ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 堀田善衛著 「時間」(岩波現代文庫 2015年11月)

2016年03月29日 | 書評
「殺、掠、姦」の南京虐殺事件の中、中国人知識人の立場で人間存在の本質に迫る戦後文学 第1回

序(その1)

堀田善衛(1918年大正7年7月7日 - 1998年平成10年9月5日)という作家・評論家は、気になる作家です。私がいままで読んだ本は、堀田善衛著 「方丈記私記」(筑摩書房)、堀田善衛著 「定家明月記私抄」(ちくま学芸文庫)、堀田善衛著 「ゴヤ ⅠーⅣ」(朝日文芸文庫)である。本書「時間」もそうであるが、小説というより評論、文化批評に近い文体です。平易な表現の中で奥深い何ものかを探ろうとする著者の姿勢・問いかけに共感が持てた。この「時間」という南京虐殺事件で日本軍が中国南京市民を銃殺する描写には、「ゴヤ」の処刑の場面と共通するところがあると直感した。本書は中国国民政府の諜報機関の知識人が語るモノローグの日記形式で構成される。そういう意味で本書は中国近代化前の民衆を描いた魯迅著 「阿Q正伝」に似たところがあると思う。登場人物は、私こと陳英諦、妻の楊莫愁、子の英武、従妹の楊女史、召使の洪嫗、兄の政府役人英昌、伯父、日本軍桐野大尉、ダブルスパイK、刃物研ぎの青年(共産党員?)とあと2,3名に過ぎない。ロシア小説のように膨大な人の名を覚える必要はない。1937年12月12日、日本軍が南京に突入した夜の惨劇から話が始まり、1938年9月18日までの主人公「私」の生きるということの記録である。本書「時間」のあらすじに入る前に、堀田善衛氏のプロフィールと本書の位置づけについて概観しておこう。富山県高岡市の生まれ。旧制金沢二中から1936年に慶應義塾大学政治科予科に進学し、1940年に文学部仏文科に移り卒業。大学時代は詩を書き、雑誌『批評』で活躍したという。戦争末期に国際文化振興会の上海事務所に赴任し、そこで敗戦を迎える。1945年5月武田泰淳氏と共に南京を旅し、南京事件の見聞を得たようだ。敗戦直後、上海現地の日文新聞「改造日報」に評論「希望について」を発表。同年12月に中国国民党中央宣伝部対日文化工作委員会に留用される。翌年12月まで留用生活を送る。1947年に引揚げ、世界日報社に勤めるが、会社は1948年末に解散する。この頃は詩作や翻訳業を多く手がけていた。アガサ・クリスティの『白昼の悪魔』の最初の邦訳は堀田によるものである。1948年に処女作である連作小説『祖国喪失』の第1章「波の下」を発表、戦後の作家生活を始める。 1951年に「中央公論」に話題作「広場の孤独」を発表、同作で当年度下半期の芥川賞受賞。また、同時期に発表した短編小説「漢奸」(「文学界」1951年9月)も受賞作の対象となっていた。1953年に国共内戦期の中国を舞台にした長編小説『歴史』を新潮社から刊行。1955年に「南京事件」をテーマとした長編小説『時間』を新潮社から刊行。1956年、アジア作家会議に出席のためにインドを訪問、この経験を岩波新書の『インドで考えたこと』にまとめる。これ以後、諸外国をしばしば訪問し、日本文学の国際的な知名度を高めるために活躍した。また、その中での体験に基づいた作品も多く発表し、欧米中心主義とは異なる国際的な視野を持つ文学者として知られるようになった。この間、1959年にはアジア・アフリカ作家会議日本評議会の事務局長に就任。モスクワでパキスタンの詩人ファイズ・アハマド・ファイズと知り合ったのは1960年代である。ジャン=ポール・サルトルとも親交があった。日本評議会が中ソ対立の影響で瓦解したあと、1974年に結成された日本アジア・アフリカ作家会議でも初代の事務局長を務めた。また、「ベ平連」の発足の呼びかけ人でもあり、脱走米兵を自宅に匿ったこともあった。政治的には戦後日本を代表する進歩派知識人であった。1977年の『ゴヤ』完結後、スペインに居を構え、以後はスペインと日本とを往復する。スペインやヨーロッパに関する著作がこの時期には多い。また、1980年代後半からは、社会に関するエッセイである〈同時代評〉のシリーズを開始。同シリーズの執筆は堀田の死まで続けられ、没後に『天上大風』として1冊にまとめられた。受賞作品としては、 ①1952年 - 第26回芥川龍之介賞(『広場の孤独』)、②1971年 - 毎日出版文化賞(『方丈記私記』)、③1977年 - 大佛次郎賞(『ゴヤ』)、ロータス賞(『ゴヤ』)、④1994年 - 和辻哲郎文化賞(『ミシェル城館の人』全3巻)、⑤1995年 - 1994年度朝日賞、⑥1998年 - 日本芸術院賞(第二部(文芸)/評論・翻訳)がある。

(つづく)