ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 堀田善衛著 「時間」(岩波現代文庫 2015年11月)

2016年03月31日 | 書評
「殺、掠、姦」の南京虐殺事件の中、中国人知識人の立場になって人間存在の本質に迫る戦後文学 第3回

1) 「時間」のあらすじ
 
* この作品の主人公は、終始「わたし」という一人称代名詞で登場するのですが、陳英諦という名を持っている知識人で、中国の文化についてはもとより欧米文化にも造詣の深い人物です。いくどかヨーロッパを訪れたこともあり、ヨーロッパの諸言語にも通じています。年のころは37歳、国民党政府の「海軍部」日本流に言えば「海軍省」に文官としてつとめて8年になります。1920年の蒋介石による労働者学生の大弾圧殺戮事件のときには、学生として弾圧された側にいた、という経歴を持っています。兄の陳英昌は日本に留学したことのある司法官の役人です。陳家も富裕な階級に属していて、兄英昌が政府の幹部たちとともに南京を逃げだすにあたって南京に留まる弟英諦に厳命したのは、なんと、予想される日本軍の占領下という条件のもとでも家と財産を守れ、いや、殖やせといったことでした。この彼が住んでいた家は、3階建で19室もある洋館です。彼の妻の本名は清雪ですが、結婚前にしばしば散歩にいった莫愁湖のほとりにかつて住んでいた六朝時代の女流詩人莫愁の名を借りて莫愁と呼ぶようになっていました。彼女が、英諦にとってかえがえのない愛の対象であったことだけははっきりわかります。この彼女とのあいだに英武という幼い男の子がいます。この作品は、明確な章別編成はとっていませんが、およそ4部に分つことができます。
* 第1部は、1937年11月30日から12月11日までです。つまり、日本軍の南京攻撃を予期しての政府機関が漢口に疎開してから日本軍が城内に入ってくる寸前までの南京のようすを描いています。この先どうなるのかわからない市民たちの不安に満ちた毎日のようすです。国民政府の漢口疎開が象徴していたのは、南京を脱出できる地位と身分と金を持つひとびとと南京に置きざりにされて身動きできないでいる庶民たちとの絶対的な落差でした。とりわけ、蒋介石主席そのひとが夫人や腹心たちとともに飛行機で脱出したあと、南京防衛軍の幹部将校たちのなかでも気の利いた連中はさっさと脱出してしまいました。とりわけ、南京の「咽喉」である蘇州からいのちからがら脱出してきた従妹の楊嬢の口から語られる日本軍将兵の暴虐ぶりは迫真的です。

* 第2部は1938年5月10日から6月2日までとなっていますから、第1部の最後からほぼ半年の空白がある。このあいだに、しかし、前年12月13日つまり日本軍が南京城内に入って占領した日から約3週間にわってくりひろげられた、南京市民に対する日本軍将兵のかずかずの暴行陵辱がおこっていた。これこそ「南京大虐殺」として歴史にとどめられることになったことがら以外のなにものでもありません。そうした暴虐の実相を、陳英諦自身の体験にもとづいて記した部分が、回想として、この第2部には挿入されています。この暴虐は、作中では、「殺、掠、姦」と簡潔に表現されています。日本軍が南京を占領した初日13日の夜に、早くも、陳英諦は妻子と楊嬢ともども針金で後ろ手に縛られ数珠繋ぎにされて、近くの小学校に連行されます。ここにはすでに地域住民が収容されていて、校庭には屍が積みあげられてた。丸裸で胴体にはまったく傷がなく手足も完全なのに首だけがない、という屍体もあった。その日の朝早く四時ごろから順番に殺されたひとたちの屍体でした。額や掌に軍帽をかぶったり銃を持ったりした跡がないか見るといったいいかげんな検査法で、毎日麺棒で粉をこねるために指にたこのできている男だの鞄をかける職業のため肩に跡がついていたバスの車掌だのまでが兵隊と見なされて殺されたのだという。校外からも断末魔の叫びが聞えてきていた。午後になって殺戮が一段落すると、その屍体を校外のクリークに運び水中に投げこむ作業に、陳英諦を含む男たちは駈りだされました。翌14日の夜、いよいよ、酩酊した日本兵によるレイプがはじまった。陳たちは、あらかじめダブルスパイから手引きされていたので、鍵のかかってない門を探しあてて逃げだし、雪の降りしきるなか、野ざらしになった柩のあいだにかくれ一夜をすごしたのち、金城大学に設置されていた安全地帯にたどりついた。けれども、ほんの数時間後には、そこにもまた日本兵が「俘虜を捜索するという名目で乱入してきた」のです。陳は、最初に日本兵が家に侵入してきたとき左腕に傷を負っていたために、俘虜と認定され、他の男たちといっしょに後ろ手を数珠繋ぎにしばられて、トラックに押しあげられ、これが莫愁たちとの今生の別れになってしまいます。その後、クリークのほとりで、機関銃を掃射され、クリークに転落します。けれども、九死に一生を得て、10日間そこらの空き家にかくれ、高熱にうなされているところをだれかにたすけられて、病みあがりのからだで金城大学の方向へ歩いている途中で日本兵につかまって、軍夫にされ、荷担ぎ人足生活4ヶ月ののち、脱走して、わが家にたどりつき、そこを接収して暮していた日本軍の情報将校桐野中尉に、その家の下僕であると身分をいつわって申告し、中尉の「下僕兼門番兼料理人」として暮していくのです。ただ、この彼は、一方で知られてはならない秘密の任務を、奥地に疎開した政府から負わされてもいます。日本軍の動向その他南京で入手しうる情報を、この家の地下に秘密に設置してある無電機によって打電するという任務です。同時に、5人の諜報員を指導し統率する立場にもおかれています。そのうち、陳英諦は、刃物を研いだり売ったりする行商人「刃物屋」に出会います。この彼の正体はこの段階ではまだわかっていないのですが、陳が日本軍の軍夫にされているときいっしょにこきつかわれていた青年でともに脱走したなかまであること、彼がどうやら地下にもぐっている共産党員であるらしいことはわかります。ここではじめてではなく、じつは以前から登場してはいたのですが、陳英諦の「伯父」なる人物が、英諦の予測にたがわず、日本軍への協力者として英諦の前にあらわれます。

* 第3部は1938年6月30日から8月22日までです。この期間に、英諦は、以前この屋敷の使用人の一人であった洪嫗に出会い、彼女の口から息子英武が日本兵に殺された顛末をくわしく聴きとります。また、ついにほんとうの身分を桐野中尉に知られ、知識人にふさわしい仕事をするようにと懇切に勧められます。このような好意を辞退することは日本軍への敵意をあらわすことになりかなり危険なことではあったのですが、陳は、あえて辞退して下僕にとどまります。この桐野は、しかし、それ以来、なにかにつけ英諦ととかく知識人同士の話をしたがるようになります。会話は英語でおこなわれます。桐野はどうやら召集される以前は大学教授であったらしい。この桐野に対する陳の観察には、日本人知識人のありようについての痛烈な皮肉も感じられます。ここで、生死もわからなかった従妹楊嬢の消息が「刃物屋」からもたらされます。楊は生きていたのです。ただレイプによって黴毒にかかっていた。それだけじゃなく、レイプによって妊娠もしたが腹を強打して堕胎したようだった。それらの苦痛をやわらげるために麻薬を使ったのが原因でヘロイン中毒になっていた。この楊は、陳の家族とともに日本兵に拉致されたおり、いちはやく、日本語のできる者をさがして「接敵班」を、医者をさがして「衛生班」を、老人と幼児の世話をする「女子青年班」をといったふうに、収容されていた500名ほどの市民を組織し、無用の犠牲者を出さないようするために動きだすなどして、「新しい時代は血ぬられた枯草の下から爽かに芽生えてきている」と陳英諦をうならせたような娘です。この彼女にしても、あの時期のあの暴虐の犠牲となることをまぬかれえなかったのです。彼女は、また、英諦の妻莫愁とさいごまでともにいた人物なのですが、その彼女にしても、ついに、莫愁の最期を見届けることはできなかったという。殺されたことだけは、しかし、確実だった。この第3部の末尾近くに、ダブルスパイとなっていたKとの対決のシーンが出てきます。ここではじめて、このことがあの「上海事件」のときともにたたかった画学生であり、英諦の友人であったことがあかされます。この対決そのものが、ですから、諜報員の指揮監督者と忠誠を疑われた諜報員とのありきたりの対決のレベルを超えて、まさに生の根の部分にかかわってくる深い対決になっています。

* 第4部は1938年9月12日、13日、18日に10月3日の4日だけであり、従妹楊嬢の蘇りの苦闘を描くことだけに集中しています。希望の象徴です。諜報員だった陳英諦と桐野大尉が同居していること自体無理な話で、陳英諦も予感しているのですが、いずれ無線機を発見され、陳が諜報員だったことがばれ、拷問され殺される運命が待ち受けていることは明白なのですが、それについては書かれてはいません。
(なお「時間」のあらすじについては、サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/以上にうまくまとめることはできないと思い、再構成して一部転載させていただきました。厚くお礼申し上げます)

(つづく)