ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 杉田 敦著 「権力論」 (岩波現代文庫 2015年11月)

2017年02月25日 | 書評
ミッシェル・フーコーの政治理論と権力論の系譜  第21回

Ⅱ部  権力の系譜学
5) アイデンティティと政治
  (1) リベラルーコミュニタリアン論争


20世紀末の10年はリベラリズムとコミュニタリア二ズムの対立が、アメリカの政治哲学、法哲学、倫理哲学の世界で華々しく議論されてきた。現在はポストモダニズム(脱近代主義)や多文化主義などの見解が、リベラル、コミュニタリアンの双方に論争を挑んでいる。この章ではポストモダニズム(脱近代主義)や多文化主義によって政治哲学がどう論議されてるかを見てゆこう。まず最初はリベラリズムとコミュニタリア二ズム論争をまとめる。現在北米の思想界で代表的なリベラリストと言われるジョン・ロールズ、ロナルド・ドゥオーキンや、コミュニタリアンと言われるチャールズ・テイラー、アラスデス・マッキンタイアーの間では直接手的な議論はないが、リベラル陣営とコミュニタリアン陣営の論議を対照的に捉えてゆくと、第1に個人と社会の関係について個人が社会に先立って主体として存在するとするリベラルに対して、コミュニタリアンは逆に個人は社会の中で人間となると強調する。リベラルにとって社会は選択的契約として成立する。コミュニタリアンによれば人間はある社会に属し、伝統の中で習慣的な行動様式を習得して人間となる。第2に共通善に関してリベラルはいかなるライフスタイルを選択するかは個人に委ねられており社会は干渉すべきでないとする立場である。リベラルとしても最低限度守るべき社会のルール(正義)はあるとして、正義の共有は「善」について各人の判断を保障する条件で干渉ではないという。コミュニタリアンは社会は一定の徳ないし善を満っていなければ、正義も定義できないとするのである。第3に価値痴女を巡る問題に対してリベラルは善相互の序列はなく、どの善を選択するのも自由であるという。コミュニタリアンは相対主義は有害であり、社会に共有された善の相互比較は可能であるとする。両者の差異は断絶的ではなく、強調点がずれているだけのことかもしれない。テイラーは「帰属意識」つまり社会の結合力をいかに確保するかの問題であり、リベラル派の選択が社会を破壊するわけでもないとしている。リベラル派の確信は「啓蒙された自己利益」という概念からきている。文明が進めば人はそれほどバカでなないということである。ちゃんとバランスを取っているから大丈夫というわけである。この20年ほど新自由主義の猛威により、自分自身の短期的利益だけを追求して負担は回避する風潮(ただ乗り)が進んだ。このため家族や地域共同体を失って、心がすさんできている。テイラーらは集合的なアイデンティティを回復する必要性を訴えた。共和制的な意識を植え付けることをしないと社会は破壊されるという。これは誰に向かって言っているのか分からないが、資本家や企業に向かっているのか、労働者や貧困層に向かっているのかそこが問題なのだが。

(つづく)