落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

どうしてですか

2007年07月16日 | movie
『ルーシー・リューの「3本の針」』

HIVの感染爆発について中国・カナダ・南アフリカでそれぞれ1話ずつ語ったオムニバス映画。
もんんのすごーく、淡々としてます。台詞も少ないし、全体に非常に静かな映画。余計な説明もないし、登場人物も必要最低限。シンプル。それだけに、いいたいことがすごく伝わる。
3ヶ国それぞれにエイズの現実は違っている。中国雲南省のハニ族はエイズやHIVという言葉さえしらない。彼らの住む村にはTVや新聞どころか電気も水道もないのだ。たった5ドルの現金収入のため─それも手に入ったらすぐに農機具や種もみや遊興費に代ってしまう─に、彼らは血を売る。それが違法であることさえ彼らは知らない。
カナダのポルノ俳優は800ドルの出演料欲しさに義務づけられたHIV検査を誤摩化しつづける。息子の感染を知った母親は200万ドルの生命保険をかけてからわざと感染し、その検査結果を元に保険を売る。保険は債券として売買することができるのだ。濡れ手に粟で母子は大金を手に入れる。HIVは感染しても必ず発病するわけではないし、きちんとした投薬治療を受ければ死ぬことはない。
南アフリカの農園では雇い人の4分の1が感染している。修道女たちはばたばたと死んでいく農民たちを救うために奔走するが、無知と貧困の壁が彼女たちのゆくてをかたく阻みつづける。現金収入欲しさに危険も顧みず廃棄物を漁り売りさばく現地人たち。命欲しさに幼女をレイプするキャリアの男。果たして彼らを裁くことはできるのか。

この映画を観ていると、やはり無知は罪なのだと思う。
歴史も民族も文化も関係ない。HIVが人類共通の敵であることに間違いはない。それなのに、世界中で猛威をふるうこの病気をコントロールできる人たちと、なすすべもなくただ死を待つだけの人たちがいるのはなぜなのか。
なけなしの現金のために売られた血を買うのはどこの国の誰なのか。貧しい病人をこき使って栽培されたお茶やコーヒーを飲んでいるのは誰なのか。不注意で感染した病を道具に、あぶく銭を手に入れられる社会システムを考えだしたのは誰なのか。
それを思えば、決して、誰にも、「そんなことは我々には関係ない」「遠いよその国の不幸な出来事」とは口が裂けてもいえない筈だ。これもグローバリズムの影の一風景なのだ。

ちなみに中国国内には現在100〜150万人のHIV感染者がいるといわれている。3年後にはこれが10倍になるそうだ。既に村ごと全員がエイズかそれに伴う飢餓で死滅した地域も確認されている。
国民の10%(成人では20%)がキャリアで平均寿命が40歳をきろうとしているにも関わらず、南アフリカ政府はHIVウィルスの存在そのものを認めておらず有効な治療薬の多くが認可されていない。麻薬中毒者の多さも感染爆発の原因のひとつとして問題視されている。
それと同じHIVを、北米では商品として高額で売ることができるという。同じ人間なのに、同じ病気なのに。
貧しいのは中国人たちのせいでもなければ南アフリカ人のせいでもない。せめて知識や情報はタダでいくらでも共有できるはずなのに、それが現実にできていないのはなぜなのか。

さっきから同じことばっかいってますね?わたし?

でも、現代の無知や貧しさを生み出しているものは、実は富める国に住む我々なのかもしれないという恐れから目を反らすのが、最もひどい罪なのではないかと、ぐりは思い始めている。
でなければ、我々が世界中から運ばれる安くて美味しい食べ物をおなかいっぱい食べられて、どんな病気でも安心して治療が受けられるのに、その食べ物をつくっている人たちの口にはそのかけらも入らず、同じ病気でも彼らは死ぬしかないという現実に、説明がつかないではないか。

この映画は2005年の作品だそうだ。なぜ今まで日本で上映されなかったのか、そのことさえ残念に思うし、今回観られたことには感謝している。

関連レビュー
『ぼくもあなたとおなじ人間です。 エイズと闘った小さな活動家、ンコシ少年の生涯』 ジム・ウーテン著
『中国の血』 ピエール・アスキ著