ふろむ播州山麓

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若冲と相国寺、萬福寺と石峰寺 №2 <若冲連載45>

2009-10-24 | Weblog
「大典和尚」

 若冲は三十歳代なかばから、大典和尚との親交を通して、相国寺と密接な関係にありました。期間はほぼ二十年におよぶ。それが六十歳を前にして、若冲は萬福寺に接近し、黄檗の石峰寺にその後、晩年を捧げ尽くす。相国寺を離れた理由のひとつは、大典を取り巻く周辺環境の変化であろう。

 まず大典の略歴を記してみましょう。彼は八歳で黄檗山華厳寺にあずけられたが、兄弟子との不和から相国寺に移り、塔頭慈雲院・独峯慈秀和尚によって得度する。十歳のときであった。黄檗の詩僧・大潮和尚について文学を学ぶが、大潮は売茶翁の弟弟子である。また儒は宇野明霞・宇士新の門で研鑽を積む。ちなみに大坂の片山北海も明霞の弟子である。北海を中心に結成された大坂の詩文社「混沌社」には、売茶翁や大典、聞中、池大雅そして若冲たちと交流のあった大坂文化のネットワーカー・木村蒹葭堂が有力なメンバーとして加わっていました。
 そして独峯和尚引退の後を受けて大典は慈雲院の住持となるが、和尚没後、三周忌を済ませて本山に隠退届けを出す。宝暦九年(一七五九)二月十二日、四十一歳のときであった。そして十三年もの間、大典は相国寺を離れ市井に暮らす。彼は佛学、経義、詩文に通じた当代隋一の学僧であった。

 若冲と大典が出合ったきっかけは不明だが、若冲三十七歳、大典三十四歳のころ、ふたりの親交がはじまる。時代を代表する学者・文人である大典が、なぜか寺を出、栄達を拒む。若冲はそのような彼を尊敬し、年下の大典を師と仰ぐ。また大典は若冲に、画の天才を見抜きそのひとと才能を愛する。
 そして大典の蔭からの推挙で、鹿苑寺大書院の障壁画を描いたのは宝暦九年、大典が寺を出る年である。
 明和四年(一七六七)、相国寺は連環結制を営む。全国の雲水修行僧が同寺に参集することになった。本山は大典に帰山をうながすのだが、彼はなおも承諾しなかった。すでに四十九歳である。
 明和九年、再三の復帰要請を断ることもついにかなわず、大典は相国寺慈雲院に戻る。安永七年(一七七〇)には碩学に選ばれ、幕府より朝鮮修文職に任ぜられた。翌年には、相国寺第百十三世住持になる。天明元年(一七八一)、以酊庵輪住の任にあたり対馬に着任。約三年間の任期をつとめる。そして天明八年の大火の後には寺復興のために全力を投入し、享和元年(一八〇一)二月八日、若冲没の半年ほど後、友を追うように慈雲院で没した。

 若冲は、自分をいちばん理解してくれる大典のことを大好きであり、尊敬していた。しかし若冲は出家を望み、宗教に浸る生活をこころから希求したようである。売茶翁からかつて学んだ人生哲学を、禅の場で、画禅一致の僧として実践したかったのだと思う。だが大典は若冲の才能と人柄を愛したのであり、市井画家の出家など、相国寺では考えられなかったであろう。
<2009年10月24日 南浦邦仁> [175]
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