ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

東日本大震災と医療問題:避難生活の長期化により要介護のニーズが高まる

2011年04月21日 | 時事問題
医療に関する提言・レポートfrom MRIC by 医療ガバナンス学会(2011年4月19日) 「避難所生活の長期化がもたらしたもの」 植田信策 石巻赤十字病院より

 4月中ごろ石巻赤十字病院エコー検診チーム、東北福祉大学リハビリ学科チームと宮城県理学療法士協会の合同で、避難民約900人を対象として、要介護度調査を行なった。その結果約3%の人が介護を要することがわかった。避難民は約17000人がいるので、要介護者数は約500人となる。これだけの人を介護するには施設の確保、介護スタッフの確保など課題は山積している。原因は避難所生活の長期化による、体を動かす意志の低下、怪我体調不良による筋力低下などであろう。高齢者にたいする健康被害を防ぐために一次移住などが提案されているが、意識調査では(回答世帯数4186)では68%が移転には興味がないということです。生活の基盤を棄てることへの強い抵抗が窺えます。高齢者の肺炎、循環器障害、呼吸器疾患、脳血管障害、深部静脈血栓、肺血栓などの発症が増加することが懸念されます。避難生活で命を落とす人が増えています。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
4月21日午前8時 茨城県空間線量率データ(茨城県放射線テレメータより)
http://www.houshasen-pref-ibaraki.jp/present/result01.html
測定局    NaI線量率nGy/h  風向    風速m/s
日立市大沼     210      東      1.8
東海村石神     168      北西     1.3
水戸市吉沢     97       西北西    0.6
鉾田市徳宿     143      北北東    1.1
昨日と同じです。(22年度測定値の統計はほぼ30-50nGy/hの範囲にあった。1年間の総量被爆線量は0.43mSv以下であった)


読書ノート 白波瀬佐和子著 「生き方の不平等」 岩波新書

2011年04月21日 | 書評
生き方は個人の選択だが、そもそも最初から立つ位置が異なる 第2回

 今の日本で実際に選択できる「生き方」には、収入、ジェンダー、年齢によって著しい不平等があるのではないかという疑問から本書は出発する。子供、若者、女性、高齢者というライフステージごとに貧困の実態と原因は異なる。つまり弱者に端的に現れる不平等を解析してマクロな社会的不平等と、個人の生き方というミクロな側面を統合して考察することを本書が試みた。不平等や格差はマクロな視点である。不平等や格差は画一ではなく、さまざまな人生を送ってきた人々にさまざまな現実がが直面し、色々な現れ方でひとびとを苦しめることであり、社会の中での人の生き方を考えるうえで。マクロとミクロな視点の関連を交差させるのが本書の特徴となっている。教科書的に裁断するのではなく、生きる人の視点から問題をとらえてゆくのである。自己責任論は、最初の出発点は同じだったはずで、結果的に差が出るのはもちろん運もあるが個人の努力が反映していると見る。これは負けた者をどうしようもなく落ち込ませ再起不能にさせる論理である。これまで生きてきた節目の選択は必ずしも積極的であったとは言えず、時には不条理な選択もあったはずだ。それを「生き方の不平等」という。大きく捉えると、環境とか階層性が働いていることが従来より指摘されている。そして人生にはたまたまの要素もある。就職氷河期に出くわした若者が非正規労働者になるとそこから這い出すことはかなり困難で、一生非正規労働者のままでいる確率は高い。高度経済成長期に出くわした団塊の世代が人生を謳歌するのもたまたまの偶然とすれば、平成不況期に非正規労働者になったのもたまたまの偶然ではないか。けっしてその人の努力が足りないとか、性格とか心理のせいだとは言い切れない。しかし心理が歪めば秋葉原殺傷事件となるのである。
(つづく)

読書ノート 小田部雄次著 「皇 族」 中公新書

2011年04月21日 | 書評
明治以降の皇族の歴史を知ろう 第10回

第1部 明治・大正時代 欽定憲法と皇室典範 立憲君主制時代の皇室 (6)

 旧典範第42条に「皇族は養子を認めず」とあることにより、廃絶した宮家は多い。明治天皇の実系から遠い皇族の拡大を排する動きは強い抑止力として働いた。ところで天皇は必ずしも皇后との間に子を儲けるとは限らない。そこで1882年宮内庁に岩倉具視を総裁とする内規取調室が設置され「皇族内規」が立案された。伊藤博文、井上毅、柳原前光の間で議論され、ドイツ皇室を範とする井上毅と柳原前光(庶子であった大正天皇の義理の父)の妥協が成立した。四親王家(有栖川、伏見、閑院、桂)の存続は維持され、直系の永世皇族制、臣籍降下は内親王と女王の婚姻に限定された。こうして皇族の数に歯止めはなくなった。しかし1907年の旧典範増補では臣籍降下は明文化され、小松宮が最初の降下となった。1920年に「皇族の降下に関する施行準則」が内規として裁定され、戦前に臣籍降下した皇族の数は16名に及んだ。明治天皇直系による万世一系の男子相続の原則を貫こうとする狙いがあったものと解せられる。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「雨後看花」

2011年04月21日 | 漢詩・自由詩
催暖香風柳放芽     暖を催す香風 柳芽を放ち

東園雨後競芳華     東園雨後 芳華を競う

舞来戯蝶軽粧粉     舞来る戯蝶 軽く粉を粧い

重畳青山薄染霞     重畳す青山 薄く霞を染む


○●○○●●◎
○○●●●○◎
●○●●○○●
○●○○●●◎
(韻:六麻 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)