あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自我から自己へ(大衆から単独者へ)。(自我その428)

2020-10-29 15:09:07 | 思想
一般に、大衆とは、世間一般の人々、民衆、庶民を意味する。しかし、世間一般の人々、民衆、庶民の全てが大衆ではない。また、エリートという国や組織の指導的地位にある階層の人々の全てが大衆ではないということでもない。むしろ、エリートと呼ばれている人の方が、世間一般の人々、民衆、庶民よりも大衆であることの可能性が高いのである。なぜならば、大衆とは、自分の存在を他者に認められたいと思いいつつ、現在の自分の立場を失うことを恐れて、権力者や多数派に与している人のことであるからである。日本の官僚は大衆の巣窟である。大衆は、権力者や多数派に寄りかかり、自らの意見を述べることによって現在の体制に異を唱えている少数派や単独者を激しく攻撃する。なぜ、大衆は、自分の意見を述べる人を攻撃するのか。それは、嫉妬心からである。その意見が間違っているからという理由ではない。その意見が自分の考えと異なっているからという理由でもない。大衆は、自分の意見を述べることが許せないのである。自分が我慢して意見を述べないのに、その人は自分を意見を述べているから、許せないのである。さらに、大衆は、その人が他者に対して話せる意見を持っていることが許せないのである。大衆は、自分は人に話せる意見を持っていないのに、その人は話せる意見を持っているから、許せないのである。「出る杭は打たれる」という現象と同じである。大衆は、自分は出ることができない杭であるから、どのような杭であっても、出る杭は何としても打つことを考えるのである。なぜ、大衆は、現在の体制に異を唱えている人を攻撃するのか。それも、また、その意見が間違っているからという理由でもなく、その意見が自分の考えと異なっているからという理由でもない。それは、現在の体制が変われば、現在の自分の立場を失う可能性があるからである。つまり、自我を守ろうとして、現在の体制に異を唱えている人を攻撃するのである。なぜ、大衆は、権力者や多数派に与するのか。それは、敗者になりたくなく、勝利者となりたいからである。権力者や多数派に与して、少数派や単独者を攻撃して、沈黙させれば、勝利者の一員として、喜びを分かち合えるからである。さて、人間は、大衆に育てられ、大衆の中で育つ。だから、自然に、大衆として生い育っていき、大衆のまま、一生を終える人がほとんどである。人間は、生まれて来たくて生まれてきたのではなく、気が付いた時にはこの世に誕生していたのであり、先天的には、主体性は身に付いていない。さらに、大衆に育てられ、大衆の中で育つから、自然に、大衆として生い育ち、自分の存在を他者に認められたいと思いいつつ、現在の自分の立場を失うことを恐れて、権力者や多数派に与し、自らの意見を述べることによって現在の体制に異を唱えている少数派や単独者を激しく攻撃するようになるのは当然のことなのである。しかし、人間の中には、大衆から単独者へと超越することなしには、生きている価値は無いと考え、実行する人が存在する。大衆の特徴は、他者に認められたいと思いながら現在の立場に固執して、すなわち、他者の眼を気にして自我に固執して、権力者や多数派などの力の強い側に付くことにある。単独者の特徴は、無勢であっても、自分の立場が悪くなっても、すなわち、自我が危うくなっても、権力者や多数派などの力の強い者に対して、自分の意見を述べる時は述べることにある。つまり、人間の中には、自我の欲望に動かされることから自己の主体的な決断によって動くというように超越しなければ、生まれてきた意味は無いと考え、実行する人が存在するのである。すなわち、それは、自我から自己へと超越することによって、初めて、自分が生まれてきたことの意味が生まれてくると考え、実行する人である。しかし、それは容易ではない。なぜならば、人間は自我の欲望によって動かされている動物だからである。さて、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持して活動している。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。自我とは、言わば、役割を果たし、役柄をこなすという役を演じている人間のあり方である。しかし、自我と役者が異なっている点は、自我はその役柄に成りきっているということである。だから、人間は、自我のために、泣き笑い、時には、自殺することもあるのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、夫婦、家族、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップル、県、国などがある。夫婦という構造体では夫・妻という自我の人がいて、家族という構造体では父・母・息子・娘などの自我の人がいて、学校という構造体では校長・教諭・生徒などの自我の人がいて、会社という構造体では社長・課長・社員などの自我の人がいて、銀行という構造体では支店長・行員・客などの自我の人がいて、店という構造体では店長・店員・客などの自我の人がいて、電車という構造体では運転手・車掌・乗客などの自我の人がいて、仲間という構造体では友人という自我の人がいて、夫婦という構造体では夫・妻の自我の人がいて、カップルという構造体では恋人という自我の人がいて、県という構造体では知事・県会議員・県民など自我の人がいて、国という構造体では総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我の人がいるのである。人間は、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を所有して活動しているのである。だから、ある女性は、家族という構造体に所属している時は母という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は妻という自我を所有し、小学校という構造体に所属している時は教諭という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という国の構造体に所属している時は日本人という国民の自我を所有し、埼玉県という構造体に所属している時は県民という自我を所有し、教諭仲間という構造体に所属している時には友人という自我を所有して活動しているのである。だから、彼女に、「あなたは何。」と尋ねても、一定の答は返ってこないのである。時と場所によって、自我が異なるからである。構造体によって、異なった自我を所有しているからである。彼女の息子が母だと思っているのは当然だが、彼女は母だけでなく、妻、教諭、客、乗客、県民、友人という自我をも所有しているのである。彼女は、家族という構造では母という自我を所有しているが、他の構造体では他の自我を所有して行動しているのである。だから、息子は母としか知らず、彼女の全体像がわからないのである。人間は、他者の一部の自我しか知ることができないのに、それが全体像だと思い込んでいるのである。だから、殺人事件が起こると、必ず、マスコミが犯罪者の真実の姿を追求し、会社、近所、親族、高校時代の仲間などという構造体を訪ねるが、その評価は同じではないのである。構造体に応じて、異なった自我を持ち、異なった評価が与えられているからである。そのなかで、マスコミが、悪評価・低評価の自我を真実の姿だとして取り上げて、裏の真実の顔などと述べているだけなのである。さて、人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持している。そして、そこに、常に、他者が介在している。ふと自分を意識することがあるが、それは自我を意識しているのである。そして、常に、自我として存在しているから、他者がそばにいたり、他者に呼びかけられたりすると、常に、自我を自分として意識するのである。人間は、社会的な存在であるから、構造体の中で、自我を得て、初めて、自らの存在が意味を帯びるのである。人間は、自らの社会的な位置が定まらなければ、つまり、構造体の中で自我が定まらなければ、深層心理は、自我の欲望を生み出すことができないのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。人間の存在とは社会的な位置であり、社会的な位置とは構造体の中での自我であるから、構造体に応じて、深層心理が思考して、自我の欲望を生み出すのである。さて、人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我として存在している。だから、人間には、自分という固定したあり方は存在しないのである。自分そのものは存在しないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指しているあり方に過ぎないのである。他者とは構造体の内部の人々であり、他人とは構造体の外部の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。さらに、人間は、一般に、自己としても存在していしない。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我から自己へとを勝ち取らなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を主体的生きれば自己となるのである。人間は主体的に生きることに憧れているから、主体的に生きていると錯覚しているに過ぎないのである。多くの人は、自我を自己だと思い込み、自らは自己として生きていると思い込んでいるのである。深層心理の対自化の欲望による無の有化作用である。しかし、たいていの人は、自己として存在していないのである。自己として存在するとは、自ら、主体的に、意識して、思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することだからである。人間の意識しての思考を表層心理での思考と言う。人間の主体的に意識して行う思考を理性と言う。つまり、人間が自己として存在するとは、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することなのである。しかし、人間は、表層心理で、意識して思考して、すなわち、理性で思考して、主体的に自らの行動を決定するということは容易にはできないのである。だから、たいていの人は自己として存在していないのである。人間が自己として存在しにくいのには、二つの理由がある。一つの理由は、自我は、構造体という集団・組織の中で、他者から与えられるからである。人間は、他者の思惑を気にしないで、主体的に思考し、行動すれば、他者から白い眼で見られ、その構造体から追放される可能性が大きいから、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。官僚が公文書の改竄をするのも、社員が会社の不正に荷担するのも、役所や会社という構造体の他者から白い眼で見られたくなく、それらの構造体から追放されたくないからである。もう一つの理由は、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議することだけだからである。人間は、深層心理から離れて、表層心理独自で、すなわち、深層心理から離れて、理性独自で、思考して行動することはできないのである。つまり、人間は、本質的に、深層心理から離れて、表層心理独自で、主体的に思考できず、行動できないのである。しかし、人間は、自分が主体的に行動できない原因は他者や他人から妨害や束縛を受けているからだ思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、自分は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。つまり、自己として生きられると思っているのである。そして、そのような生き方に憧れるのである。しかし、人間は、自由であっても、そのままでは、決して、主体的になれないのである。なぜならば、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動するからである。つまり、人間の行動は、基本的には、自我の欲望の現れなのである。さて、人間は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうとして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに従って行動しようとする。人間は、常に、構造体に所属して、自我を所有しているが、自ら意識して、すなわち、主体的に思考して、自我を動かすことができないのである。人間は、自ら、自我を動かすことはできず、深層心理が、自我を主体に立てて、他者に働き掛けるという自我の欲望を生み出し、人間は、自我の欲望を叶えることによって、快楽を得ようとして、生きているのである。深層心理が思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。そして、深層心理に対して、人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。多くの人が考える思考は、表層心理での思考である。表層心理での思考の尊称が理性である。つまり、人間の思考には、深層心理の思考と表層心理の思考という二種類存在するのである。しかし、人間は、意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、自我の欲望を生み出すことはできないのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。確かに、人間は、表層心理で、思考することがある。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で、意識して、思考して、すなわち、理性で思考して、深層心理が生み出した行動の指令について拒否するという結論を出し、意志で、行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、そのまま、実行せざるを得ないのである。ドイツの哲学者のアドルノが、第二次世界大戦の惨状を嘆いて、「理性の敗北である」と言ったが、もともと、理性には、強い感情を圧倒する力を有していないのである。さらに、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動において、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしていると思っているのである。しかし、人間は、自らが意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、生み出していない自我の欲望によって生きているのである。だから、自己という実態は存在していないのである。そして、自分とは、他者や他人に対しての自らの意識である。だから、他者や他人という実態も存在していないのである。他者の自我、他人の自我、すなわち、他我が存在しているのである。しかも、自我も、他我も、深層心理によって動かされているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。このように、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。まず、自我を主体に立てるとは何か。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考え、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているということである。自我は、自己の現れであるから、自我の欲望が自己の欲望となって、人間を覆うのである。だから、人間は、自己を主体にして、表層心理で、意識して思考して、自らの行動を決定するということはできないのである。また、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、深層心理は、常に、他者の思惑を気にして、自我の行動を思考するのである。さらに、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議することだけだから、人間は、深層心理の思考よりも早く、表層心理で、思考することはできないのである。人間は、表層心理で、自己によって、主体的に思考できないばかりでなく、自我の行動についての思考も、深層心理の後塵を拝することになるのである。だから、人間は、自由でもなく、主体的な思考者でもないのである。次に、心境とは何か。心境とは、感情と同じく、情態性という心の状態を表している。深層心理は、常に、ある心境やある感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、その人自身の心境であり感情である。深層心理は、心境や感情にも動かされて思考して、自我の欲望を生み出しているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する情態性である。感情は、喜怒哀楽悪など、突発的に生まれる情態性である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態を維持させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させている。人間は、不得意の心境や感情の状態の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態から脱却させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させている。つまり、深層心理は、自らの現在の心境や感情を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しみが消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものなのである。特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、すなわち、苦しいという感情が消すことができれば、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、欲動にとって、深層心理をして、感情や行動の指令という自我の欲望を起こさせて、自我を動かし、苦しみの心境や感情から、苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、欲動にとって、すなわち、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態性が大切なのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。そして、深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあった時、他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識すると同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。それは、人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているからである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。次に、快感原則とは何か。快感原則とは、スイスで活躍した心理学者のフロイトの用語であり、快楽を求め、不快を厭う欲望である。快感原則とは、ひたすらその時その場で、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を満たして、快楽を得、不快を避けようという欲望であり、そこには、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、快感原則も、独りよがりで、孤独なものなのである。次に、欲動と何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。欲動の四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたい、自我を他者・他人に認めてほしい、自我で他者・物・現象という対象を支配したい、自我を他者と理解し合うにさせたい・愛し合うようにさせたい・協力し合うようにさせたいという欲望である。深層心理は欲動によって、すなわち、この四つの欲望のいずれかの欲望によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、自我の欲望に動かされて、行動するのである。まず、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、これは、別名、保身化と言われ、人間は自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないから存在するのである。この欲望は、当然のごとく、構造体を存続・発展させようという欲望に繋がっていく。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではなく、自我のために構造体が存在するのである。次に、自我を他者・他人に認めてほしいという欲望であるが、これは、別名、対他化と言われ、自我を他者に認めてもらうことによって、快感原則を満たそうとする、すなわち、快楽を得ようとするのである。次に、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望であるが、これは、別名、対自化と言われ、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。最後に、自我を他者と理解し合うにさせたい・愛し合うようにさせたい・協力し合うようにさせたいという欲望であるが、これは、別名、共感化と言われ、自我と他者が心の交流することによって、快楽を得ようとするのである。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、ある心境の下で、欲動に動かされて、保身化・対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、快感原則を満たすように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合したのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されたくなく友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令には逆らえないのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用であるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。そのために、深層心理が、怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我と表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、相手に惨劇をもたらすのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、対象への対自化の作用であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。哲学的に言えば、対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)ことである。さらに、深層心理は、対象の対自化が高じて、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ことまで行う。これは、人間特有のものである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこともこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとしているのである。人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自己正当化できなければ生きていけないのである。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その目的である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば満足感が得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用であるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望とは何か。深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我(その人)を動かそうとしているのである。深層心理が感情を生み出し、それによって、自我を動かそうとするのである。感情が強ければ、それだけ、自我が強く動くのである。自我ハム方向に動くのではなく、深層心理が生み出した行動の方向に動くのである。それが、行動の指令である。深層心理が怒りの感情と殴れという行動の指令を自我に出せば、怒りの感情が強いほど、自我による殴るという実行性が高くなるのである。次に、表層心理の役割とは、何か。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実的な利得を求める視点から、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、意識して思考し、許諾するか拒否するかを決定し、その決定が意志となり、それによって行動することがあるのである。許諾すれば、それは、意志の行動となる。拒否すれば、行動の指令を抑圧し、人間は、表層心理で、意識して、別の行動を考えなければならなくなる。表層心理とは、人間の意識しての思考であるが、常に、深層心理の自我の欲望を審議するために動くのであり、自ら独立して動くことはない。つまり、人間は、常に、深層心理の思考が先にあり、それを受けて、人間は、表層心理で、意識して、思考することがあるのである。現実原則とは、フロイトの用語であり、現実的な利得を求める欲望である。つまり、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、意識して思考し、許諾するか拒否するか決定し、許諾すれば、意志として、表層肉体を使って行動し、拒否すれば、行動の指令を抑圧し、人間は、表層心理で、意識して、別の行動を考えなければならなくなるのである。往々にして、日常生活で、ルーティーンから外れたこと、すなわち、異常なことが起こると、表層心理は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を、現実原則に基づいて、意識して思考し、行動の指令の採否を決めることがあるのである。それは、異常なことが起こると、深層心理が傷心・怒りなどの過激な感情と罵倒しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちだからである。所謂、理性とは、表層心理での思考である。人間は、表層心理で、すなわち、理性で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を、現実原則に基づいて、意識して思考し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定することがあるのである。しかし、表層心理で、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理で、深層心理が出した行動の指令を抑圧した場合、代替の行動を考え出さなければならなくなる。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心・怒りなどの感情が残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。自殺とは、深層心理の快感原則の基づいて生み出した自我の欲望である。深層心理は、生きている間は、苦痛から逃れられないと思考し、自殺という自我の欲望を生み出したのである。人間は、それを受けて、表層心理で、現実原則に基づいて思考し、自殺を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した苦痛の感情が強すぎるので、抑圧できず、自殺に突き進んでいくのである。このように、確かに、深層心理の思考が生み出す自我の欲望は強い。しかも、人間には、先天的には、主体性は身に付いていず、大衆に育てられ、大衆の中で育つから、自然に、大衆として生い育ち、自分の存在を他者に認められたいと思いいつつ、現在の自分の立場を失うことを恐れて、権力者や多数派に与し、自らの意見を述べることによって現在の体制に異を唱えている少数派や単独者を激しく攻撃するようになるのは当然のことなのである。しかし、人間の中には、大衆から単独者へと超越することなしには、生きている価値は無いと考え、実行する人が存在するのである。無勢であっても、自分の立場が悪くなっても、すなわち、自我が危うくなっても、権力者や多数派などの力の強い者に対して、自分の意見を述べるべき時は述べる人が存在するのである。自我から自己へと超越することによって、初めて、自分が生まれてきたことの意味が生まれてくると考え、実行する人である。自己として存在するとは、自ら、表層心理で、主体的に、意識して、思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することである。それは、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することである。確かに、人間は、深層心理から離れて、表層心理独自で、すなわち、深層心理から離れて、理性独自で、思考して行動することはできない。しかし、深層心理は、対象を支配したいという欲望があり、それに基づいて、思考することがある。それを利用するのである。すなわち、自我という対象を支配するのである。つまり、人間は、表層心理で、深層心理が自我を支配する欲望を誘発して、主体性を勝ち取るのである。そして、自我から自己へと超越することによって、すなわち、大衆から単独者へと超越することによって、主体的に表層心理で思考して、つまり、理性で思考して、自我が危うくなっても、権力者や多数派などの力の強い者に対して、自分の意見を述べるべき時は述べる人になるのである。