ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男著 「雪国の春」 (角川ソフィア文庫 1956年改版)

2018年02月19日 | 書評
柳田国男が歩いた東北ー東北の民俗・文芸史 第7回

9) 東北文学の研究(大正15年10月) (その1)

義経伝説については入門書として、五味文彦著 「源義経」(岩波新書2004年)があります。源義経関係基本史料 として、以下の文書があり、柳田氏が取り上げた「義経記」の史学上の位置づけ分かります。
1)「吾妻鏡」  鎌倉幕府の公式史料  成立鎌倉時代  頼朝・御家人側の公式見解  義経幼年時代から全生涯に至る文献
2)「玉葉」  摂政九条兼実の日記  成立平安時代  後白河院の周辺と京都における義経の行状を知る文献
3)「尊卑文脈」  義経の紹介記事が記載されている 成立南北朝  清和源氏の系譜
4)「源頼朝文書」、「鎌倉遺文」  手紙や私文書  成立鎌倉時代  源頼朝関係文書の文献
5)「平治物語」  「平家物語」と同じ合戦の物語  成立鎌倉時代 琵琶法師が伝えた軍記物語で脚色が多い
6)「平家物語」  平治物語と平家物語はおなじ成立基盤を持つ  成立鎌倉時代  琵琶法師の軍記物語で脚色が多いとはいえ義経の全盛期をリアルに叙述
7)「義経記」  義経伝説  成立室町時代  義経没落後の時期を描く 能や幸若舞の芸能化の過程で作られた 情緒的な義経像
8)「弁慶物語」 弁慶伝説 成立室町時代  「義経記」とセットになって作られた 弁慶については史料は極めて少ない伝説上の人物
9)「曽我物語」 武将の遺児曽我十郎・五郎の仇討ち物語 成立鎌倉時代  瞽女によって担われた神霊色が強い仇討ち物語
奥州での義経の物語は逆に「義経記」しかないといえる。その要旨は以下である。義経奥州で滅亡ー「義経記」伝説より  1187年2月の「吾妻鏡」には義経が奥州秀衡の庇護の下にある事を認めたとなっているが、4月になっても義経発見の祈祷を行っているのでこの記事はうそである。しかし遅くとも6月には確信したようだ。「義経記」では京から近江を経て北陸道で奥州に下ったとしている。藤原秀衡一族の勢力は北陸道(富山・新潟)から北関東(群馬・栃木)にまで及んでいたようだ。鎌倉殿の支配が及ばない国を経て義経主従四人は無事平泉に着いたのである。1186年9月秀衡は重病に落ちいった。秀衡は遺言で義経を大将軍とし国務に当たるよう泰衡に命じて10月29日になくなった。1188年2月の宣旨は義経追討を命じ、院庁下し文は藤原基成と泰衡に義経を召し取る事を命じた。泰衡からの返事が煮え切らなかったので再度宣旨をだすと、泰衡は義経を討ち取ることを約束した。4月30日泰衡は衣川の館で義経を誅殺したという。6月13日義経の首が鎌倉に届いて和田義盛と梶原景時が検分した。藤原泰衡は鎌倉殿に恭順の意を表明していたにも関わらず、頼朝は宣旨なしで軍を奥州に進めた。藤原基成は捕捉され泰衡は9月に討ち取られた。こうして頼朝は懸案の奥州征伐に成功し北の脅威を取り除いた。平泉は「兵ものどもが夢のあと」となったのである。

(つづく)


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