佐渡の翼

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若林朔汀の頌徳碑(佐渡市夷)   投稿者:佐渡の翼

2011年11月07日 03時11分32秒 | 佐渡及び首都圏近辺の面白観光スポット

両津の夷保育所の隣に諏訪神社がある。静かなたたずまいを見せるその境内の一角に、若林朔汀(わかばやし さくてい)の頌徳碑(しょうとくひ)がひっそりと建っている。神社の鳥居を潜るとまず二組の狛犬が出迎えてくれた。境内をあちこち探しまくった結果、左手の奥の方にその頌徳碑があるのを見つけた。碑に刻まれた文章は難しい漢語で書かれており、その意味がよく理解できなかった。それゆえ、以下に佐渡市のホームページに記載された内容を引用改変したものを示す。

 

「若林朔汀は、天保12年(1841年)に医師の子として夷に誕生した。代々の名を引き継ぎ「玄益」とも称した。若いころ京に上り医学や儒学を修め、詩文にも親しみ、その後故郷に帰り、家業の医師を継ぎながら塾を開き、後輩の教育に当たった。厳格な教師として有名だったが、その門下からは斉藤八郎平や土屋六右衛門など、両津の発展に尽くした人物が輩出された。明治5年(1872年)、安照寺を仮校舎として歌代郷校が開校したが、朔汀はその初代校長として就任した。同13年の新校舎完成に際し、同じ夷出身の円山溟北が「口遷校」と命名した。それが現在の両津小学校の前身である。その一方で、越佐汽船会社を創設し、新潟との定期航路開拓の基礎を築いた。また、国会開設請願委員としても奔走し、経済や政治においても大きな業績を残した。朔汀は明治28年(1895年)、54歳で他界した。墓は湊の勝広寺にある」

 

う~ん、医師にして小学校の校長先生までこなし、更に佐渡汽船開設の功労者にして政治家の側面も併せ持つ男、それが若林朔汀か?両津にこんな偉人がいたとはついぞ知らなかった。頌徳碑(しょうとくひ)とは偉い人を褒め称える碑の事である。ほんと、このブログってえ~、いい勉強になるだろう。

 



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