆者自らの手による綿密な取材と犯人たちとの書簡のやり取りに基づいて再構成したノンフィクション小説。
正直な話、半世紀近くも前の強盗殺人なんかぐりは全然興味はない。ただトルーマン・カポーティと云う作家は大好きだし、彼自身が長い時間とかなりのエネルギーを注いだ力作と聞けば読まない訳にはいかなかった。
46年前のアメリカの田舎町。良くも悪くも平和そのもの、今は崩壊してしまったモラルと云うものが通用した時代、信仰心と家族愛が何より尊ばれた社会の姿が克明に描かれています。
それは現代社会から見ればいささか清潔過ぎてどこか息苦しい。強盗殺人犯であるディックとペリーの方がずっと分りやすい人物のようにも思える。虐待され、貧困の極限の中で自分を抑圧することでアイデンティティを支えて来たペリー、恵まれた境遇に生まれ育ちながら全くその価値を顧みることのなかったディック。と云うことはそれだけ現代が病んでいるとと云うことなのだろうか?
そんな風に簡単に話を片づけてしまうのはおそらく筆者の本意ではないのだろう。
いつの時代にも多かれ少なかれ病理と云うものは存在している。それは時代が生み出したものでもあるだろうし、人間の本質に普遍的に生き続けているものかもしれない。
だからもしかすれば、筆者がペリーに強く共感したように、冷血な犯罪者と我々一般市民との間に横たわっている境界線と呼ぶべきものは、とてもとても曖昧なものなのかもしれない。最後の審判が下される時、どちら側に立っているかは運次第なのかもしれない。
この本の中にはディックとペリー以外の殺人者も何人か登場します。彼らに共通しているのは「どうしても殺さなくてはならない」と云う義務感に基づいて殺人を犯した、と云う動機。そうしなければ自分の世界が壊れてしまう、本当は殺したくなんかないけど、どうしてもそうしなければ自分の存在が保たれないから、だから殺した─と彼らは云う。
事実は決してそんな筈はない。でも彼らは確かにそう感じていたのだ。少なくとも彼の一瞬にはその感覚を信じて凶行に及んでいる。
我々の長い人生に、そんな瞬間が絶対に訪れないと云う保証はない。もし万一、そんな瞬間に出会った時、自分の世界の方を捨てることが、私には出来るだろうか?
随分前に古本屋で買ったきり放置してたんだけどやっと読了。
1959年アメリカ中西部カンザス州の田園地帯ホルカムで、ある裕福な一家が何者かに惨殺された。被害者一家はいずれも周辺地域では広く知られた好人物で4人とも他人の恨みを買うような事情を持たず、常日頃小切手を使っていた被害者宅には盗まれるようなものもなく、めぼしい遺留品も目撃者も全く出て来なかった。ところがある些細な手がかりから1ヶ月半後に呆気なく犯人─ディックとペリー─は逮捕、ふたりは裁判で有罪判決を受け6年後絞首刑に処せられた。
事件前夜から犯人の生立ちとその死までを、筆者自らの手による綿密な取材と犯人たちとの書簡のやり取りに基づいて再構成したノンフィクション小説。
正直な話、半世紀近くも前の強盗殺人なんかぐりは全然興味はない。ただトルーマン・カポーティと云う作家は大好きだし、彼自身が長い時間とかなりのエネルギーを注いだ力作と聞けば読まない訳にはいかなかった。
46年前のアメリカの田舎町。良くも悪くも平和そのもの、今は崩壊してしまったモラルと云うものが通用した時代、信仰心と家族愛が何より尊ばれた社会の姿が克明に描かれています。
それは現代社会から見ればいささか清潔過ぎてどこか息苦しい。強盗殺人犯であるディックとペリーの方がずっと分りやすい人物のようにも思える。虐待され、貧困の極限の中で自分を抑圧することでアイデンティティを支えて来たペリー、恵まれた境遇に生まれ育ちながら全くその価値を顧みることのなかったディック。と云うことはそれだけ現代が病んでいるとと云うことなのだろうか?
そんな風に簡単に話を片づけてしまうのはおそらく筆者の本意ではないのだろう。
いつの時代にも多かれ少なかれ病理と云うものは存在している。それは時代が生み出したものでもあるだろうし、人間の本質に普遍的に生き続けているものかもしれない。
だからもしかすれば、筆者がペリーに強く共感したように、冷血な犯罪者と我々一般市民との間に横たわっている境界線と呼ぶべきものは、とてもとても曖昧なものなのかもしれない。最後の審判が下される時、どちら側に立っているかは運次第なのかもしれない。
この本の中にはディックとペリー以外の殺人者も何人か登場します。彼らに共通しているのは「どうしても殺さなくてはならない」と云う義務感に基づいて殺人を犯した、と云う動機。そうしなければ自分の世界が壊れてしまう、本当は殺したくなんかないけど、どうしてもそうしなければ自分の存在が保たれないから、だから殺した─と彼らは云う。
事実は決してそんな筈はない。でも彼らは確かにそう感じていたのだ。少なくとも彼の一瞬にはその感覚を信じて凶行に及んでいる。
我々の長い人生に、そんな瞬間が絶対に訪れないと云う保証はない。もし万一、そんな瞬間に出会った時、自分の世界の方を捨てることが、私には出来るだろうか?