ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

乞食 こつじき  №3

2009-12-30 | Weblog
現代日本では、乞食を見かけることもなくなりました。いくらか似たひとは、ホームレスのみなさんであろうか。
 しかし彼らはまず、物乞いをしない。乞食(こつじき・こじき)は、米銭を乞うひとを、ふつういいます。しかし、いまの法律では、自らへの寄付行為を希求する行い、金品を求める行為は、違法な犯罪とされている。本来の乞食業あるいは乞食行は、現代日本では実行できなくなってしまったのです。
 ところでホームレスの方たちは、寒風吹きすさぶなか、どのように生きておられるのであろうか。毎日あまりにも寒い。人間に限らず、動物すべてに共通する条件であろうが、生きていくためには、空気と水と、食糧が必須である。衣食住が条件ともいうが、ボロ衣をまとい、雨風をいくらかしのげば、なんとか生きていける。空気と水はまず安心だが、食べ物だけは、確保に腐心せざるを得ない。

 ところでホームレスという言葉には抵抗がある。英和辞典をみると、
 homeless 家のないひと。
 home  家・家庭・自宅・住所・故郷・宿泊所・安息所…
 house 家・家屋・一家・一族・…家(け)例:ウィンザー家・建物・商店・会社…

 確かに「ホームレス」は英語で「家のないひと」だが、日本では一般に「ホーム」は「家庭」を意味するようだ。「♪あったかホーム~」や「老人ホーム」などというのは、家屋と家庭家族の混合であろうか。しかし「家庭のないひと」だと、ワンルームマンションなどで暮らす独身単身居住者まで含んでしまう。また家庭内別居、家庭内半離婚などの場合、どうみなすべきであろうか。わたし個人のことは、さて措いて…。日本では「ハウスレス」とでも呼ぶべきか。
 しかし京の鴨川の橋下には、ブルーシートで寒風対策を見事に施した住まいも多い。一概に「家屋」住居とは何かと、決めつけるのもむずかしい。「単居野外住者」が適切かもしれない。
 私事ですが、明日からわが家の五人家族は揃って、久しぶりに播州の実家に帰省する。親の家は大正年間に建てられた古い家屋である。産まれ育った田舎屋であるが、冬場は隙間風に閉口する。風通しのいいのも、正月には考えものである。風通しの悪い住宅、密封空間こそが、現代では最高の居住所とされる。

 ところで、気になるホームレスの中高年男性がおられる。京都河原町通の繁華街の歩道で暮らす単身者である。河原町通三条上ルに、カトリック河原町教会がある。彼はこの半年くらいの間、教会玄関先の路上に居住している。また彼は眠るとき、床にゴロンと転ばず、いつも背を壁にもたれさせている。彼の真後ろガラス越しにマリア像がある。男を見守るように、小柄な女性ほどの高さのマリアは日々、微笑んでいる。わたしは通勤バスで毎日、朝晩に彼の前の車道を通っています。
 まるで聖母の御子のごとく、男はいるのです。この寒い冬も、彼は温暖地へ引っ越しをしませんでした。また道行くひとは、だれひとりとして、彼を嫌っていない。そのように感じていました。
 ところがこのクリスマス聖誕祭、教会には御降誕祭との大きな看板がありますが、そのころから彼の姿は消えました。なぜ? 彼はどこに行ってしまった?
 教会を訪れ聞いてみましたが、病気や死去ではなさそうでした。名も知らぬ、話したこともないおひとですが、新春を無事に迎えられ、2010年がすばらしい年になることを祈っています。

 さてこの河原町教会ですが、カテドラルは「聖フランシスコ・ザビエル大聖堂」といいます。イエズス会の宣教師、ザビエルが京の都を訪れたのは、1551年1月のことでした。450年ほども前です。彼は11日間、京にとどまりました。しかしこの地とひとびとに落胆し、熱望した都での布教も叶わず、西に去る。このときのことは、かつて片瀬ブログで「千秋萬歳中世史年表 新版 後編」と題して掲載しました。興味ある方はご覧ください(2009年10月11日記載)
 彼の記述によると、ザビエルは京の都を、どこかの高台から一望しています。「昔はここに十八万戸の家が櫛比していたという。私は都を構成している全体の大きさからみて、いかにもありそうなことだと考えた。今でもなお私には、十万戸以上の家がならんでいそうに思われるのに、それでいて、ひどく破壊せられ、かつ灰燼に帰しているのである」。戦乱の時代であった。
 この表現は、やはり高い位置から眺めたから書けたのであろう。ならば、一体どこから、ザビエルは都を見下ろしたのであろうか。

 明治初年の1873年新春のこと、キリシタンはまだ禁じられていました。しかしローマ教王ピオ9世は、ブロンズの聖母像を密かに京に送り込みます。名を「都の聖母」、教王自らの命名です。「ザビエルの悲願だった日本の都での布教、そして必ず教会を建てるため」まずマリアが京に着いたのです。
 しかし禁教令下、教会の建設どころか、布教活動もままなりません。ピオ9世は、京都を見下ろせる丘のうえに像を埋めることを指示しました。マリア像は明治6年、東山の将軍塚に埋められました。
 そして間もなく、日本政府はキリスト教禁制に反対する諸外国の圧力に負け、キリシタン禁制の高札を撤去する。宣教のために入洛したヴィオリン神父は7年後の1879年に、マリア像を掘り出しました。
 そしてこのマリアは、ザビエルの悲願実現を象徴し、河原町教会「聖フランシスコ・ザビエル大聖堂」の地下聖堂にいまも安置されています。

 さてザビエルが都の光景を一望した丘とは、やはりこの東山の将軍塚であろうと思います。同地は現在も、京を見渡す名所のひとつです。またザビエルは滞在中、近江坂本に行っています。天台叡山との交渉のためです。そのとき蹴上経由、三条街道・東海道を山科に抜けたのではないか。九条山峠から将軍塚まで、すぐです。坂本への往路、彼は京の街並みを見下ろした。ヴァチカンも同様の判断から、マリア像の埋蔵地に、ザビエルが登ったであろうと推察する将軍塚を選んだのであろう。
 像「都の聖母」<Notre Dame de Miyako>は、あのホームレス男性の幸福を、きっと祈り見守っていることでしょう。

 ところで明日より例の風通しのいい、隙間風刺す実家に帰省のため、ブログは数日間お休みします。パソコンは京の自宅に置き去りです。
 すべてのひとにとって、来年がすばらしい年になりますよう。
<2009年12月30日 南浦邦仁> [201]
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