落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

さよなら太陽

2012年03月28日 | book
『美談の男  冤罪 袴田事件を裁いた元主任裁判官・熊本典道の秘密』 尾形誠規著
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1966年6月30日、静岡県清水市の味噌製造会社専務宅で火災が発生。焼け跡からたまたま留守にしていた長女を除く一家4人の他殺体が発見され、火災は放火によるものと判断された。8月、従業員の袴田巌さんが容疑者として逮捕され、取調べでは犯行を認めたものの公判では一貫して否認。1980年に最高裁で死刑が確定してからも再審請求が繰り返され続け、今も新たに血液を採取してDNA鑑定が行われている。
このいわゆる袴田事件で、当時静岡地裁で裁判官を務めた熊本典道は無罪を確信しながらも合議で敗北し、有罪の判決文を書いた7ヵ月後に辞職、弁護士に転身するもその後法曹界から姿を消したが、2007年、守秘義務を破って「袴田くんは無罪だと信じていた」と告白した。
勇気の人、美談の人とされ一躍脚光を浴びた熊本氏の半生を取材したルポルタージュ。

袴田事件について知ったのは90年代のことだったと思う。
日本のプロボクシング界が元ボクサーだった袴田さんの無実を訴え、支援を表明し始めたのがきっかけではなかったかと思う。あんましはっきりしませんけども、たぶん。
かといって以後ぐりが袴田事件フリークになったとかそーゆーことはまったくなく。だって他にも冤罪事件ってあるじゃないですか。なのでぐりの中ではあくまでもそのひとつ、という捉え方でしかなかった。あんまり知られてませんが、日本では戦後からこれまでに殺人罪・殺人未遂罪を含む凶悪事件で起訴されただけで100件以上に及ぶ冤罪事件が起こっているといわれている(死刑判決を含む)。逆にいえば、袴田事件だけがこれほどセンセーショナルに世の耳目を集めなくてはならない理由が、少なくともぐりにはなかった。
近年になってこの事件がこれだけの注目を浴びるようになったのは、ひとえに熊本氏の異例の告白によるのではないだろうか。2010年にはこの告白を題材にした映画『BOX 袴田事件 命とは』も公開されている。大したもんである。ぐりこの映画観てませんけど。観るべきでしょーかね?

映画にはどう書かれているかぐりは知らないが、結果的にいえば熊本氏は決して“美談の男”ではない。
この本はタイトルの意味するところから最も遠く、彼の人生を徹頭徹尾“美談”の逆説からとらえることで、冤罪が生まれ肯定されてしまう日本の司法制度の不毛を描き出している。
現役法学生時代にトップ合格で司法試験にパスし、花の東京地裁からキャリアをスタートさせたエリート中のエリートでありながら、端から自分の正義の赴くままに裁判官としての職務を遂行していた彼が、袴田事件で心ならずも有罪の判決文を書いてしまって以来、裁判所を辞し弁護士になり仕事には成功しつつも酒に溺れ結婚にも二度も破れ、最終的には職も失ってホームレス同然の生活にまで転落する。
「疑わしきは被告人の利益に」という裁判制度の大原則をただ忠実に守ろうとした優秀な法律家だったはずの人物でも適応できないのが、日本の裁判所なのだ。
それってすっごいヘンじゃない?
確かに現実の日本の裁判所はすごく官僚的な機構になってしまってはいる。けどそれは断じて正しいことじゃない。国民の人権をこそ守るべき裁判所が官僚的ておかしいよね?こわいよね?

熊本さんは強い人ではなかったかもしれない。弱いところも不完全なところもいっぱいあったかもしれない。
でも、何度も自殺未遂をくり返し大病を患いながらも今までを生き抜いて、ついにこの告白に至っただけでも、ぐりとしては「美談の人」と賞賛されて然るべきではないかとも思う。
もっと早くいえば良かったのに、なんてことは気楽な外野からしかいえない戯言だ。
熊本さんがいかに優秀な人であっても所詮はただの人だ。自らの無力感と罪悪感に責め苛まれながらそれから逃げられず、自分を責めて責めて責め抜いて最終的には抱えきれなくなったその気持ちだけでも、ぐりは「ご苦労さん」の一言で済ませてあげたい気がする。
ことここに及んでは、熊本さんが元気なうちに袴田さんが晴れて自由の身になって、そしてもとの健康を取り戻してくれたらと思う。
それだけをせつに願うしか、ない。


スペインでつくられた袴田さんの自由を求めるポスター。

関連レビュー:
『冤罪 ある日、私は犯人にされた』菅家利和著
『LOOK』
『日本の黒い夏 冤罪』
『それでもボクはやってない』
『それでもボクはやってない―日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!』周防正行著
『お父さんはやってない』矢田部孝司+あつ子著
『冤罪弁護士』今村核著
『僕はやってない!―仙台筋弛緩剤点滴混入事件守大助勾留日記』守大助/阿部泰雄著
『東電OL殺人事件』佐野眞一著
『アラバマ物語』ハーパー・リー著

鏡のあなた

2012年03月27日 | book
『エレファント・マン―その真実の記録』 ピーター・フォード/マイカル・ハウエル著  本戸淳子訳
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小学生のころ、テレビでデヴィッド・リンチの映画『エレファント・マン』を観てからずっと、気になっていたことがあった。
モノクロ画面で重厚なストリングス系のサウンドトラック、一見文芸映画風のこの作品だが、直接的に主人公メリック(ジョン・ハート)の身体を映像では再現しないまでも、意図は19世紀末も現代も変わらない世の人々の猟奇趣味をカリカチュアライズしようとする点であることに疑いはない。メリック本人よりも周囲の人々の感情描写がデフォルメされ、シリアスなようでどこか滑稽な表現になっているからだ(少なくともぐりの30年以上前の記憶の中では)。
にも関わらず、メリックの最期のシーンにだけ、それがない。ジョン・ハートはひとり静かにベッドに横たわる。ただそれだけなのだ。他の登場人物の反応が画面に表現されていたかどうかはまったく覚えていないのだが、少なくともぐりの記憶にある限り、このラストシーンには他のパートにあるような第三者の視点が欠落していた。
どうしてこのシーンだけそうなったのか、そうすることで何を伝えようとしたのか、小学生のぐりにはよくわからなかった。
メリックは自ら死を選ぼうとしたのか、それはどうしてなのか、最期に彼は何を思っていたのか、そのことは映画では描かれていなかったのだ。

この本は映画『エレファント・マン』の主人公で19世紀末イギリスの実在の人物、ジョゼフ・ケアリー・メリックの生涯を描いた伝記。
映画の日本公開に併せて1981年に邦訳が出ている。まあ古い本です。最近読んだ本が4冊続けて不作(本が悪いんじゃなくて、ぐりの趣味にあわないだけですきっと)だったんで、ちょっと安牌いっちゃいましたね(爆)。
知らない人はいないと思いますが内容を要約しますと、エレファント・マンことジョゼフ・ケアリー・メリックは1862年ヴィクトリア調時代のイギリス・レスターに生まれた。出生時は健常体だったが2歳になる前から奇形が始まり、成長に伴い通常の歩行も発音も難しくなっていき、11歳で実母を喪い父が再婚すると継母に追われるように叔父の家や救貧院を転々とするようになる。自活したかった彼は21歳で自ら見世物興行師の門を叩き、1884年、ロンドンの見世物小屋で外科医フレデリック・トリーヴスと出会う。当初トリーヴスは医学的見地から貴重な標本としてメリックに関心を持ち学会での発表にメリックを協力させるのだが、その後イギリスで見世物小屋が排斥されるようになり、欧州興行に活路を拓こうとしたメリックが詐欺に遭って帰国して以後、彼の身柄を勤務先の病院に引き取り、平穏な人間らしい生活ができるよう各方面に働きかけた。
彼の働きかけによってメリックは一躍社交界の注目を浴びる存在にまでなるのだが、1890年、自室のベッドで仰向けに横たわったまま息を引き取っているのが発見された。奇形のため大きく重く膨張した頭部を支えきれず、就寝中に頸椎を脱臼したものとみられている。27歳だった。
メリックの奇形は現代ではプロテウス症候群ではないかといわれているが、この病気は不明な点が未だに非常に多い。また、メリックほど過酷な症例も記録にないといわれている。

伝記本とはいえ、メリック自身についての歴史的記録がほとんどないため、原典はフレデリック・トリーヴスの「エレファント・マンとその思い出」にかなり依っている。この本はメリックの死後何年も経ってから書かれており、またメリック自身過去をあまり語りたがらなかったので、曖昧な部分や誤解が多い資料であるらしく、それを他の記録から訂正していくという体裁でまとめられている。
とくに注目すべきなのは、19世紀末当時の見世物小屋業界事情(?)である。映画『エレファント・マン』では見世物小屋の興行主といえば冷酷で非人道的な人物に描かれているし、おそらくは世の大半のフィクションでもそのような役回りを与えられているケースが多いような気がするのだが、実際にはその逆の面もあったらしい。
メリック自身ももともとは行商で生計を立てていたのだが、当時障害を持った人が差別や偏見と戦いながら自立して社会生活を送ることは非常に難しく、メリックも職を捨てて救貧院で暮らさなくてはならないほど困窮していた。見世物小屋は、そうした障害者にとって唯一持ちうる自らの肉体によって正当な対価を得ることができ、生活も保障される民主的な職場になっていたのだ。
ところがメリックが見世物小屋に出るようになって間もなく、人権意識の隆盛から見世物興行そのものが社会から批判されるようになる。「障害者=かわいそうな人」をショーアップしたりエンターテイメント化するのは非人道的ではないか、というわけである。こうして多くの障害者が職を失い、行き場をなくした。
こういうエセ人権意識は今の日本にもそのまま受け継がれている。実際、日本のメディアに障害者が登場することは非常に稀だ。欧米には四肢欠損や奇形も含めた障害者だけの劇団やモデルエージェントが存在し、障害を持ったアーティストも活躍しているが、日本ではそういう例はあまり耳にすることがない。過酷な障害を持った人がテレビに登場すればすかさず「かわいそうじゃないか」などといったクレームが殺到する。
現実に生きている人たちを勝手に「かわいそう」と決めつけ、存在を否定することそのものが偏見であり差別であることに気づかない。そんなものは人権意識などではない。

最終的にトリーヴスの勤務先であるロンドン病院で暮らすようになったメリックは、彼の生活のために援助を呼びかけたトリーヴスの投書をきっかけに社交界の注目を浴びるようになり、上流階級の人々からの訪問や文通に明け暮れる。
場所は違えどやってることは見世物小屋とまるっきり同じなのだが、彼はその生活をとても喜んだという。トリーヴスは彼の生活空間から鏡を排除し、接する人々にも細心の注意を指示した。このため、メリックは自身の奇形を少しずつ忘れ、それまで思いもよらなかった「ふつうの人と同じ」暮らしに憧れるようになっていった。
想像を絶するほどの重い障害と苛酷な半生を生きながら決して純粋さを失わず、叶わぬものと知りながら「ふつうの人」になりたいと切望する素直なメリックの心情に、トリーヴスは人の心の自由の無限の可能性に感動する。だが、メリックにできるかぎり「ふつうの人」らしい生活をと努力した彼には、メリックがどう生きるべきかという長期的なヴィジョンがあったのだろうか。
メリックは1886年から亡くなるまでの4年間をロンドン病院で過ごしたが、この間はひたすら本を読み、模型をつくったり、演劇を見たり、田舎を旅行したり、上流階級の人々の訪問を受けたりと、ただただ遊んで暮らした。それらはすべてトリーヴスの細心の注意による、人工的につくられたおとぎの国の中の生活だった。メリックに会う人物の態度に注意し、出かけるたびに好奇の目にさらされないように事前の準備を怠らず、プレゼントの化粧箱からまでも鏡を抜き取る。彼の生活費は寄付金で賄われていたというが、それだけの生活を寄付金だけを頼りにどれだけ続けられると考えていたのだろうか。

結果的に、メリックは突然あっけなくこの世を去ってしまった。
首で頭の重さを支えきれないため、ふだんメリックはベッドに座って、両手で抱えた膝に頭をのせて眠っていたという。それがこの日に限って、仰向けで眠ろうとしたのはなぜなのか。
「ふつうの人」になりたかったから、たとえ死んでもいいから、一度は「ふつうの人」のように横になってみたかったのだろうか。
どんどん進行していく病と戦い続けることに疲れ、自ら死を選ぼうとしたのだろうか。
人々の同情に頼って生きていく人生に絶望したのだろうか。
ただ、横になって眠ったら「ふつうの人」になったような夢が見られるかもしれないと思っただけなのだろうか。
いずれにせよ、27歳で生涯を閉じた彼は、社会に「姿形は異様だが、若く美しく純粋な心を持った青年」として永遠に記憶されることになった。
それが果たしてメリックの本当の望みだったかどうかも、今はわからない。
でも、21世紀になった今も、彼の存在と生涯から、社会が学ぶべきことは無限にあるはずだとは思う。
差別と偏見がこの世からなくならない限り、永久に。

宮城県にまた行って来ました

2012年03月25日 | 復興支援レポート
3月16日(金)~21日(水)の日程でまた宮城県にボランティアに行って来ました。通算10回目。
この前の週にもボランティアに行ったけど、そもそも予定としては18日に開催される唐桑養殖復活感謝祭に参加するつもりでこのお彼岸の飛び石連休に唐桑を訪問する計画を立ててあった。
唐桑養殖復活感謝祭は、震災後の養殖業の復興に寄与したボランティアへの感謝のしるしとして、地元の漁協がずいぶん早くから準備してくれていたお祭りだった。去年から「やるから絶対来てよ」なんていわれてたんだもん。そりゃ来るでしょう。

とゆーワケで今回のメインイベントはこのお祭りへの参加。
日程中2泊は車中泊で活動日は4日間。1日目は仮設住宅でのお茶会への参加、2日目はお祭りの準備のお手伝いと参加、片付けのお手伝い。3日目と4日目はいつものように養殖のお手伝いをした。
お茶会ではおかあさんおばあちゃんたちとお話をして、お祭りでは地元のお酒の売り子をしていた。養殖のお手伝いでは、海外から来た学生ボランティアツアーの相手をしていた。今回もいろんな人といろんなお話をした4日間だった。

レポートが遅くなったのは日程中に風邪をひいて、帰京直後から寝込んでたからです。
花粉症と風邪のダブルパンチはそうとうキツかったです。咳に鼻水、頭痛発熱に下痢のフルコースでムチャクチャしんどかった。
やっと体調も戻ったしぼちぼちまとめないとな。あ。レポートも出さにゃー・・・。

迷走ボランティア


3月20日朝、雪の唐桑半島。

2012年3月10日(土)~13日(火)震災ボランティアレポート
2012年2月9日(木)~2月15日(水)震災ボランティアレポートIndex
2012年1月18日(水)震災ボランティアレポート
2011年11月1日(火)~6日(日)震災ボランティアレポートIndex
2011年10月21日(金)~24日(月)震災ボランティアレポート
2011年10月6日(木)~10日(日)震災ボランティアレポート
2011年8月26日(金)~9月4日(日)震災ボランティアレポートIndex
2011年8月11日(木)~15日(月)震災ボランティアレポートIndex
2011年4月29日(金)~5月7日(土)震災ボランティアレポートIndex
Googleマップ 震災ボランティアレポートマップ(ver.3.4)

1周忌を被災地で過ごすということ

2012年03月14日 | 復興支援レポート
3月10日(土)~13日(火)の日程で宮城県で9回目の復興ボランティアに参加して来ました。

この日曜日で震災からちょうど1年。
この翌週にボランティアに行く計画を立てていたので、当初は1周忌を被災地で過ごす予定はなかったが先月急にそういう話になり。
4日間の具体的な活動報告は次回の日程も迫ってるしちょっと割愛しますが、11日当日のことだけ大雑把に書いておきます。

この日は気仙沼市内の仮設住宅の駐車場でキャンドルを灯して祈ろうということで、ボランティアで集めたキャンドルを「3.11」云々という文字の形に並べた。
午後から作業を始めて、2時46分の地震発生時刻はいったんその場を離れ、入居者の皆さんの邪魔をしないように近くの人気のない海岸に移動した。
地盤沈下した岸壁には先客がいた。地元の人と思しき男性がひとり、クルマに乗って座っていた。
あまり時間もないので、私たちは距離を置いて岸壁沿いの隅の方に寄って、静かにその時を待った。

2時46分、サイレンが鳴りだしたのにあわせて私たちは目を閉じ、海に向かって祈った。

1分後、目を開けると、いつの間にかカモメが何羽も岸壁に集まって舞い飛んでいた。
波打ち際に座った先刻の男性が、生魚をさばいて小さくちぎって鳥にあげていた。
どこで耳にしたかは失念したが、海で亡くなった人は海鳥になって還ってくるともいう。
彼のような弔い方もあるのだなと思った。

夕方までかかってキャンドルを並べ、調整作業を続けた。
準備にも当日作業にも入居者の皆さんは積極的に参加して下さり、ボランティアよりもむしろ率先して協力してくださった。
というか、そもそもこのイベントは入居者の方からの発案で決まったものだった。
3月11日当日によそものが仮設住宅でイベントなんてしていいものかどうか躊躇していた私たちの背中を、皆さんが「やりましょうよ」と押して下さって実現したキャンドルナイトだった。

唐桑半島の向こうに日が沈んで暗くなりかけた頃、キャンドルに火を灯した。
黄昏の光が消えていき、気温がどんどん下がっていく中、皆さんは和やかに400本余のキャンドルの明かりをみつめ、白い息を吐きながら談笑していた。子どもたちも女性も男性もお年寄りも皆、やさしく穏やかな笑顔を浮かべて、そっと心の中の思いを共有していた。

東北に通い始めて11ヶ月、いつもいつも皆さんに励まされ、支えられて活動を続けて来た。
何もできなくてもいい、気持ちだけでも傍にいたいと思って通った。
震災から1年、これからも皆さんの傍にいたい。
もう来なくてもいいよといわれるまで、やっぱりいっしょにいたい。
キャンドルのあたたかな灯りに照らされた皆さんの顔を見て、改めて強く、そう思った。


祈りの火。

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