ふろむ播州山麓

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RED CLIFF レッドクリフの蹴鞠サッカー <古代球技と大化の改新 11>

2010-01-03 | Weblog
この正月休み、映画「レッドクリフ PartⅡ・未来への最終決戦」をはじめてみました。近所でレンタルDVDを借りたのですが、孔明役の金城武、また周喩も曹操も、みな見事な演技ですね。
 ところで驚いたのが、いきなりサッカーシーンからはじまることです。古代球技に興味あるわたしとしては、画像に引きずり込まれ、何度何度も球技場面を見返してしまいました。
 2チームにわかれた選手たちは、各10数名。上着は黒と白で味方と敵を色分けしている。審判は黒と白の小旗をもって、広くもない競技場を走り回っている。ボールを手で触れることは禁止だが、球を足で確保する選手に対して、敵組の追撃は激しい。まるで格闘技をみるようです。
 ゴールは左右の板垣に、おそらく6個ずつ計12個。四角の球門を開いている。門はそれぞれ、四方各1㍍ほどであろうか。
 球は白く、おそらく革製であろう。詰め物(毛)のはいった詰め球(鞠)だろうと思います。中空球ほどには弾んでいない。
 選手のひとり、孫叔材は曹操にサッカーでの活躍を賞され、千人部隊の部隊長を任される。庶民の彼と、孫権の妹・尚香との淡い想いも記憶に残ります。悲惨な戦争の象徴のように感じました。

 ところで原題「RED CLIFF PartⅡ 決戦天下」ですが、製作は米中日台韓の5カ国。ついに、これらの国が共同で映画をつくる時代がきたのかと、感慨深いものがあります。いつか第2次世界大戦を、イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・アメリカ・中国・台湾・韓国・日本、そしてイスラエル…。これらの国が一緒になって映画化するような時代が来ることを、願わずにいられません。

 赤壁の戦いは圧倒的に優勢な曹操軍、同盟を結んだ弱小の孫権・劉備連合軍との決戦です。後漢末期の西暦208年10月のことでした。球技は決戦を前に、赤壁の向かいに陣を敷く曹操軍内でのサッカー蹴鞠競技です。字幕スーパーをみると、「蹴鞠(けまり)」と出ます。この激しい球技は、蹴鞠を日本読みで「けまり」とすることは、適当ではありません。
 振り仮名は「しゅうきく」あるいは、「サッカー」とでも表示すべきものです。「けまり」は平安朝以降の公家たちの、優雅なボール蹴りを指します。中国では唐代から蹴鞠の字で、本来の激突するサッカーと、優美なケマリ・シュウキクのふたつを意味します。
 この映画で演じられているのは、原語「蹴鞠」ではありますが、蹴球・足球・サッカーです。

 曹操は足球・蹴鞠を重視しました。南征北戦中、たえず弓馬につとめること、そして蹴鞠(サッカー)を奨励したと記されています。「将は弓馬の道に務め、兵は蹴鞠を学んだ」。軍事教練でした。
 そして曹操の子・曹丕(魏朝・初代皇帝)の時代、景福殿講武錬兵場での足球(サッカー)競技が記されています。

 魏呉蜀の三国時代は、後漢滅亡の220年からはじまりますが、前漢の高祖・劉邦(在位 紀元前202~前195)は長安宮苑内に、大規模な「鞠城」足球競技場をつくりました。正確なサイズはわかりませんが、東西1キロメートル前後、南北は数百メートルではないかともいわれています。競技者の数はかなり多く、軍隊の進軍隊形をとった可能性もあります。
 またゴールは球門・鞠室・毬門ともよばれますが、四方をおそらく板壁の囲いで巡らせた球場の東西に設けられました。初期には穴を地面に各6個掘り、この中にボールを放り込むと得点になりました。その後、球門は東西の壁に6個の門をつくるようになったようです。後漢末期を舞台とする「レッドクリフ」は、板壁門を描いています。
 遠征地での軍隊は、移動もしばしばです。ゴールは板壁式ではなく、単に東西大地に各六穴を掘った簡易式であったそうです。その点、曹操の球戯場は南北だけは布幕ですが、東西は立派な球門をしつらえています。

 古代球技、なかでも蹴鞠のことは、年末に書き終えたと思っていました。しかしこの映画をみて、また書かずにはおれなくなってしまったのです。これを性さがというのでしょう。何かを機会にその内、また球技に逆戻りするかもしれませんね。
<2010年1月3日 謹賀新年 南浦邦仁> [202] 
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