あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

誰もあなたを理解していない。(提言10)

2023-03-31 14:46:01 | 思想
誰もあなたを理解していない。それは、決して、あなたが誰からも好かれていないということやあなたが誰からも興味を持たれていないということを意味していない。そして、あなたも誰一人として理解していない。それも、決して、あなたが誰をも嫌っているということやあなたが誰に対しても興味を持っていないということを意味しない。人間は、誰しも、自分がどのように思われているかを知るために、人を理解しようとするから、人がわからないのである。つまり、自分がどのように思っているかを知るために、その人を探っているのであり、その人そのものを理解しようとしていないのである。また、そもそも、人間は、人がわからないのである。その人が発する言葉、表情、態度、行動によって、その人のを想像しているだけなのである。だから、その人に対してだけでなく、その人が自分をどのように思っているかに対しても誤解が生じるのである。それでは、なぜ、自分を理解されたいと思うのか。それは、自分が理解されていると思うと、その人に自分の存在を認めてもらっているように思うからである。人間には、人に存在を認められようという承認欲があるのである。そして、承認欲があるから、人の気持ちを通して自分を知ろうとするのである。また、人に存在を認められていないと思うと不安だから、人の気持ちを推し量るのである。人間には、現在の自分の位置を確保したいという保身欲があり、保身欲が人の気持ちを推し量らせるのである。しかも、人間がある人に擦り寄って気持ちを理解しようとすれば、忖度に繋がり、その人に支配されていることを意味するのである。人間には、支配欲があるから、逆に、容易に支配されるのである。人間が、理解し合うのは、共通の敵が現れた時である。心を合わせて敵を倒す方法を考えるのである。しかし、それは、倒すという目的を共有しているという共感欲が満足させられるだけで、相手ちを理解しているわけではない。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだすことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人という自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。それは、互いに相手の気持ちを支配していると思うからである。しかし、それは、互いに相手を理解しているということにはならない。人に対する理解とは、志向性(観点・視点)で捉えて、認識しているということである。しかし、人と愛し合うとは、趣向性(好み)で捉えて、心の交流を図ることである。だから、人間は、どれだけ深く愛し合っても、理解し合うまでには至らないのである。だから、人間は、常に、孤独に陥る可能性があるのである。人間は、孤独をかみしめて生きるしかないのである。