ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 柄谷行人著 「憲法の無意識」 (岩波新書 2016年4月)

2017年06月27日 | 書評
悲惨な戦争体験によって日本人は内発的に普遍的価値である憲法9条を選んだ。これは誰にも変えられない日本人の無意識となった。 第3回

1) 憲法の先行形態ー明治以降の歴史 (その2)

 古代より日本は島国だったので、外国による征服は簡単ではなかった。また国内でも覇を唱えるより天皇の権威だけを利用する伝統が続いたため、こじんまりと「万世一系」の天皇制が長寿を保つことができた。大陸国家ではこうはいかない。数百年続いた王朝は、かならず「易姓革命」によって滅ぼされる。絶対権力はかならず倒されるという鉄則がある。もし日本が大陸の周辺地域で地続きなら、朝鮮と同様に、中国王朝が変わるごとに踏みにじられて征服されていたはずである。日本の古代国家は権力と権威、実力と呪力の二元性に基づいていた。飛鳥時代までは天皇が変わるたびに、天皇の兄弟、一族間と豪族を交えた戦争が起きていた。奈良時代から天皇の実力が低下し、藤原氏と婚姻を繰り返すことで権力は藤原氏に移行し、藤原氏は戦争が起きないように女性の天皇を多く起用した。キングメーカーは皇族ではなく藤原氏になったのである。藤原氏は天皇の外戚として天皇を懐中に収めた。政権或いは幕府の正統性は、天皇を握ることであるという伝統はここから始まった。しかし天皇親政はほぼ平安末期で終わり、12世紀ごろから台頭した荘園という貴族の私有地の地頭であった武家集団も絡んだ、天皇家・貴族・武士の複雑な権力関係となった。保元・平治の乱以降荘園の二元的支配は武士の手に落ちた。武力で乱を制した平家は天皇の外戚となり天皇の権威を利用して、政治を占有し藤原氏の立場に自らを置いた。こうして12世紀末には形ばかりの天皇親政も消え失せた。鎌倉時代には源頼朝は征夷大将軍として鎌倉に幕府を開き、御家人という武家階級を軸とした政権をかくりつして、全国の土地訴訟権を握った(追捕使という役職によって)。天皇制は武家階級によって生活を保障され、六波羅探題に監視されるという扱いによって、急速に土地基盤と貴族文化を失った。1333年鎌倉幕府が新田義貞によって滅ばされると、後醍醐天皇が王政復古(天皇親政による中央集権国家)を図ったが、わずか2年足らずに足利尊氏の謀反で崩壊した。後醍醐天皇は新田や足利の武士の力の上に成立したのに、彼らの利益を無視し復古的な天皇親政を行ったために足利氏によって見捨てられたのである。その後ゲリラ的な構想に過ぎない「南北朝時代」を経て、室町幕府が京都にひらかれた。鎌倉時代・室町時代の封建制は臣下の武功(忠誠)にたいして恩賞(風)を与える互酬原理に基づいている。それができないと(経済的な外部のこと)政権は崩壊する。15世紀中ごろから日本全土は応仁の乱から戦国時代の群雄割拠の時代となった。足利将軍家の凋落も哀れであるが、それでも決定的な覇王が長い間でてこなかったので、足利将軍家の権威を利用する諸侯が天下を狙う構図が続いた。天皇家の凋落はもっとひどいもので、もう誰も天皇を担がなかった。そこで織田信長は天下布武のため足利の権威を捨て天皇の権威に眼をつけた。絶対君主を狙った織田信長は派遣が出来上がれば天皇の権威させ捨てる気でいた様だ。そこを名門と権威を貴ぶ明智光秀(岐阜の土岐という名門武家の末裔)によって信長は暗殺された。裏では藤原貴族の手引きがあったようだ。信長や秀吉は中央集権絶対君主制と膨張主義を特徴とした戦国武将である。徳川家康はいろいろな面で秀吉の後始末に追われた。戦国時代を完全に終わらせることでした。そのためにはもうほとんど乞食状態であった没落天皇家を再興し、形の上では将軍家を拝命して全国を支配する大義名分を得ることでした。そうしないと、また誰かが天皇を担いで反乱を起こすかもしれなかったからです。徳川の封建制は極めて中央集権的であって、地方の諸侯の勢力を削ぐために「参勤交代」や「寺院の修復」、土建工事というインフラ事業を頻繁に興しました。徳川時代ので戦争はすっかリ影を潜め(全国を細分したのですからもう新たなフロンティアは存在しない)、封建制と言っても武士階級は官吏のようなものになりました。官吏には学問が必要です。幕府公認の儒学(朱子学)を習わせました。当時武士層で読み書きができる者はいなかったのです。徳川幕府の重要な政策は「鎖国制度」です。着っ対は長崎平戸で管理された、明、朝鮮、オランダとの交易はありました。特に朝鮮との国交修復は重要でした。朝鮮通信使が将軍が変わるたびに日本に表敬訪問をするようになりました。こうして徳川幕府は海外の列強の侵略を防ぐため鎖国しましたが、目はしっかりと世界に開いていました徳川の体制は、様々な点で第2次世界大戦後の日本の体制と類似しています。第1に象徴天皇制です。第2に全般的な非軍事化です。戦後憲法第1条と第9条の先行形態として見出す者は、明治憲法ではなく、徳川時代の国制でした。憲法第1条は徳川の象徴天皇制と同じです。憲法9条は欧州のいろいろな不戦条約に理念を見ることはできますが、「徳川の平和 パックストクガワーナ」がそのもとにあるといえます。敗戦が日本人にもたらしたものは、明治維新以来日本が目指したことへの総体的悔恨です。第2次世界大戦後に「無意識の罪悪感」が深く沈着したのでしょう。徳川時代は260年以上戦争と無縁でした。戦後は70年間戦争を起したり巻き込まれたりしていません。キリスト教徒内村鑑三やアナーキスト幸徳秋水の非戦論より、ロマン派歌人与謝野晶子の日露戦争の反戦歌より深い意識層における反戦論です。金輪際戦争にはゆかないという無意識の決意です。吉田首相の「再軍備などは愚の骨頂、痴人の夢」の言葉より深いのです。

(つづく)