あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

真理を求める自我の欲望について。(人間の心理構造その21)

2023-05-08 15:43:44 | 思想
人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体の中で、自我を持って、暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、人間が、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、構造体の中で自我を得て、初めて、人間として活動できるのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、国民という自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。そして、深層心理は、常に、ある心境の下で、自我を主体にして、欲動に応じて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしている。深奥心理とは、人間の無意識の精神活動である。すなわち、人間は、無意識の思考によって動かされているのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識して思考して、意志によって行動していると思っている。人間の自ら意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、ほとんどの人は、表層心理で思考して意志によって行動していると思っている。しかし、人間は、表層心理での思考では感情を生み出せないから、行動できないのである。感情が行動の動力になっているからである。また、人間が表層心理の思考による意志によって行動していないということは主体性を有していないことを意味しているのである。そもそも、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、ほとんどの人は、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。すなわち、ほとんどの人は、自己として存在できないのである。主体的に、他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、所属している構造体から追放され、自我を失う虞があるからである。所属している構造体から追放され自我を失う覚悟のある人だけが自己として存在できるのである。すなわち、ほんのわずかな人が理性で主体的に思考して、それを意志として、行動できるのである。ところが、ほとんどの人は、自ら主体的に思考できず行動できないのは、すなわち、自己として存在できないのは、他者や他人から妨害や束縛を受けていることが原因だと思い込んでいるのである。他者とは同じ構造体の人々であり、他人とは別の構造体の人々である。そこで、他者や他人からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、表層心理で、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自らを意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。つまり、自己として生きられると思っているのである。そして、そのような生き方に憧れるのである。しかし、人間は、自由であっても、決して、主体的になれないのである。なぜならば、深層心理が自我を主体に立てて思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望が、人間を動しているからである。だから、ほとんどの人は、主体性無く、生きているのである。しかし、それは当然のことである。なぜならば、そもそも、人間は、誰一人として、誕生の意志をもって生まれて来ていないからである。そうかと言って、誕生を拒否したのに、誕生させられたわけでもない。つまり、誰もが、気が付いたら、そこに人間として存在していたのである。だから、人間は、誰しも、主体性が無く、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きるしか無いのである。つまり、人間は、自らの意志で誕生していないから、主体性が無く、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。そして、稀に、自らに主体性が無いことに気付き、疑問を覚える人が現れるのである。自らの意志によって生まれてきていず、主体性が無いことは、他の動物、植物も同じである。しかし、人間には、他の動物、植物と異なるところがある。それは、言葉を持っていることである。他の動物、植物は言葉を持っていないから、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きることも、それに気付いて疑問を覚えることも無いのである。他の動物、植物は言葉を持っていないから、思考と行動は完全に一致しているのである。しかし、人間は、言葉を持っているから、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きていることに気付き、それに疑問を覚える人が現れるのである。しかし、その人が、主体的に生きようとしても、ほとんど、挫折するのである。なぜならば、誕生の意志をもって生まれていないのに、誕生してから主体性を持とうとしても、すなわち、主体的に生きようとしても、方向性を見いだすことは困難だからである。その上、人間は、主体性が無くても、生きていけることが拍車をかけるのである。それは驚くべきことである。それなのに、ほとんどの人はそれに対して疑問を抱かない。なぜ、疑問を抱かないのか。それは、生きる意味、生きる目的を自覚していなくても、現に、生きているからである。しかし、自覚していないことは、生きる意味、生きる目的が存在していないということを意味していない。人間は、生きる意味、生きる目的を有せずして、生きることはできない。つまり、人間は、自覚していないが、生きる意味、生きる目的を有しているのである。だから、人間は、生きる意味、生きる目的を自ら意識していなくても、すなわち、自覚していなくても、生きていけるのである。それは、先天的に、人間には、生きる意味、生きる目的が与えられているからである。人間の先天的に与えられている生きる意味、生きる目的とは、ひたすら自我の欲望をかなえようと生きることとひたすら生きるために生き続けようとすることとである。まず、人間のひたすら自我の欲望をかなえようとする無意識の意志であるが、それは、深層心理によって生み出されている。深層心理は自我を欲動の欲望にかなった状況にすれば快楽が得られるので、その状況になるように思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしている。それが、人間にとって、生きる意味、生きる目的なのである。だから、人間は、生きる意味、生きる目的を表層心理で意識せず思考しなくても生きていけるのである。自我の欲望が阻害された時だけ、深層心理が苦悩するから、人間は、深層心理から苦痛を取り除く方法を表層心理で思考するのである。次に、人間のひたすら生きるために生き続けようとする無意識の意志であるが、それは、深層肉体によって生み出されている。深層肉体とは人間の無意識の肉体の活動である。つまり、人間は、無意識のうちに、深層心理の意志によってひたすら自我の欲望をかなえようと生きようとし、深層肉体の意志によってひたすら生きるために生き続けようとするのである。深層肉体あり方は単純である。深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持って、人間を生かしている。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら人間を生かせようとする。深層肉体は、深層肉体独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かしているのである。深層肉体の典型は内蔵である。人間は、誰一人として、自分の意志で、肺や心臓や胃などの内蔵の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。また、人間は、誰しも、風邪を引くと、咳がしきりに出たり、熱が上がったりする。そうなると、多くの人は、風邪のウイルスが体内に入り、咳を生み出し、発熱させたのだと思う。しかし、真実は、そうではない。真実は、深層肉体が、体内に入った風邪のウイルスを体外に出そうとして、肉体に咳をさせ、風邪のウイルスを弱らせ、殺そうとして、肉体の温度を上げているのである。しかし、ほとんどの人は、自らの意志によって動く肉体しか認識していない。人間の自ら意識して意志によって動く肉体の表層肉体と言う。表層肉体の動きとして、次のようなものがある。授業中、生徒が、教師の質問に答えようとして、手を挙げることである。正座していて、辛くなり、あぐらをかくことである。遅刻しそうになり、駆け足で急ぐことである。しかし、表層肉体の動きは肉体の活動の一部にしか過ぎないのである。肉体の大半の活動は深層肉体の活動である。さて、深層心理は、常に、ある心境の下で、自我を主体にして、欲動に応じて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我になっている人間を動かしているが、心境、感情とは何か。心境も感情も、深層心理の情態である。深層心理は、常に、心境の下にある。心境は、気分とも表現され、爽快、陰鬱など、比較的に長期に持続する情態である。感情は、深層心理が行動の指令とともに生み出して自我の欲望を形成し、人間を行動の指令通りに動かす力になっている。感情には、喜怒哀楽などがあり、人間には瞬間的に湧き上がる情態として感じられる。心境と感情は並び立たない。感情が湧き上がっている時は、心境は消えている。心境は、爽快という情態にある時は、現状に充実感を抱いているという状態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さず、自我に、ルーティーンの行動を維持させるようにする。心境は、陰鬱という情態にある時は、現状に不満を抱き続けているという状態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。しかし、自我が異常な状況に陥っていない限り、深層心理が強い感情と現状を変革するような行動の指令という自我の欲望は生み出さない。不満があっても、たいていの人はルーティーンの生活を続けていく。なぜならば、欲動に保身欲があり、それが深層心理をして、ルーティーンの生活を続けさせようとするからである。心境は、深層心理を覆っていて、深層心理も表層心理も変えることもできないが、感情は、深層心理によって行動の指令とともに生み出される。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっている。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、将来に向かって現状を維持しようとするものになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態が存在しているからこそ、人間は、表層心理で、自分の存在を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態にある自分を意識するのである。人間にとって、心境や感情という情態こそ自らが存在していることの証になっているのである。心境は深層心理に内在し、深層心理が感情を生み出しているから、人間は、表層心理で、感情を変えることができないように、心境も変えることはできないのである。さて、深層心理は、常に、ある心境の下で、自我を主体にして、欲動に応じて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我になっている人間を動かしているが、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。深層心理は、自我の状況を、欲動の四つの欲望のいずれかをかなったものにすれ、快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。つまり、欲動が、深層心理を動かしているのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・・存続・発展させたいという保身欲である。保身欲によって、深層心理は、人間を、毎日、同じようなことを繰り返させて、ルーティーンの生活を送らせているのである。それを担っているのが超自我という機能によるのである。超自我とは、深層心理に存在し、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発した、自我に毎日同じことを繰り返させようとし、異常な行動を抑圧する機能である。つまり、人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、ルーティーンの生活を望むのである。さらに、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、時には、ルーティーンから外れたことが起こる。例えば、コンビニという構造体で、店員という自我の人が、客という自我の人に、対応が悪いという理由で、大声で怒鳴られる。そのような時、深層心理が思考して、怒りの感情と怒鳴った客に対して怒鳴り返せなどの行動の指令を、自我の欲望として生み出し、店員を動かそうとする。しかし、そのような時には、まず、超自我という機能が働く。深層心理には、欲動の保身欲から発した、超自我という日常生活のルーティーンから外れた異常な行動の指令を抑圧しようとする機能があるである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。その場合、次に、人間は、表層心理で、行動の指令について検討するのである。人間は、表層心理で、自らの自我の状況を認識して、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な利得を求めて、道徳観や社会的規約を考慮し、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒否するか考えるのである。現実的な利得を求めるとは、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという志向性で考えることである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。人間は、表層心理で、自我の状況を意識し、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、自我にどのようなことが生じるかを、現実的な利得を得ようという視点で、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考するのである。この場合、コンビニの店員は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な利得を求めて、伽に対してを大声で怒鳴り返したならば、後に、自我に不利益がもたらされるということを考えて、怒鳴り返せという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した客に対して怒鳴り返せという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、怒鳴り返してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に現実的な不利益をもたらすのであまた、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した深層心理の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。承認欲によって、深層心理は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我が他者から見られていることを意識し、自我が他者に認められるように、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かすのである。フランスの心理学者のラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。つまり、人間は、主体的に思考できないのである。人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩である。先の例で言えば、コンビニという構造体で、客が、対応が悪いという理由で、大声で店員を怒鳴ったのは、客という自我が傷付けられたからである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲である。支配欲によって、深層心理は、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、他者・物・現象という対象を支配しようとしているのである。まず、他者に対する支配欲であるが、それは、他者の心を支配し、他者の行動を支配し、他者のリーダーとなることである。そうなれば、自我の力を発揮したことを意味するのである。そのために、深層心理は、他者の狙いや目標や目的などを探りながら、他者に接している。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなるような状態になれば、深層心理は、喜び・満足感という快楽が得られるのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、支配欲から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、支配欲が高じると、深層心理には、無の有化と有の無化という機能が生じる。無の有化とは、深層心理は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に存在しなければ、この世に存在しているように思い込んでしまうという意味である。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を存在しているように思い込んだのである。深層心理は、すなわち、人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、生きていけないのである。有の無化とは、深層心理は、実際に存在しているものやことを、存在していないように思い込んでしまうという意味である。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込んでしまうのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いから、いじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。深層心理は、すなわち、人間は、自己正当化できなければ生きていけないのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。共感欲によって、深層心理は、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うようにしているのである。共感欲は、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったり、協力し合ったりさせているのである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができ、恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えない。深層心理は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。もちろん、人間は、表層心理でストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した、承認欲が阻害され、屈辱感が強過ぎる者は、超自我や表層心理での抑圧は、深層心理が生み出したストーカー行為の指令を止めることができないのである。また、友人を作ろうとするのは、共感欲を満足させ、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするためである。中学生や高校生が、仲間という集団でいじめや万引きをすることがある。積極的にいじめや万引きに参加している者は、仲間という構造体で友人という共感欲に満足しているのである。渋々にいじめや万引きに参加している者は、仲間という構造体から追い出され友人という自我を恐れて加わっているのである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感欲が起こしているのである。協力するということは、互いに自らを相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で共通の敵に立ち向かうのである。北朝鮮の金正恩を中心とした政治権力者が、アメリカを共通の敵として、大衆に支持を求め、それが成功しているのである。日本の自民党・公明党政権は、中国、北朝鮮を共通の敵として、大衆に支持を求め、それが成功しているのである。さて、人間は、毎日、同じようなことを繰り返して、ルーティーンの生活を送っている。それは、欲動の保身欲によって、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間に、今日も、昨日と同じようなことをするように強いているからである。それでは、なぜ、深層心理はルーティーンの生活を強いるのか。それは、人間は、同じことを繰り返さなければ、自我に力を蓄えることができず、自我の力を発揮することができないからである。例えば、学問の進歩は、同じようなことを研究し続けることによって、技術の進歩は、同じ技を繰り返すことによってなされるのである。また、深層心理が、繰り返すことやものしか捉えられないから、人間は、世界の中で、繰り返すことやものに注目し、焦点を絞るのである。それが現象である。深層心理は、世界の出来事を永遠に繰り返すように見ることによって、世界を支配しようとしているのである。世界が支配できるように思い込んでいるのである。つまり、これは、欲動の第三の欲望の自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいというという配欲から発しているのである。世界の出来事が永遠に繰り返すように見える様態が法則である。深層心理は、法則によって、世界を支配しようとしているのである。だから、人間は、法則が無ければ、世界を見ることができないのである。天動説という法則があるから地球の周囲を太陽が回り、地動説という法則があるから太陽の周囲を地球が回るのである。プラトンがイデアという法則を生み出したから、理性によってのみ実在が存在するのである。ヘーゲルは、弁証法という法則を見出したから、全世界を理念の自己発展として認識できたのである。ハイデッガーは、世界内存在という法則を見出したから、さまざまな存在者と関わり合いながら世界の中に住みついている人間を発見したのである。畢竟、深層心理は、自ら法則を生み出し、人間をその法則の下で生かせようとしているのである。法則を生み出す原動力が志向性であり、法則によって見いだされた現象が真理である。カントは「人間は物自体を捉えることはできない」と主張する。カントは「私たちが直感する物は現象であって、私がそのように直感している物そのものではない。私たちが直感する物の間の関係は、私たちにそのように現れるとしても、物において存在している関係そのものではない。対象その物がどのような物であるか、また、それが私たちの感性のこれらの全ての受容性と切り離された場合にどのような状態であるかについては、私たちは全く知るところが無い。」と言う。つまり、カントは、「人間が認識しているのは現象であって、現象の背後にある物自体ではない。物自体は認識できない。」と主張しているのである。確かに、カントの言うように、人間は、特定の視点・観点という、特定の志向性からでしか、物を認識できないから、物自体は認識できない。志向性(視点・観点)が変われば、同じ物も、別様に見えてくる。しかし、人間は、特定の志向性(視点・観点)を持って、物を見るしかない。人間は、志向性(視点・観点)を持たずに、物を見ることができない。物を捉えるためには、特定の志向性(視点・観点)を持って物を見ることが必須条件だからである。だから、人間は、常に、志向性によって、他者・物・現象という対象を捉えて、行動しているのである。しかし、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えているのではない。すなわち、人間は、表層心理で、志向性を使って、思考して、他者・物・現象という対象を捉えているのではない。人間は、無意識のうちに、志向性を使って、思考して、他者・物・現象という対象を捉えているのである。すなわち、深層心理が、志向性を使って、思考して、他者・物・現象という対象を捉えているのである。それは、人間は、現象を、現象のままにしておくことは不安であり、現象から真理を掴み出すことによって安心する動物だからである。正確には、真理を掴んだと思うことによって安心する動物である。近代以前のヨーロッパ諸国の人々が、天体運行の基本真理として、太陽が地球の周囲を周期的に回ると考えたのは、それが、キリスト教の教義に合致し、毎日の生活で覚える感覚と合致したために、安心できたからである。しかし、近代になると、ヨーロッパ諸国の人々は、地球が太陽の周囲を周期的に回ると考えるようになった。それは、科学的な思考を導入したからである。科学の真理が、終局的には、人間に幸福をもたらすと考えたから、それを受け入れたのである。科学的な思考に、絶対的な信頼感を置くことによって、安心感を得られるので、そのように信じているのである。このように、近代以前と近代以後において、ヨーロッパ諸国の人々は、天体の基本真理としての、地球と太陽の運行の関係について、全く逆の思考をしている。コペルニクス的転回である。しかし、現代人は、それは矛盾している、問題があるなどと非難できることではない。なぜならば、現代人も、また、現象から掴み出した真理に安心感が抱ければ、それを真理とするからである。ニーチェに「永劫回帰」という思想がある。「この世は同じ事象が永遠に繰り返す」という意味である。しかし、これは、この世の事象が全て永遠に同じことを繰り返すかどうかが問題ではない。人間は同じことを繰り返す事象しか理解できないということが眼目なのである。そして、それが永遠に繰り返すと思い込んでいるのである。そのように思い込まなければ不安だからである。言うまでもなく、同じことを繰り返す事象とは真理である。真理が生まれるプロセスが法則である。人間は、この世に真理や法則が無ければ不安だから、それらを追究するのである。真理や法則は人間の存在の安泰に与すものでなければ存在しないのである。また、ニーチェは「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。もしも、深く洞察できる人がいたならば、その誤謬は、人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理の上に、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であることに気付くだろう。」とも言うのである。まさしく、真理と言えども、人間の生に有用であり、安心をが与えてくれるから称賛されるのである。だからこそ、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」が裏に潜んでいるのである。それは、「誤謬・仮象を否定して、真理も求めても、そこに、真理は存在しない」という真理なのである。だから、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」なのである。また、「深く洞察できる人」とは、ニーチェの言う「超人」である。「超人」とは、これまでの人間である「最後の人間」を否定した人間である。「最後の人間」とは、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している人間たちである。だから、「超人」とは、この世に賭け、この世に生きることを肯定して、積極的に生きる人間である。「超人」が現れると、神は必要なくなるのである。だから、ニーチェは、「神は死んだ」と言うのである。「超人」とは、「誤謬・仮象を否定して、真理も求めても、そこには真理は存在しない」という「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」を認識し、敢えて、現世を肯定して生きる人間である。もちろん、新しく打ち立てた真理も、また、誤謬・仮象である。しかし、この誤謬・仮象は、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している「最後の人間たち」の誤謬・仮象ではない。現世を肯定して生きるための誤謬・仮象である。だから、「超人」とは、自ら、この世で「神」になることを意味しているのである。しかし、「超人」は、まだ、この世に現れていない。だから、ニーチェは、「キリスト教の神が誕生し、その神が死んだが、新しい神が、まだ、現れていない。」と言うのである。