あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、誰しも、ナチス党員になる可能性がある。(人間の心理構造その17)

2023-03-23 15:49:17 | 思想
ドイツの哲学者であるアドルノは、「現代の理性は方向を誤り、アウシュビッツの悲劇を生み出した。」と述べ、ヒットラー率いるナチスが600万人ものユダヤ人を大虐殺した原因を理性に求めた。しかし、ユダヤ人の大虐殺は、理性のせいではなく、自我の欲望から生まれたのである。つまり、ナチスのユダヤ人に対する大虐殺は、深層心理が、自我の欲望として生み出した、ユダヤ人に対する憎しみの感情とユダヤ人を根絶せよという行動の指令か原因なのである。すなわち、ドイツ人のユダヤ人に対する自我の欲望が、ヒットラー率いるナチスの600万人ものユダヤ人の大虐殺を生み出したのである。ナチス時代のドイツ人に限らず、人間は、理性では、究極的には、自我の欲望を抑圧できないのである。つまり、人間は理性の動物ではなく、自我の欲望の動物なのである。人間は、自らの自我の欲望に向き合わない限り、この世から、人殺しも戦争も無くなることは無いのである。人間は、自らを、全動物中最も進化し、最も知能が高い動物であると言う。しかし、動物界でも植物界でも、同種が殺し合っている生物は人間だけである。しかも、殺すことを目的に、殺し合っているのである。だから、時代を追うごとに、殺す方法が先鋭化してきたのである。つまり、人間が、地球上で最も進化した動物は自分だと言っているが、最も進化したのは人殺しの方法なのである。そして、遂に、どんなに遠くにいても、一瞬のうちに、大量に人間を殺すことができる核兵器という武器を造り出したのである。武器の頂点にあるのが核兵器である。人間は、遂に、遠くにいながらにして、爆発すれば、環境を破壊しながら、一瞬のうちに数十万の人間を倒すことができる核弾頭という最も有効な殺人兵器を発明したのである。これが、自らを最も進化している動物だと自負している人間の進化の実態なのである。人間の歴史とは核兵器開発の歴史なのである。しかし、人間は、この歴史の流れを変えようしないばかりか、これからは、核兵器以上に有効な殺人兵器の開発に骨身を削っていくことは想像に難くないのである。なぜならば、人間は、自我の欲望の動物だからである。人間は、根本的には、自らを動かす自我の欲望を抑制できないのである。確かに、人間は、兵器の開発を、個人ではなく、集団的、組織的に行ってきた。しかし、精神分析の大家である心理学者のフロイトが言うように、個人の心情と集団の心情、個人の動きと集団の動きは同じなのである。個人間に嫉妬心があれば国家間にも嫉妬心があり、個人間に争いがあれば国家間には戦争があり、個人間に殺し合いがあれば国家間に大虐殺の応酬があるのである。人間は、個人を分析すれば集団、組織が見えてくるのである。自我の欲望から分析を始めなければならないのである。そして、人間は、理性に対する過剰な期待から自らを解放しなければならないのである。人間は、理性に過剰に期待するから、自らの内なる力である自我の欲望を無視し、自らを根本的に分析できないでいるのである。人間の理性に対する過大な期待が、個人に対しても、社会に対しても、自らの目を曇らせているのである。人間は、決して理性の動物ではなく、自我の動物であることを自覚し、自我の欲望から分析を始めなければならないのである。それでは、自我の欲望とは何か。自我の欲望とは、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令が一体化したものである。自我の欲望が人間を動かしているのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。すなわち、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。すなわち、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望が人間を動かしているのである。感情が動力となって、行動の指令通りに、人間を動かそうとするのである。深層心理が生み出した感情が強ければ、容易に、理性による思考や主体的な思考を押しのけ、深層心理が生み出した行動の指令通りに、人間を動かすのである。深層心理が生み出した強い感情は、時には、暴行、レイプ、殺人などの残虐な行動に走らせるのである。強い感情は、理性による思考や主体的な思考を押しのけ、人間をして、深層心理が生み出した行動の指令通りに、残虐な行為を行わせるのである。理性とは、感情に左右されず、真偽・善悪を識別する能力である。主体的とは、他者や他人の意見に左右されず、自らを純粋な立場において思考し、行動するあり方である。理性による思考や主体的な思考は、表層心理での思考である。表層心理とは、深層心理とは対照的に、人間の有意識の精神活動である。つまり、表層心理での思考とは、自らの存在を意識し、自らが思考していることを意識しながら思考することである。つまり、深層心理が思考して生み出したユダヤ人に対する憎しみの感情が、理性による思考や主体的な思考を押しのけて、ナチスに、大虐殺を行わせたのである。もちろん、ナチスの行動は非難すべきである。しかし、人間は、誰しも、平和時においても、ナチスに類似した行動を行う可能性があるのである。なぜならば、人間は、誰しも、いついかなる時でも、自我の欲望に動かされて生きているからである。さて、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属して、自我として生きているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、ある構造体の中で、自我として生きているのである。さて、人間は、自らを自分と称するが、それでは、自分は自我とどのように関わっているか。人間にとって自分とは一人だが、自我は構造体ごとに異なったあり方をしている。自分は自我の総称であって、固定したあり方ではない。人間は、一つの自我を失っても、自分は存在し続ける。逆に、自分を失えば、すべての自我を失う。だから、小学校、中学校、高校で、教師、クラスメート、顧問、部員にいじめられて自殺する生徒がいるが、その生徒は、学校をやめれば良いのである。生徒という自我を失えば、いじめられなくなるからである。彼(彼女)は、生徒という自我を失っても、他の自我で生きていけるのである。人間には、複数の自我がある。たとえば、ある人は、家族という項構造体では父であり、会社という構造体では営業課長であり、コンビニという構造体では客である。自我は、他者や他人と異なったあり方を示しているにすぎない。しかし、人間は、総体として、複数の自我が存在するが、同時に複数の自我を持てない。人間は、構造体ごとに、それに応じた一つの自我を演じているのである。しかし、人間には、演じているという意識は無い。深層心理が、自我を主体にして、自我の欲望を生み出して人間を動かしているからである。だから、人間は常に自我として生き、それを自分だと思い込んでいるのある。すなわち、人間は、所属する構造体ごとに、異なった自我になるが、それは、なろうとしてなるのではなく、自然になっているのである。人間が、社会的な存在だと言うのは、常に、構造体に所属して、他者と関わりながら、他人を意識して、自我として生きているということである。人間が生きていくには、構造体に所属して、自我として生きていくしかないのである。所属する構造体が自我を決定するのである。その自我は、その構造体の中でしか通用せず、固定した存在ではないから、主体的に生きられないのである。つまり、人間は、常に、構造体の中で生きるしかなく、構造体の中の他者に自我が与えられるから、自我を自分だと思って生きるしかないのである。しかし、人間は、常に、構造体に所属して、構造体から与えられた自我に執着して暮らしているが、それを意識したり、疑問に思ったりする人はほとんどいない。なぜならば、それは、自らの存在を疑うことであり、自らを不安に落とし込むことだからである。また、深層心理が、自我に執着し、自我の欲望を生み出すために思考しているから、人間は、それに身をゆだねれば、楽なのである。人間は、表層心理で自らを意識して思考しなくても良いから楽だから、多くの人は深層心理の思考の所産である自我の欲望のままに動いているのである。深層心理は人間の無無識の精神活動であるから、人間は、自ら意識しなくても、自ら意志しなくても、自我に執着すれば、生きていけるのである。つまり、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、自我に執着して、思考して、行動しているのではなく、深層心理が、自我に執着して思考して生み出した自我の欲望によって動かされているのである。だから、人間は、自らは自分に執着して生きていると思っているが、その自分とは、人間が、自ら選んだあり方では無く、構造体から与えられ、自らを他者や他人と区別して指している自我というあり方で生かされていることを意味するのである。他者とは構造体内の人々であり、他人は構造体外の人々である。人間は、深層心理に支配され、深層心理が自我に執着しているから、人間も、自我に執着して生きるしかないのである。さて、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲がある。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという承認欲がある。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲がある。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲がある。人間は、すなわち、深層心理は、自我を欲動にかなった状態にすれば快楽が得られるので、深層心理は、自我を欲動の四つの欲望のいずれにかなうように状態にするようにに思考して、行動の指令を生み出し、その動力として感情を生み出し、人間を動かそうとするのである。すなわち、欲動が深層心理を動かし、深層心理が人間を動かしているのである。さて、欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲があるが、深層心理は、保身欲に基づいて、ほとんどの人の日常生活をルーティーンにしているのである。また、毎日の生活が毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。それは、深層心理の思考のままに行動しても何ら問題が無く、表層心理で自らを意識して思考することが起こっていないことを意味するのである。そして、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、日常生活において、ルーティーンを破ることが起こることがある。それは、ほとんどの場合、学校、会社、コンビニなどの構造体で、教師、同級生、上司、先輩、客などに大声で怒鳴られたりなどされ、自我が他者に認られたいという承認欲が阻害された時である。そのような時、深層心理が思考して、怒りの感情と怒鳴った他者に対して怒鳴り返せなどの行動の指令を、自我の欲望として生み出し、その行動の指令通りに動くように指図する。しかし、そのような時には、まず、超自我という機能が働く。深層心理には、欲動の保身欲から発した、超自我という、日常生活のルーティーンから外れた異常な行動の指令を抑圧しようとする機能があり、それが動くのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。その場合、次に、人間は、表層心理で、行動の指令について検討するのである。人間は、表層心理で、自らの自我の状況を認識して、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則から、道徳観や社会的規約を考慮し、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒否するか考えるのである。現実原則とは、フロイトの言葉であり、現実的な利得を求め、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという志向性である。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。人間は、表層心理で、自我の状況を意識し、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、自我にどのようなことが生じるかを、現実原則の視点で、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考するのである。この場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を大声で怒鳴り返したならば、後に、自我に不利益がもたらされるということを考えて、怒鳴り返せという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を怒鳴り返せという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、怒鳴り返してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した深層心理の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。そして、深層心理は、自我を守るために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かし、時には、罪を犯させるのである。ナチス党員が、ユダヤ人の虐殺を行ったのも保身欲からである。ナチス党という構造体から追放されたくなかったから、それに加担したしたのである。また、ユダヤ人虐殺が日常化していたから、表層心理で、自らのその行動を意識して考えることが無かったのである。また、日本の官僚たちが、安倍晋三元首相が起こした森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会問題になどで、「記憶にございません」と繰り返し国会答弁し、証拠隠滅、書類消去、書類改竄などの罪を犯したのは、安倍晋三元首相に恩を売り、立身出世したかったからである。彼らは、自我の保身から、国民を欺いたのである。また、彼らは、深層心理で、国民を欺くことがルーティーンになっているから、表層心理で、自らの行動について、反省することが無いのである。学校でいじめ自殺事件があると、校長・教頭・教諭が校内のいじめを隠蔽するのは、自らの自我を守るためである。深層心理には、被害生徒への思いよりも、自らの自我が大切なのである。いじめた子の親も、自らの自我を守るために、自殺の原因を、いじめられた子やその家族関係に求めるのである。さらに、生徒や会社員が嫌々ながらも学校や会社へ行くのは、生徒や会社員という自我を守りたいためである。そして、裁判官も、自我を守りたいという保身欲で動くから、日本の裁判は、常に、政権寄りの判決になるのである。次に、欲動の第二の欲望である自我を他者に認めてほしいという承認欲であるが、それは、深層心理が自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。深層心理は、常に、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考しているる。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自我がどのように思われているかを探ろうとする。フランスの心理学者のラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」と言う。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。この言葉は、端的に、承認欲を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の承認欲の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているからである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。ナチス党員が、ユダヤ人の虐殺を行ったのも、上官に認められたいという承認欲からである。また、人間の犯罪は、自我が他者に認められないどころか、他者に心が傷つけられ、怒りの感情を持ったことが原因である。すなわち、犯罪は、決まって、傷心から始まるのである。深層心理が傷つけられたからである。怒りは、深層心理が思考して生み出した復讐の感情である。それは、深層心理には、自我が他者から認められたい、評価されたいという欲望があるからである。しかし、それが、他者に認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、心が傷付き、深層心理が、その傷心から立ち上がろうとして、怒るのである。そして、深層心理の敏感な人は、感情の起伏が激しいから、激しく罵倒したり、いきなり殴り掛かるなどの乱暴を働くことがあるのである。だから、深層心理の敏感な人は、心が傷付きやすく、深層心理が、その傷付いた心を早く回復させるために、怒り、自我に、傷つけた人を激しく罵倒させたり、乱暴を働かさせたりするのである。怒りは、深層心理が生み出した感情であり、自らの心を傷つけた相手に対する復讐を実行させる大きな力になるのである。全ての感情が行動の指令を実行する動力になっているのであるが、怒りという感情が最も大きい動力であるから、人間は怒りに駆られて行動の指令通りに行動するのである。深層心理は自らが思考して生み出した行動の指令を、自我に実行させるために、感情という動力を生み出しているのである。つまり、感情とは、現在の自我の状況を反映しているだけでなく、次の行動への動力になっているのである。特に、怒りは感情の中でも最も強い感情であり、自我を傷つけた相手の立場を下位に落とし、相手の心を傷つけることによって、自我を上位に立たせようとするのである。それは、自我が下位に落とされ、心が傷付いたからである。だから、深層心理は、怒ると、徹底的に自我を傷つけた相手の弱点を突こうとするのである。そこには、見境は無い。自我を傷つけた相手の心を深く傷つけられるのならば、何でも構わないのである。自我を傷つけた相手の心が最も早く最も深く傷付く方法を考え出し、そこを徹底的に攻めようとするのである。それが、犯罪に繋がるのである。相手の心が最も傷付く言葉で侮辱したり、腕力の劣った相手ならば暴力に訴えようとするのである。怒りはその時の傷心から逃れるためのものであるから、相手の弱点を突いて下位に落とそうとするのである。女性に対しては、「ブス」、「デブ」などと侮辱したり、男性に対しては、「能なし」、「ちび」などと侮辱したり、相手が抵抗するまもなく殴ったりするのである。強い怒りのの感情には、深層心理に存在する超自我というルーティーンの生活を守る機能も、表層心理での現実原則の自我の利益を守るという志向性も抗することはできないのである。次に、欲動の第三の欲望である自我で他者・物・現象という対象を支配したいという支配欲であるが、それは、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、満足感、充実感という快楽を得ようとすることである。支配欲とは、他者・物・現象を対象にして、自我の志向性や趣向性で、支配しようとするという欲望である。志向性とは、わかりやすく言えば、観点・視点である。趣向性とは、わかりやすく言えば、好みである。まず、他者を対象にしての支配欲であるが、それは、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接し、自我が他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのである。まず、他者という対象の支配欲であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることができれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのである。ナチス党は、ユダヤという劣等民族がドイツの第一次世界大戦の敗北を招いたのだろいう志向性で、復讐によって支配しようとし、大虐殺を行ったのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが目的である。だから、校長や社長は、深層心理が生み出した自我の欲望のままに横暴なことをするのである。わがままな行動も、支配欲によって起こる行動である。わがままを通すことができれば、深層心理が快楽を得られるからである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、深層心理が快楽を得られるからである。そして、後に、表層心理で思考して、自然破壊を認識し、悩むのである。次に、現象という対象支配欲であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるからである。さらに、支配欲が高じると、深層心理には、無の有化、有の無化という機能が発生する。無の有化とは、深層心理は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなくても、この世に存在しているように思い込むことである。深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を存在しているように思い込んだのである。有の無化とは、深層心理は、この世に、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象が存在していると、その苦しさから逃れるために、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。神の存在にしろ、犯罪者の心理にしろ、深層心理は、自己正当化によって、心に安定を得ようとするのである。最後に、欲動の第四の欲望である自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲であるが、それは、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に恋愛感情を支配されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強過ぎたからである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望である保身欲が消滅することの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である恋人という自我を認めてほしいという承認欲がかなわなくなったことの辛さもあるのである。そして、ストーカーの深層心理は、屈辱感から、怒りという感情と付きまとえ・襲撃せよなどの行動の指令を自我の欲望を生み出し、別れを告げられた者を、行動の指令通りに行動させようとするのである。そして、ストーカーは、表層心理で思考して、現実原則から、自我に現実的な利得を求めようとして、行動の指令通りに行動したならば、後に、自我に不利益なことがあるとわかり、意志で抑圧しようとしても、怒りの感情が強いので、そのまま行動してしまうのである。これが、ストーカーの惨劇である。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望から発している。ナチス党はユダヤ民族を共通の敵として、ドイツ人と共感欲を満たしていたのである。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないという支配欲から起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、「呉越同舟」の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得ることができるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、二人は、互いに相手を対象化して、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないという支配欲から、仲が悪くなるのである。このように、人間は、誰しも、深層心理が自我に執着し、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。だから、人間は、誰しも、平和時においても、ナチス党員になる可能性があるのである。