あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

むなしく時が過ぎても、それで良いではないか。(人間の心理構造その22)

2023-05-16 15:29:00 | 思想
むなしいのは、希望が無いと思うからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、それは絶望も無いことを意味するからである。むなしいのは、明日も今日と同じような生活が続くと思われるからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、それは、耐えられないほどの苦悩や苦痛が現在無いことを意味するからである。むなしいのは、自分を認めてくれる人がいないと思うからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、人間は、誰しも、自分の欲望に合致している人を認めるのであり、正当な評価というものは存在しないからである。むなしいのは、自分に地位や肩書が無いと思い、引け目を感じているからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、この世には、その地位や肩書にふさわしい人は、一人もいないからである。むなしいのは、職場で業績を上げられず、馘首されるかもしれないからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、退職させられれば、新しい仕事を探せば良く、新しい出会いがあるかもしれないからである。むなしいのは、高校で成績が上がらず、名門という大学に入りそうにないからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、名門と言うのは、大学の意味を知らない大衆の評価だからである。むなしいのは、自分に友人がいないと思うからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、友人ができ仲間になると、仲間でいじめたり、罪を犯したりすることがあるからである。むなしいのは、自分に恋人がいないからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、恋人がいなければ、失恋に苦しむこともストーカーになることも無いからである。むなしいのは、優しく声をかけられることが無いからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、優しく声をかける人は、それを習慣として行っているのであり、誰も他者を心から思いやるほど余裕が無く、真に困った他者を救えないからである。むなしいのは、楽しいことが起こらないからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、楽しいことは永遠に続かず、必ず、苦しいことや悲しいことが起こるからである。むなしいのは、日々が楽しくないからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、むなしい時は、地獄を想像できないからである。むなしいのは、現状に満足していないが、それを変えようという気が起こらからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、変革に失敗すれば苦悩するからである。むなしいのは、自分が現状に満足すべきなのか不満を抱くべきなのかわからなくなっているからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、それは現状から苦痛が与えられていないということだからである。むなしいのは、夢が無いことである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、夢はかなわないことが多く、稀にかなっても、次の夢を追わなければならないからである。むなしいのは、生きがいを覚えることが無いことである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、生きがいとは他者に評価されることであり、生きがいを追うことは他者の支配下に入ることだからである。むなしいのは、恵まれない家庭に生まれたと思っているからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、恵まれた家庭に生まれても。必ず、不幸が訪れるからである。むなしいのは、明日も同じような生活が続くと思われるからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、それは、耐えられないほどの苦悩や苦痛が現在無いことを意味するからである。むなしいのは、サッカーのワールドカップや野球のWBCで自国チームが勝っても、周囲の国民と異なり、心が躍らないからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、自国チームが勝利して心躍るのは愛国心からであり、愛国心は戦争も引き起こすからである。むなしいのは、統一教会と一心同体の政党が政権を握っているからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、それは、国民の過半数が選択したことであり、ニーチェも言うように「大衆は馬鹿」であり、「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」ように、国民は自らのレベルに合った政党を選んでいるからである。むなしいのは、政府の軍備増強の方針に国民の過半数が賛成してからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、軍備を増強すれば、戦争の可能性が高まり、ゆくゆく、国民は兵士となって戦わなければならなくなるが、マルクスが「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として。」と言うように、日本国民は太平洋戦争と同じ苦痛を味わわなければ、軍備増強の陥穽に気付かないからである。むなしく時が過ぎていく。しかし、それで良いではないか。なぜならば、確かに、むなしいのは、虚無感の中にあり、それは、夢や希望が見いだせていないということを意味するが、それとともに、苦悩や苦痛が存在しないことを意味するからである。だから、たとえ、毎日がむなしく過ぎていったとしても、それで良いではないか。楽しいことがあっても、夢からさめればむなしく感じるのは当然のことなのである。だから、松尾芭蕉に「面白いうてやがて悲しき鵜舟かな」という句があるのである。人間にとって、苦悩や苦痛が存在しないことが大切なのである。人間は、苦悩や苦痛にとらわれると、自殺すら厭わなくなるのである。だから、オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」と言うのである。それほどまでに、苦悩や苦痛は人間を損なうのである。本質的に、現実とはむなしいものである。もともと、ありのままの現実とは、無色透明、無味乾燥のものであり、むなしいものなのである。それが、深層心理の欲動に基づく思考によって、人間の現実として、色付けされているのである。だから、人間の現実とは夢なのである。夢からさめればむなしく感じるのは当然のことなのである。深層心理はありままの現実を認識できず、現実を状況化して、全ての状況を自我の現実として、自我を主体にして捉え、ある心境の下で、欲動に基づいて快感を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。すなわち、無意識の思考が人間を動かしているのである。深層心理は自我にとらわれて思考して自我の欲望を生み出すから、人間は自我にとらわれて生きるしかないのである。自我とは、人間が、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。だから、人間が言う自分とは自我を意味するのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。他者とは、構造体内の人々であり、他人とは構造体外の人々である。人間は、構造体の中で自我を得て、初めて、人間として活動できるのである。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、夫婦という構造体には夫・妻という自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があり、男女関係という構造体には男性・女性という自我がある。人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我として行動しているのである。構造体を離れて、自我無くして、人間は、社会生活を営むことはできないのである。すなわち、この世では、生きていけないのである。すなわち、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、自分として生きているように思っているが、その自分とは、構造体の中の自我なのである。しかも、人間は、自我として意志を持って生きているのではなく、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて生きているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている」と言う。ラカンの言う無意識とは、無意識の思考であり、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味し、決して、恣意的に思考しているのではないことを意味しているのである。深層心理が欲動に基づいて思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動の意味、行動の目的になっているのである。さて、深層心理は、ある心境の下で、欲動に基づいて快感を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているが、心境も感情も、一般に、気持ちと表現されるが、深層心理の情態である。深層心理は心境の下で思考する。心境は、気分とも表現され、爽快、陰鬱など、比較的に長期に持続する情態である。感情は、深層心理によって行動の指令ととも自我の欲望として生み出され、人間を動かす力になっている。感情には、喜怒哀楽などがあり、人間には瞬間的に湧き上がる情態として感じられる。心境と感情は両立しない。感情が湧き上がっている時は、心境は消えている。心境は、爽快という情態にある時は、現状に充実感を抱いているという状態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さず、自我に、ルーティーンの行動を維持させるようにする。心境は、陰鬱という情態にある時は、現状に不満を抱き続けているという状態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。しかし、自我が異常な状況に陥っていない限り、深層心理が強い感情と現状を変革するような行動の指令という自我の欲望は生み出さない。しかし、深層心理が自我の状況に不満があっても、たいていの人はルーティーンの生活を続けていく。それを担っているのが超自我という機能によるのである。超自我とは、深層心理に存在し、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発し、自我に毎日同じことを繰り返させようとし、異常な行動を抑圧する機能である。つまり、人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。しかし、自我が異常な状況に限り、深層心理が強い感情と現状を変革するような行動の指令という自我の欲望は生み出して、超自我が抑圧できない場合がある。その時、人間は、表層心理で、思考するのである。表層心理とは、人間の自らの状況を意識しての精神活動である。人間は、表層心理で、自らを意識して、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な利得を求めて、道徳観や社会的規約を考慮し、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実的な利得を求める欲望は、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。人間は、深層心理が生み出した感情の下で、表層心理で、自らの状況を意識して、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし、不利益を被らないないようにしようという視点で、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎれば、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した現状を変革するような行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動である。その結果、往々にして、他者に不幸、自我に不利益な現実が訪れるのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した強い感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、強い感情を生み出した深層心理の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかも、心境は、深層心理を覆っていて、深層心理も表層心理も変えることもできないのである。感情は、深層心理によって行動の指令とともに生み出される。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっている。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、将来に向かって現状を維持しようとするものになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態が存在しているからこそ、人間は、表層心理で、自分の存在を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態にある自分を意識するのである。人間にとって、心境や感情という情態こそ自らが存在していることの証になっているのである。心境は深層心理に内在し、深層心理が感情を生み出しているから、人間は、表層心理で、自らの感情を変えることができないのである。次に、欲動であるが、欲動とは、深層心理に内在している保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望の集合体である。深層心理は、自我の状況が欲動の四つの欲望のいずれかをかなったものであれば、快感を得るのである。そして、深層心理は、自我の状況が欲動の四つの欲望のいずれかに背いていれば、不快感が与えられるのである。だから、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得よう不快感から逃れようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。つまり、欲動が深層心理を動かし、深層心理が生み出した自我の欲望を人間を動かしているのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・・存続・発展させたいという保身欲である。保身欲によって、深層心理は、超自我という機能で、人間を、毎日、同じようなことを繰り返させて、ルーティーンの生活を送らせているのである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、ルーティーンの生活を望むのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。欲動の第二の欲望が、自我を他者に認めてもらいたいという承認欲である。承認欲によって、深層心理は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我が他者から見られていることを意識し、自我が他者に認められるように、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かすのである。フランスの心理学者のラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。つまり、人間は、主体的に思考できないのである。人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩である。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲である。支配欲によって、深層心理は、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、他者・物・現象という対象を支配しようとしているのである。まず、他者に対する支配欲であるが、それは、他者の心を支配し、他者の行動を支配し、他者のリーダーとなることである。そうなれば、自我の力を発揮したことを意味するのである。そのために、深層心理は、他者の狙いや目標や目的などを探りながら、他者に接している。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなるような状態になれば、深層心理は、喜び・満足感という快楽が得られるのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、支配欲から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、支配欲が高じると、深層心理には、無の有化と有の無化という機能が生じる。無の有化とは、深層心理は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に存在しなければ、この世に存在しているように思い込んでしまうという意味である。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を存在しているように思い込んだのである。深層心理は、すなわち、人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、生きていけないのである。有の無化とは、深層心理は、実際に存在しているものやことを、存在していないように思い込んでしまうという意味である。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込んでしまうのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いから、いじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。共感欲によって、深層心理は、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うようにしているのである。共感欲は、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったり、協力し合ったりさせているのである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができ、恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えない。深層心理は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。もちろん、人間は、表層心理でストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した、承認欲が阻害され、屈辱感が強過ぎる者は、超自我や表層心理での抑圧は、深層心理が生み出したストーカー行為の指令を止めることができないのである。また、友人を作ろうとするのは、共感欲を満足させ、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするためである。中学生や高校生が、仲間という集団でいじめや万引きをすることがある。積極的にいじめや万引きに参加している者は、仲間という構造体で友人という共感欲に満足しているのである。渋々にいじめや万引きに参加している者は、仲間という構造体から追い出され友人という自我を恐れて加わっているのである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感欲が起こしているのである。協力するということは、互いに自らを相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で共通の敵に立ち向かうのである。北朝鮮の金正恩を中心とした政治権力者が、アメリカを共通の敵として、大衆に支持を求め、それが成功しているのである。日本の自民党・公明党政権は、中国、北朝鮮を共通の敵として、大衆に支持を求め、それが成功しているのである。つまり、人間は自ら思考して行動しているのではなく、深層心理が欲動に基づいて思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。現実とは、本質的に、無色透明、無味乾燥のものであり、むなしいものなのである。しかし、深層心理はありままの現実を認識できず、自我の現実として、自我を主体にして捉え、色付けしているのである。だから、人間の現実とは夢なのである。夢からさめればむなしく感じるのは当然のことなのである。




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