あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間にとって、自己も他者も、想定された存在である。(自我その400)

2020-08-25 16:12:13 | 思想
人間にとって、自己の存在も他者の存在も確証できない。自己も他者もその実態は存在しない。自己も他者も想定されたものでしかない。自己そのものの存在も他者そのものの存在も確証できない。単に、自己とは自分を指し示していることであり、他者はその人を指し示していることにしか過ぎない。自分が所有していると想定されているものと自分が所属していると想定されているものが自己を指し示すのである。その人が所有していると想定されているものとその人が所属しているものと想定されているものが他者を指し示すのである。自分が所有しているものと想定されているものは自我であり、自分が所属しているものと想定されているものは構造体である。その人が所有しているものと想定されているものは他我であり、その人が所属しているものと想定されているものは構造体である。他我とはその人の自我である。自我とは、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、そのポジションに応じて行動しようとする、 現実の自分のあり方である。他我とは、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、そのポジションに応じて行動しようとする、 現実のその人のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。だから、人間は、自らを指し示す必要があれば、自己という言葉を、いついかなる時でも、どのような他者に対してであろうと、使うことができる。しかし、自我は、構造体の中でしか使えない。なぜならば、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持して活動しているのであるが、構造体によって、異なった自我が与えられるからである。構造体には、家族、国、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップルなどがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、国民という自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、銀行という構造体では、支店長・行員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間にとって、実際に存在するのは自我であり、構造体である。人間は、構造体に所属して、自我を所有することによって、パート(役割)を持つことができ、それに従って行動しようとするのである。しかし、自我は、自己を指し示すものではあるが、自己そのものではない。人間には、自己は存在しない。人間には、自己そのものは存在しない。人間にとって、自己とは、単に、他者に対して、自らが持つ意識でしか無い。自己は、他者に対して、自らの存在を指し示すだけのものだからである。人間にとって、自己も他者も存在しない。人間にとって、自己とは自分を指し示すものでしかなく、他者とはその人を指し示すものでしかない。だから、自己も他者も想定されたものでしかない。人間にとって、自己を指し示すものは、自己が所有している自我であり、自己が所属している構造体である。人間にとって、他者を指し示すものは、他者が所有している他我であり、他者が所属している構造体である。人間は、自我を所有することによって、自我の欲望を持ち、それによって行動しようとするのである。だから、ある人を指し示す時に、山田さんのご主人と表現するのである。言うまでもなく、山田さんは構造体であり、ご主人は自我である。そして、彼は、山田家という構造体で、父という自我を持って行動するのである。だが、人間は、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を所有することになる。例えば、ある人は、家族という構造体に所属している時は父という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は夫という自我を所有し、小学校という構造体に所属している時は校長という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という構造体に所属している時は日本人という自我を所有し、東京都という構造体に所属している時は都民という自我を所有して活動しているのである。だから、彼の実態は何かと尋ねられても、答えることはできないのである。構造体によって、異なった自我を所有しているからである。彼は家族という構造体における父という自我が自らの真実の実態だと答えたとしても、自我は自我でしか無く、自己とは異なるからである。そもそも、自己の現れが自我であり、人間誰しも異なった構造体に所属し異なった自我を所有しているから、自我から自己を割り出すことはできないのである。さらに、パートという言葉には部分という意味もあるが、まさしく、人間は構造体の一部分にしか過ぎないのである。つまり、人間は、常に、構造体に所属し、自我を所有して、構造体の一部分になり、役割を果たすために生きている、役割存在でしかないのである。また、彼は家族という構造体で父という自我を所有し、一般に、そこには、母という自我を所有している女性がいて、彼女は妻という自我で彼の夫という自我とともに夫婦という構造体を形成しているが、彼女は銀行という構造体では行員という自我を所有し、学生仲間という構造体では友人という自我を所有して行動している。彼は、彼女の行員という自我の活動も友人という自我の活動も知らないのである。つまり、人間は、同じ構造体の中での他者の活動、すなわち、他我しか知らないのである。つまり、人間は、他者の実態も知ることはできないのである。しかも、人間は、常に、構造体に所属して、自我を所有しているが、自ら意識して、すなわち、主体的に思考して、自我を動かすことができないのである。人間は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうとして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに従って行動しようとするのである。人間は、自ら、自我を動かすことはできず、深層心理が、自我を主体に立てて、他者に働き掛けるという自我の欲望を生み出し、人間は、自我の欲望を叶えることによって、快楽を得ようとして、生きているのである。深層心理が思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。そして、深層心理に対して、人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。多くの人が考える思考は、表層心理での思考である。表層心理での思考の尊称が理性である。つまり、人間の思考には、深層心理の思考と表層心理の思考という二種類存在するのである。しかし、人間は、意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、自我の欲望を生み出すことはできないのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。確かに、人間は、表層心理で、思考することがある。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で、意識して、思考して、すなわち、理性で思考して、深層心理が生み出した行動の指令について拒否するという結論を出し、意志で、行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、そのまま、実行せざるを得ないのである。ドイツの哲学者のアドルノが、第二次世界大戦の惨状を嘆いて、「理性の敗北である」と言ったが、もともと、理性には、強い感情を圧倒する力を有していないのである。さらに、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動において、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしていると思っているのである。しかし、人間は、自らが意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、生み出していない自我の欲望によって生きているのである。だから、自己という実態は存在していないのである。自己は、他者に対しての自らの意識である。他者という実態は存在していないのである。他我が存在しているのである。他者は、自己に対しての他者に対する意識である。しかも、自我も、深層心理によって動かされているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。このように、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。まず、自我を主体に立てるであるが、それは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考え、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているということである。自我は、自己の現れであるから、自我の欲望が自己の欲望となって、人間を覆うのである。だから、人間は、自己を主体にして、表層心理で、意識して思考して、自らの行動を決定するということはできないのである。また、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、深層心理は、常に、他者の思惑を気にして、自我の行動を思考するのである。さらに、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議することだけだから、人間は、深層心理の思考よりも早く、表層心理で、思考することはできないのである。人間は、表層心理で、自己によって、主体的に思考できないばかりでなく、自我の行動についての思考も、深層心理の後塵を拝することになるのである。だから、人間は、自由でもなく、主体的な思考者でもないのである。次に、心境であるが、それは、感情と同じく、情態性という心の状態を表している。深層心理は、常に、ある心境やある感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。深層心理は、心がまっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情に動かされているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の心境や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理は、自らの現在の心境や感情を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。つまり、深層心理にとって、自らの心境や感情という情態性が大きな意味を持っているのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は常に確信を持って自我の欲望を生み出すことができるのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。すなわち、表層心理で、意識して思考して、心境を変えることができないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。心境と気分は同意語である。気分転換とは、気分に直接的に働き掛けて変えるのでは無く、何かをすることによって気分を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。人間にとって、自らの心境や感情という情態性が、自我や自己の基点にある自分そのものである。自らの心境や感情という情態性こそが、他我や他者を引き離す存在者なのである。次に、欲動についてであるが、欲動とは、深層心理に内在している欲望の集合体である。欲動が、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てるのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。深層心理は欲動に基づいて思考しているのである。人間は、表層心理で、意識して、深層心理に直接的に働き掛けることはできないが、欲動は深層心理が動かしているから、尚のこと、働き掛けることはできないのである。さて、深層心理には欲動という四つの欲望が内在している。欲動の四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、この四つの欲望に基づいて、快楽を求め不快を避けようとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。まず、欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化という作用であるが、深層心理が、構造体の自我を確保・存続・発展させることによって、安心感という快楽を得ようとすることである。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、表層心理で思考すること無く、自我の欲望のままに行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。確かに、毎日が、平穏ではない。些細な問題が起こる。たとえば、会社という構造体で、上司から叱責を受けると、深層心理は、傷心から怒りの感情と反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆す。しかし、超自我がルーティーンを守るために、反論しろという行動の指令を抑圧しようとする。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、意識して、思考して、将来のことを考え、自我を抑圧しようとするのである。そして、ルーティーンの生活を続けるのである。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言う。しかし、深層心理は瞬間的に思考するのだから、良心がそこで働いているとは考えられない。超自我は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。超自我の働きは、ルーティーンの生活を守ることであり、そのために、道徳観や社会規約を利用しているのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されたくなく友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令には逆らえないのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用であるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。そのために、深層心理が、怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我と表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、相手に惨劇をもたらすのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対自化化の作用であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。哲学的に言えば、対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)ことである。さらに、深層心理は、対象の対自化が高じて、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象化を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ことまで行う。これは、人間特有のものである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこともこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとしているのである。人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自己正当化できなければ生きていけないのである。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その目的である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば満足感が得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用であるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。次に、快感原則であるが、それは、スイスで活躍したフロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けようとする欲望である。ひたすら、その時その場での、瞬間的な快楽を求め不快を避けたいという深層心理の欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。もちろん、傷心も不快感に属している。もしも、自我が他者から心が傷つけられたならば、深層心理は、自我が下位に落とされた傷心という不快感から脱却するために、怒りの感情と復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を復讐に走らせることによって、自我を下位に落とした相手を下位に落とし、自我が上位に立つことによって、満足感という快楽を得ようとすることもあるのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望についてであるが、深層心理は、人間の無意識のうちに思考して、感情と行動の指令を対にして生み出し、感情の力によって行動をかなえようとするのである。つまり、感情とは行動の強さであり、行動の指令は具体的な行動を指し示しているのである。例えば、深層心理が怒りという感情と殴れという行動の指令を生み出せば、怒りという強い感情は殴るという具体的な行動の力になり、自我に殴ることを強く促すのである。さて、人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考することがあるのである。現実原則も、フロイトの用語であり、現実的な利得を求める欲望である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満足させるように、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。後者の場合、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強いので抑えきれないのである。フロイトによれば、超自我とは、道徳観や社会的規約によって、自我の欲望を抑圧することである。しかし、深層心理に、道徳観や社会的規約を有しない快感原則と道徳観や社会的規約を有する超自我が同居することになるから、矛盾することになる。超自我は、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧することである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。その時、人間は、表層心理で、思考して、意志によって、それを抑圧する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。そして、それが国という構造体同士の争いになれば、戦争になるのである。さて、ハイデッガーは、人間は突然不安に襲われると言う。不安は、恐怖とは異なる。恐怖は、自我が他者に認められないかも知れないという虞、自我が他者に奪われるかも知れないという虞である。不安は、自己が存在しないという主体不在の認識、自我すらも主体的に動かすことができないという主体不在の認識から来る。しかし、人間は、世事に紛れて、不安を打ち消そうとする。しかし、世事に紛れることによって、恐怖を忘れることはできるが、不安は忘れることはできないのである。だから、人間は、一生、不安に襲われ続けるのである。しかし、ハイデッガーは、自らを臨死の状態に置くことによって、すなわち、自我を失うことを覚悟することによって、人間は、自己に目覚め、主体性を取り戻し、不安を克服できると言う。しかし、主体性とは、人間が、自己を主体にして、表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、自己の行動を考えることである。しかし、人間にとって、自己とは、単に、他者に対して、自らが持つ意識でしか無い。自己は、他者に対して、自らの存在を指し示すだけのものだからである。ハイデッガーの言う自己とは、他者に対して自らが持つ意識ではなく、自我を根本的に改変したものであるが、ハイデッガーはそれを説明していない。各々が考えるべきものだとしているのである。