ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 加藤典洋著 「戦後入門」 (ちくま新書2015年10月)

2017年06月17日 | 書評
安倍首相の復古的国家主義の矛盾を批判し、対米従属と憲法9条の板挟みであえぐ日本の戦後を終わらせる試論 第7回

第3部 原子爆弾と戦後の起源(その2)

 次に原爆を投下された日本の深刻な影響を見てゆきます。原爆を投下されて4日後、日本政府は8月10日、スイス政府を通じて国際社会に向けて抗議声明を出しています。声明の要旨は、広島・長崎は軍事目標ではなく地方都市であること、目標にしてはその威力が広大であること、無差別殺戮で戦時国際法違反にあたるということでした。この抗議を発した5日後、8月15日日本政府はポツダム宣言受諾を表明した。米国政府としては戦後の国際社会での原爆による覇権の確立に向けて、この抗議をどう無力化するかという答えが「無条件降伏」説だった。この点を指摘したのが、1970年代後半の評論家江藤淳であった。かれは、もともと無条件降伏でないものを、戦後の日本人は占領時代の言論統制によって無条件降伏と思い込まされてきたと主張しました。連合軍最高司令官マッカーサーは9月2日の戦艦ミズーリでの降伏文書署名式の翌日、重光葵外相と会談し、ポツダム宣言に沿った日本の間接統治方式に合意しました。しかし同日米国本土ではバーンズ国務長官は「物的武装解除だけでなく、精神的武装解除も一層重要である」という声明を出しました。そして9月6日にはマッカーサーにトルーマン大統領の指令が届きました。大統領指令には「我々と日本関係は契約的基礎に立つものではなく、無条件降伏を基礎とするものである」旨が記されていた。大統領は連合軍を無視して、日本を無条件にアメリカの従属下に置くと宣言しているのです。9月中にGHQはメディアを日本政府から切り離し、直接統制下に置き言論統制政策を開始しました。まず第一に、9月10日に「新聞報道取り締まり指針」について言及し、そして9月18日、占領軍兵士の非行記事や原爆投下に触れた鳩山一郎氏の談話記事を掲載した朝日新聞を24時間の発行停止処分にした。この発行停止処分に対する朝日新聞の対応には、その後の日本社会特有の定型を先取りする、戦後型思想転換が見られた。(戦前では官憲の圧迫による思想、信条の放棄を転向といったが) 8月23日の朝日新聞の社説「自らを罪するの弁」には、敗戦という厳しい現実を前に「同胞の意志と利益を代弁すべくしっかりと抵抗してゆくことがメディアの使命」と書いておきながら、発行停止あけの9月21日の社説「重臣責任論」には、軍国主義糾弾の論調に変じ、矛先は内に向かいます。「既往に対する峻烈な批判を必要とする。厳正な自己批判、これこそ転換への真実の踏切りたらねばならない」といいます。朝日新聞が発行停止処分に遭ったのは同社に抵抗の姿勢があったからです。戦争体験が日本人の内奥から自身を変えたのだろうか。江藤はこれを米国による戦後日本の思想改造の企てといいます。(歴史にタラレバは禁物ですが、もし米国の強い民主化の指令がなければ、日本の戦前支配層による社会の民主化は永久に期待できず、何十年か何百年か先の民主革命に依らざるを得なかったでしょう) こうして9月中に大統領指令に基づいた無条件降伏政策の占領方針が完成してゆきました。日本国民を国際秩序の価値観のメンバーから排除し、一時的な禁治産国とすることが米国の狙いでした。ここで日本の国益から抵抗すれば、米国を国益を押し付けられるだけです。だから米国とおなじ民主原則と自由という国際秩序を基礎づける価値観に立ったうえで、無条件降伏論や言論統制をはじめとする占領政策または東京裁判への批判を行わうという道が、唯一我々日本人に可能でした。普遍的な米国と同じ言葉を持たなければならないということです。そのためには戦前と戦後のつながりをきっぱりと断つ必要があります。我々は変えられたのではなく、変わったのだでなければ合理的な話し合いはできないでしょう。GHQの占領下の検閲指針にはとくに「原爆」を禁止用語にした形跡はありません。しかし占領期間中は原爆はタブーであり不思議に見えないものであり続けた。原爆投下を批判した鳩山一郎が1946年5月に公職追放を受け巣鴨刑務所に収監された。国内の新聞から、GHQの介入によって原爆の記事はほぼ見あたらなくなった。同年9月に発表された米国戦力爆撃調査団の報告書には、1945年9月から12月に日本人を対象に行われた全国アンケート調査結果で、原爆投下に対し米国に憎悪を感じる」人は日本全体で12%、広島・長崎で19%でした。文学作品には被爆体験を描く作品はありましたが、非難する内容ではありません。この原爆投下への「無力」。「沈黙」の典型的な現れは1952年に完成された広島平和公園の「原爆死没者慰霊碑」です。「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しません」と刻まれています。インドのパ-ル判事はこれはおかしいと発言しています。原爆を落としたのは日本人ではない。終戦記念碑ならともかく、原爆で亡くなった人の慰霊碑において、原爆を落とされた側の一般市民の日本人の過ちとは何だろうか。原爆を落とした人々の手は清められていないとパール氏は指摘したのです。広島市は復興を願う心から、米国批判はしない、過去を振り返らないというGHQの鉄則の前に屈したのでした。抵抗の意志を放棄したのです。原爆が日本降伏の決め手であるなら支配者と日本政府がいる東京に落とすべきでした。それなら一発で済んだはずです。二つの地方都市が犠牲になる必要はなかった。占領後の支配を考えたところから東京を避けたのであり、この構図は原発設置の論理と同じです。

(つづく)