あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は快楽と苦痛に動かされて生きている。(人間の心理構造その23)

2023-05-24 14:39:45 | 思想
人間は、先天的に、快楽を求め苦痛から逃れるために行動するようにできている。快楽があるから、それを求めて行動するのである。苦痛があるから、それから逃れようと行動するのである。しかも、快楽も苦痛も、自らの意志に関わりなく、人間の心に生まれてくるのである。さらに、自らの意志に関わりなく、快楽を求める欲望も苦痛から逃れる欲望も、人間の心に生まれてくるのである。なぜ、快楽を求める欲望が生まれてくるのか。それは、人間に、快楽を求めるような行動を起こさせるためである。なぜ、苦痛から逃れる欲望が生まれてくるのか。それは、人間に、苦痛から逃れるような行動を起こさせるためである。人間は、快楽そのものも苦痛そのものも自分で生み出すことはできないのに、快楽を求めるためにに生き、苦痛から逃れるために生きるようにさせられているのである。人間は、快楽そのものを自分で生み出すことはできないから、行動することによってそれを得ようとするのである。人間は、苦痛そのものを自分で消滅させることができないから、行動することによってそれから逃れようとするのである。快楽と苦痛が人間を動かしているのである。快楽が無ければ、人生は無味乾燥のむなしいものになるだろう。苦痛が無ければ、人間は考えようとしないだろう。人間は自らの意志では快楽も苦痛も生み出せないとすれば、何がそれらを生じさせているのか。それは、深層肉体と深層心理である。人間は自らの意志で快楽を求め苦痛から逃れようと欲望する以前に、すでに、快楽を求め苦痛から逃れようと欲望するものがあるが、それは何か。それもまた、深層肉体と深層心理である。深層肉体とは人間の無意識の肉体の活動である。深層精神とは人間の無意識の精神の活動である。深層肉体の生命意欲と深層心理の欲動がこれらを生じさせているのである。だから、人間の無意識のうちに、心の中に、これらが生まれているのである。人間は、快楽も苦痛も自分で生み出すことができないが、快楽を得ようと行動し、苦痛から逃れようと行動するのである。さて、人間は、どのような時に、快楽を得られ、どのような時に、苦痛が与えられるのか。人間は、自我の状態が生命意欲に合致していれば満足感という快楽が得られ、自我の状況が欲動に合致していれば快感という快楽が得られるのである。人間は、自我の状態が生命意欲を阻害されていれば痛みという苦痛が与えられ、自我の状況が欲動を阻害していれば苦しみという苦痛が与えられるのである。だから、人間は、自我の状態が生命意欲に合致するように、自我の状況が欲動に合致するように動こうとする。しかし、人間は、自ら意識してそのように動いているのではない。自ら意識して動く以前に、深層肉体、深層心理によって動かされているのである。まず、深層肉体であるが、そのあり方は単純である。深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという生命意欲を持って、人間を生かそうとしている。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、生命意欲で、ひたすら人間を生かせようとする。深層肉体は、人間の意志によらず、深層心理独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かしている。人間は、深層肉体の生命意欲という肉体そのものに存在する意志によって生かされている。人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の生命意欲によって生かされているのである。深層肉体の生命意欲の典型は内蔵である。人間は、誰一人として、自分の意志で、肺や心臓や胃などの内蔵の動きを動かすことも止めることもできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体の生命意欲が呼吸をさせているのである。テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まり、死んでしまう。深呼吸という意識的な行為も存在するが、それは、深く吸うということを意識するだけでしかなく、常時の呼吸は無意識の行為である。呼吸は、誕生とともに、既に、人間の深層肉体に備わっている機能であるから、人間は、生きていけるのである。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできないのである。心筋梗塞が起こったり、人為的に、他者や自分がナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体として、既に動いているのである。胃の仕組みや働きすら、今もって、ほんのわずか知られていない。だから、人工的な胃は存在しないのは当然のことである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しく作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできない。このように、人間は、ほとんどの場合、自らの意志によって、肉体を動かしているのではなく、深層肉体自身が生命意欲をもって肉体を動かしているのである。確かに、人間には、意識して意志で行う肉体の活動も存在する。それが、表層肉体である。それは、深呼吸する、授業中に挙手する、速く走る、体操するなどの活動である。しかし、それは、肉体の活動の一部でしか過ぎないのである。大半は、深層肉体による活動である。例えば、歩くという動作がある。確かに、歩こうという意志の下で歩き出す。表層肉体の動きである。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰も意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたら、疲れてしまい、長い距離を歩けないだろう。だから、最も意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという行動すら、意識して行っている表層肉体の活動は僅かで、無意識に行っている深層肉体による活動がほとんどなのである。さらに、歩きながら考えるということも、歩くことに意識が行っていない深層肉体の動きだから、可能なのである。また、人間は、包丁で指を少し切っただけでも、痛みを感じ、血が出る。血が出るのは、深層肉体が、その部分を白血球で殺菌し、傷口を血小板で固め、その部分の再生を助けるために行うのである。深層肉体は、自ら、再生能力を持っているのである。更に、深層肉体は、痛みによって、深層心理と表層心理に、そこに異状があることを知らしめるのである。まず、最初に動くのは深層心理である。深層心理は思考して、自我の欲望として、痛いという感情を持つと同時にこの状況から逃げ出せという行動の指令を生み出し、人間を動かそうとするのである。それを受けて、人間は、表層心理で思考するのである。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神の活動である。人間は、表層心理で、痛いという感情の下で、この状況から逃げ出せという行動の指令について考慮し、痛みの原因を追究し、治療法も考えるのである。痛みが去れば、快楽が得られるのである。さらに、深層肉体は、人間が自殺に突き進んでも、人間を生かせようとする生命意欲を捨てることは無い。だから、どのような自殺行為にも、痛みが伴うのである。つまり、人間の肉体は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の生命意欲によって生かされているのである。次に、深層心理であるが、深層心理は無意識の精神の活動を意味し、肉体に、無意識の精神の活動をある深層肉体のほかに自らを意識した肉体の活動が存在しているように、精神にも、自らを意識した精神の活動である表層心理が存在する。一般に、思考という言葉は、人間の表層心理での思考を意味している。なぜならば、ほとんどの人は、自ら意識して思考していると思い込んでいるからである。確かに、表層心理での思考は存在するが、それは思考の一部なのである。思考の大半は深層心理によるものなのである。ほとんどの人は深層心理の存在に気付いていないから、もちろん、深層心理の思考の重要性に気付くはずがないのである。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。「無意識の行動」のような使われ方で、例外的なあり方として考えられている。しかし、人間の行動は、有意識の行動は一部で、ほとんどは無意識の行動なのである。そもそも、無意識は単に意識していないということを意味するだけで、人間の行動も思考も、ほとんど、無意識のうちに行われているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。つまり、人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理の思考である。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、「言語によって構造化されている」と言うように、深層心理が言語を使って論理的に思考しているのである。深層心理は、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求め苦痛から逃れようと思考して、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動しているのである。構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、夫婦という構造体には夫・妻という自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、高校という構造体には校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体には店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我がある。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。他者とは構造体内の人々である。他人とは構造体外の人々である。人間は、構造体の中で、他者から役目を担わされ、自我として行動するのである。人間は、社会生活を営まないと生きていけないから、常に、他人を意識しながら暮らしているのである。人間は、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持して暮らさざるからを得ないから、常に、他者と関わりながら暮らしているのである。デカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言いながら、「我」の定義をしなかったが、人間が、自分の存在を意識するのは、普遍的な自分としてでは無く、個別的な自我なのである。つまり、日本という構造体では国民という自我があり、家族という構造体では父という自我であり、学校という構造体では生徒という自我であり、会社という構造体で課長という自我であり、コンビニという構造体では客という自我であり、電車という構造体で客という自我であり、仲間という構造体では友人という自我であり、カップルという構造体では恋人という自我であるように、人間は常に自我として暮らしているのである。さて、深層心理は、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求め苦痛から逃れようと思考して、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのであり、欲動が深層心理を動かしているのである。欲動は四つの欲望から成り立っている。しかし、欲動には、道徳観や社会規約を守ろうという欲望は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め苦痛から逃れようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲がある。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという承認欲がある。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲がある。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲がある。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲が深層心理を動かしているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。さらに、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないという保身欲からである。退学者・失業者が苦通を覚えるのは、学校・会社という構造体から追放され、生徒・会社員という自我を失ったからである。しかし、時には、自我が傷つけられ、ルーティーンの生活が破られそうになる時がある。それは、往々にして、他者から、馬鹿にされたり侮辱されたりなどした時に起きる。それは、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲が阻害され、苦痛が生じたからである。そのような時、深層心理は、その苦痛から逃れるために、怒りの感情と相手を侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理は、怒りの感情で人間を動かし、侮辱・暴力などの過激な行動を行わせ、自我をおとしめた他者を逆におとしめることによって、自我を高めようとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、怒りの感情を抑圧し、侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の保身欲から発生した機能である。深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする機能も存在するのである。さらに、もしも、超自我の機能が過激な行動を抑圧できなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。人間の表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令に従って行動したならば後に自我の立場がどうなるかと思考し、受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な利得を求めて、侮辱したり殴ったりしたならば、後に、自我がどうなるかという、他者や他人の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を、意志によって、抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を侮辱したり殴ったりしてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦痛の中での思考がが続くのである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのは、何よりも自我が大切だという保身欲からである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするという保身欲から、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るという保身欲のために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないという保身欲から、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫や恋人という自我を失うのが辛いという保身欲から、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、構造体の消滅を認めるしかないから、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことが辛いという保身欲から発した感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできないのである。そうして、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令に従ってしまい、ヒートアップして、殺人にまで及ぶ者がいるのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。これを受けて、深層心理は、自我を他者に認めてもらって快楽を得ようと思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、承認欲を説明している。つまり、人間が、すなわち、深層心理が、自我に対する他者の視線が気になるのは、欲動の承認欲によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間が苦痛を覚えることの原因の多くは、自我が他者に認められないことである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしている。深層心理は、同級生・教師や同僚・上司という他者から、生徒や会社員という自我に好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、馬鹿にされたり注意されたりして、悪評価・低評価を受けると、苦痛を覚えるのである。そこから逃れようとして、深層心理は、不登校・不出勤という行動の指令を生み出すことがあるのである。また、受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという欲望を満足させるためである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心とはこの国の国民という自我を失いたくないという保身欲から発しているのである。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。これは、承認欲から発している。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、保身欲と承認欲から発した自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、同語反復の無意味な説明である。真実は、国民という自我を失いたくないという保身欲、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという承認欲から発している自我の欲望である。人間は、すなわち、深層心理は、愛国心という自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。愛国心という自我の欲望が満たされない時には、苦痛を覚えるのである。そして、苦痛から逃れるために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。しかし、人間は、愛国心という自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではなく、無意識のうちに、深層心理が生み出しているのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した愛国心という自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲である。これを受けて、深層心理は、他者という対象を支配しようと、物という対象を自我の志向性で利用しようと、現象という対象を自我の志向性で捉えようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。まず、他者という対象の支配欲であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることが快楽が得られるのである。そのために、人間は、力を発揮したい、支配したいという思いを秘めながら、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りつつ接している。深層心理は、自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることができれば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で支配したいという支配欲からである。自分の思い通りに学校を運営できれば快楽が得られるのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を支配したいという支配欲からである。自分の思い通りに会社を運営できれば快楽が得られるのである。さらに、わがままと言われる行動も支配欲からであり、わがままを通すことができれば快楽を得られるからである。物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。現象という対象の支配欲であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、支配欲が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。無の有化とは、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造することである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。これを受けて、深層心理は、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとするのである。つまり、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手の心を支配し自分の心を支配される許し合うことによって快楽を得ている状態である。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに快楽が生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという快楽が生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで相手に身を差し出していた承認欲から来る屈辱感とこの後相手の心を支配する者への嫉妬心が、深層心理を苦しめる。誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルいう構造体が破壊され、恋人という自我を失うことの辛さから、ストーカーになることを行動の指令として生み出すのである。もちろん、深層心理に内在するルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実的な利得を求める思考は、これを抑圧しようとする。多くの場合、それは成功する。しかし、一部の屈辱感や嫉妬心の強過ぎる者は、超自我や表層心理の思考で抑圧できず、深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままにストーカーになってしまうのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感欲を満たし、そこに、快楽を覚えるからである。さらに、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感欲を受けての行動である。仲の悪い二人でも、共通の敵が現れると、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会でクラスが一つになるというのも、「呉越同舟」の現象である。他クラスという共通の敵が現れたから、クラスが一つにまとまるのである。クラスがまとまるのは、他クラスを倒して皆で快楽を得たいからである。