ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 杉田 敦著 「権力論」 (岩波現代文庫 2015年11月)

2017年02月16日 | 書評
ミッシェル・フーコーの政治理論と権力論の系譜 第12回

Ⅱ部  権力の系譜学
2) ミシェル・フーコーと政治理論
(1) フーコーの仕事


フーコーは従来の政治学の主流を占めてきた学派とは全く異なる視点で権力観を示すことによって、政治学に深刻な衝撃を与えてきた。フーコーは自分の方法について最初は「考古学」と呼び、その後「系譜学」と呼んだ。「考古学」時代の著作は、「狂気の歴史」、「言葉と物」、「知の考古学」、「系譜学」時代の著作には「言語表現の秩序」、「監視と処罰」、「性の歴史」がある。考古学時代にはフーコーは「エピステーメー」(ある時代のあらゆる知識を秩序付ける構造 パラダイムに近い概念)を軸に解説している。言語表現の間に存在するルールの発見という意味で、知を規定するルールを明らかにしようとした。まだこの時期は知を規定するルールと社会実践を規定する権力の関係の問題ははっきり述べてはいない。「系譜学」の時代になると、フーコーは権力/知の相互関係について注意を向けるようになる。「真理は権力なしには存在しない」という。社会は固有の真理体制を備えていて、これは真理は権力によって生み出されることを言っている。フーコーは構造主義からもマルクス主義からも離れた。マルクス主義の解放理論の否定に関して歴史の法則というものを「系譜学」は拒否するのである。歴史とは偶然性の積み重ねに過ぎないというニーチェ主義を前面に立ててマルクス主義とは一線を画するのである。「狂気の歴史」においてフーコーは、産業育成のためには非合理的存在に対して基本的に「排除としての権力」を前提としたが、「系譜学」時代にはフーコーの権力概念は大きく変わった。犯罪者の身体と魂の改造・矯正・再生に重点を置くようになった。権力は排除であったが、今やそれは「規律」となった。規律のテクノロジ-は監獄に限らず学校、工場、病院などの施設に適用され、我々の社会を広く覆っているという。続いて「性の歴史」においてフーコーが描くのは、客体としての成立過程と相補的な主体としての人間の成立過程であった。これをフーコーは「牧人・司祭型権力」とよぶ。人間は従属的な存在でありながら、自分の真理を語る主体でもある。こういう意味で、支配者も被支配者も両方とも「主体化」の権力を及ぼされていると考える。こうして新しい権力は生命に対して積極的に働きかける権力となる。これを「生の権力」と呼ぶのである。近代からの人文科学の進歩は、法学を始め心理学、統計学、犯罪学など人間を客体化するテクノロジーとして、国民を統治する技法の開発によって、生権力の理論は支援されてきた。そこでは権威システムや規律などはいらない、個別的な「生の技術」が必要とされる。普遍的な真理に基づく革命ではなく、アド・ホックな抵抗の問題に転換された。限定的な分野で現実的・物質的・日常的闘争についての知を提供する「特定領域の知識人」こそが必要なのであると説く。

(つづく)