ところで若冲の過去帳のことは、伊藤家の菩提寺である宝蔵寺のものがよく知られているが、石峰寺にも新旧二冊がある。古い冊には、寛政十一歳次己未初冬再[改]之と記されている。若冲没の前年である。十日の欄に「壽八十八歳/寛政十二庚申/斗米翁若沖[居]士/九月入祠堂」とある。なお[改]と[居]字は旧字。
若冲の命日には、十日と八日の二説があるが、彼が住み土葬された石峰寺、また前年に新帳なった過去帳の記載であることをみても、やはり十日に入寂したに違いない。なお当時の住持は、密山和尚である。「八十八歳」は若冲が最晩年に度々、款記している。
新冊には「昭和二十四巳丑年九月再改/百丈十二代龍潭誌」と記され、「寛政十二/斗米翁若沖[居]士/庚申九月/十日/八十八才/長澤ゆき」と書かれている。これまで、長澤ゆきという女性について語られることが、ほとんどなかった。不思議な女性である。彼女はかつて同居していた妹か妻らしき、心寂あるいは眞寂であろうか。寺にはもう一冊、この記載のもとになった古い過去帳があったはずである。しかし石峰寺は昭和五十四年に再度の火難に遭い、本堂を焼失した。たぶんその時に、失われたのであろう。
ところで若冲の妹であるが、いたとする証拠は、平賀白山の記述以外、何も残っていない。若冲は二十三歳のときに父を喪っている。そのとき母は三十九歳であった。この翌年に妹が生まれていたと仮定すれば、年齢は若冲よりも二十四歳若いということになる。しかし蕉斎平賀白山が石峰寺に若冲を訪ねたとき、若冲七十九歳であった。妹は五十五歳以上の年齢である。彼女に小さな子がいるのは不思議だ。清房は五歳であった。
長澤という姓であるが、若冲が生きた時代を追ってみて、ただひとりだけ、気になる同姓の人物がいる。画家の長沢芦雪である。『平安人物誌』天明二年(一七八二)版に名がある。「長澤/字/御幸町御池下ル町/長沢芦雪」と記されている。正確に書けば長澤蘆雪であろうが、ゆきとの関係は一切、不明である。芦雪は若冲より三十八歳年少であったが、寛政十一年(一七九九)、若冲没の前年にわずか四十六歳で急逝する。法名は南舟院澤誉長山蘆雪居士。本名は上杉政勝、幼名を魚といったようである。
石峰寺過去帳の記載をみて思うのは、まず「斗米翁」であるが、若冲は斗米庵、米斗翁と書くのを常とした。また若冲の「冲」字であるが、墓も過去帳もともにサンズイを使っている。石峰寺墓表は「斗米菴若沖[居」士墓]とサンズイであり、若冲生前に相国寺に建てた墓碑・寿蔵も同様である。ニスイとサンズイの考察も面白いテーマだがいまは措いて、結論だけをいえば、冲は沖の俗字である。この世の俗を離れて、正すなわち聖に帰ったということであろうか。仲字なども散見するが、それらはいずれも誤記である。それから相国寺と石峰寺の墓石の筆跡は、まったく同じ大典筆である。
なお「若中」印の作品がこれまで2点発見された。驚くべきことに、いずれも真筆である。中字の画、売茶翁を描いた一幅はいま信楽のミホミュージアムに展示されている。彼は若冲を名乗る前、おそらく三十歳代前半の一時期、最初は「若中」と称したようである。多分、売茶翁からニスイが正しいと指摘され、あらためたのであろう。
いずれにしろ、若冲は「居士」すなわち在家者として葬られた。禅僧の墓碑に記される、和尚、大和尚、禅師などではない。
これまでみてきたように、彼は世間からは、釈若冲あるいは僧若冲師、画禅師とみなされ、出家者として扱われてきた。しかし若冲にとって、寺の雑務や行事儀式、複雑な上下左右の人間関係など、とても手に負えるものではない。気ままな世界で、自由に画を描き続ける創造活動こそが、彼にとって唯一望むところの生きる道であった。市井で茶を売った売茶翁・高遊外のように、晩年の彼も、勧進のためとはいえ、売画を蔑むことはなかった。画を無心に描くことは、若冲にとっては座禅と同一であり、参禅であったろう。画禅一致の境地であろう。また石峰寺像園への勧進であった。
伯の蓮の例えを再考してみよう。蓮は俗の泥から芽を出し、水中を伸びる。そして水面から空中に抜け、美しい蓮華を咲かす。しかし当然ではあるが、根はあくまで俗泥のなかにある。また蓮の根は、レンコンである。青物問屋の倅だった若冲には、こころに響く何かがあったのではなかろうか。晩年、大火以降の作品には、蓮の絵が極端に増える。豊中の西福寺屏風絵は「蓮池図」。売茶翁の出身地も、肥前蓮池である。
黄檗山に正式に認知登録された僧の名を記す「黄檗宗鑑録」に、革叟若冲の名はない。結局のところ、彼は売茶翁と同じく、非僧非俗こそ最上の生き方としたのであろう。ちなみに売茶翁こと元黄檗僧・月海元昭は、昭和三十三年に追贈され、はじめて「宗鑑録」に名が載る。高遊外没後、実に百九十五年が経っていた。
<2009年11月29日> [191]
若冲の命日には、十日と八日の二説があるが、彼が住み土葬された石峰寺、また前年に新帳なった過去帳の記載であることをみても、やはり十日に入寂したに違いない。なお当時の住持は、密山和尚である。「八十八歳」は若冲が最晩年に度々、款記している。
新冊には「昭和二十四巳丑年九月再改/百丈十二代龍潭誌」と記され、「寛政十二/斗米翁若沖[居]士/庚申九月/十日/八十八才/長澤ゆき」と書かれている。これまで、長澤ゆきという女性について語られることが、ほとんどなかった。不思議な女性である。彼女はかつて同居していた妹か妻らしき、心寂あるいは眞寂であろうか。寺にはもう一冊、この記載のもとになった古い過去帳があったはずである。しかし石峰寺は昭和五十四年に再度の火難に遭い、本堂を焼失した。たぶんその時に、失われたのであろう。
ところで若冲の妹であるが、いたとする証拠は、平賀白山の記述以外、何も残っていない。若冲は二十三歳のときに父を喪っている。そのとき母は三十九歳であった。この翌年に妹が生まれていたと仮定すれば、年齢は若冲よりも二十四歳若いということになる。しかし蕉斎平賀白山が石峰寺に若冲を訪ねたとき、若冲七十九歳であった。妹は五十五歳以上の年齢である。彼女に小さな子がいるのは不思議だ。清房は五歳であった。
長澤という姓であるが、若冲が生きた時代を追ってみて、ただひとりだけ、気になる同姓の人物がいる。画家の長沢芦雪である。『平安人物誌』天明二年(一七八二)版に名がある。「長澤/字/御幸町御池下ル町/長沢芦雪」と記されている。正確に書けば長澤蘆雪であろうが、ゆきとの関係は一切、不明である。芦雪は若冲より三十八歳年少であったが、寛政十一年(一七九九)、若冲没の前年にわずか四十六歳で急逝する。法名は南舟院澤誉長山蘆雪居士。本名は上杉政勝、幼名を魚といったようである。
石峰寺過去帳の記載をみて思うのは、まず「斗米翁」であるが、若冲は斗米庵、米斗翁と書くのを常とした。また若冲の「冲」字であるが、墓も過去帳もともにサンズイを使っている。石峰寺墓表は「斗米菴若沖[居」士墓]とサンズイであり、若冲生前に相国寺に建てた墓碑・寿蔵も同様である。ニスイとサンズイの考察も面白いテーマだがいまは措いて、結論だけをいえば、冲は沖の俗字である。この世の俗を離れて、正すなわち聖に帰ったということであろうか。仲字なども散見するが、それらはいずれも誤記である。それから相国寺と石峰寺の墓石の筆跡は、まったく同じ大典筆である。
なお「若中」印の作品がこれまで2点発見された。驚くべきことに、いずれも真筆である。中字の画、売茶翁を描いた一幅はいま信楽のミホミュージアムに展示されている。彼は若冲を名乗る前、おそらく三十歳代前半の一時期、最初は「若中」と称したようである。多分、売茶翁からニスイが正しいと指摘され、あらためたのであろう。
いずれにしろ、若冲は「居士」すなわち在家者として葬られた。禅僧の墓碑に記される、和尚、大和尚、禅師などではない。
これまでみてきたように、彼は世間からは、釈若冲あるいは僧若冲師、画禅師とみなされ、出家者として扱われてきた。しかし若冲にとって、寺の雑務や行事儀式、複雑な上下左右の人間関係など、とても手に負えるものではない。気ままな世界で、自由に画を描き続ける創造活動こそが、彼にとって唯一望むところの生きる道であった。市井で茶を売った売茶翁・高遊外のように、晩年の彼も、勧進のためとはいえ、売画を蔑むことはなかった。画を無心に描くことは、若冲にとっては座禅と同一であり、参禅であったろう。画禅一致の境地であろう。また石峰寺像園への勧進であった。
伯の蓮の例えを再考してみよう。蓮は俗の泥から芽を出し、水中を伸びる。そして水面から空中に抜け、美しい蓮華を咲かす。しかし当然ではあるが、根はあくまで俗泥のなかにある。また蓮の根は、レンコンである。青物問屋の倅だった若冲には、こころに響く何かがあったのではなかろうか。晩年、大火以降の作品には、蓮の絵が極端に増える。豊中の西福寺屏風絵は「蓮池図」。売茶翁の出身地も、肥前蓮池である。
黄檗山に正式に認知登録された僧の名を記す「黄檗宗鑑録」に、革叟若冲の名はない。結局のところ、彼は売茶翁と同じく、非僧非俗こそ最上の生き方としたのであろう。ちなみに売茶翁こと元黄檗僧・月海元昭は、昭和三十三年に追贈され、はじめて「宗鑑録」に名が載る。高遊外没後、実に百九十五年が経っていた。
<2009年11月29日> [191]
近所の子どもが親から、
「もっと頭を使いなさい!」
といわれたら、それから本当に、
頭を本に当てて「いま読んでいる!」
とか言って、頭の利用法を
あれこれ考え出したそうです。
それから、成績もずいぶんよくなり、
両親は狐と狸につままれ、
「わたしたちも頭を使わねば・・・」
あっ!たまですか?
正直何から読ませて頂いたら良いのか迷ってしまいます。
今後、時間をかけてゆっくりと読ませて頂きます。
たまには、たまの話を あ たまを使って読んでみたいと思っております。(笑い)
今後ともどうかよろしくお願いいたします。