あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自我に取り憑かれた人間は、同じ立場であれば、同じことをする。(自我その398)

2020-08-20 16:19:08 | 思想
「誰でも、自分の立場だったら、実行していたと思う。」とは、林郁夫の言葉である。彼は、オウム真理教が起こした、地下鉄サリン事件の五人の実行犯のうちの一人である。彼は、オウム真理教教団幹部であるが、改悛の情が強く、捜査に積極的に協力したという理由で、実行犯の中で、唯一、無期懲役判決が下った。彼は、刑務所の中で、あの事件を何度も何度も振り返って考え、「誰でも、自分の立場だったら、実行していたと思う。」と語っている。これがテレビで報道されると、多くの人は、この言葉を言い訳として捉え、「反省していない。」と言って、非難した。しかし、彼は、究極の反省をしている。究極の反省の後で、この言葉が出てきたのである。彼は、オウム真理教教団の幹部であったが、たとえ、一般信者であったとしても、サリン散布を断ることはできなかっただろう。オウム真理教教団の信者であるという自我が、教祖の麻原彰晃の命令を遵守させたのである。オウム真理教教団という構造体に所属し、信者という自我を持った時から、教祖の麻原彰晃の命令に従うしか無いのである。それが、自我判断である。林郁夫は、自我判断をし、自己判断をしなかったのである。自己判断とは、自分の良心による判断である。自我判断とは、構造体の中で、自我を確保・存続・発展させるために、他者から自我が認められるように、構造体の主体者や構造体の方向性に則って行動するように、判断することである。誰しも、他者には自己判断を求めるが、自らは、判断に迷うと、自我判断するのである。いや、多くは、迷うこと無く、自我判断をしているのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、学校、会社、店舗、施設、役所、家などの構造体で、自我を持って暮らしている。高校という構造体には一年生・二年生・三年生・教諭・校長などの自我、会社という構造体には社員・課長・社長などの自我、店舗という構造体には客・店員・店長などの自我、施設という構造体には所員・所長などの自我、市役所という構造体には職員・助役・市長などの自我、家という構造体には父・母・息子・娘などの自我がある。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。林郁夫は、オウム真理教教団に所属し、信者という自我を得、さらに、治療省大臣という幹部に発展させ、教祖の麻原彰晃や他の信者に認めてもらうために、地下鉄でサリンを撒いたのである。たとえ、オウム真理教教団という構造体の中で、林郁夫にこっそりとサリン散布を止めるように忠告していた信者としても、彼は、サリン散布を断ることも教団から逃げ出すこともしなかっただろう。しかし、それは、殺されることの恐怖だけではない。サリン散布を断れば、教団内で、よくあったように、リンチされ、殺される可能性が高い。逃亡すれば、追いかけられ、捕らわれ、殺される可能性が高い。逃亡のあげく、捕まって、殺された者はいる。しかし、逃げおおせた者もいる。サリン散布を断ることや教団から逃げ出すことの恐怖は、殺される恐怖以上に、今まで所属していたオウム真理教教団という構造体から離れ、信者という自我を失うことの恐怖が大きかったのである。所属していた構造体から離れ、得ていた自我を失うと、その後、激しい空虚感、絶望感に襲われるのがわかっているから、それが恐いのである。何をやって良いかわからなくなることが恐いのである。だから、林郁夫は、自己判断より、自我判断を優先させたのである。しかし、誰しも、自己判断を理想とする。自己判断とは、自分の良心による判断だからである。人間は、意識して、思考すると、自己判断を理想とするのである。人間の意識しての思考が表層心理である。つまり、人間は、表層心理で、意識して思考すると、自己判断によって、すなわち、自分の良心にそって生きるのが良いと思うのである。しかし、実際には、人間は、自我判断によって、生きているのである。自我判断とは、構造体の中で、自我を確保・存続・発展させるために、他者から自我が認められるように、構造体の主体者や構造体の方向性に則って行動するように、判断することである。それでは、人間をして、自我判断させるのは何であろうか。深層心理である。深層心理とは、人間の無意識の思考である。人間は、常に、無意識のうちに、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象を支配したいという欲望、自我と他者を共感させたいという欲望を持って、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現れなのである。自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象を支配したいという欲望、自我と他者を共感させたいという欲望という三つの欲望は、自我を確保・存続・発展させたいという欲望から派生したものである。快感原則とは、フロイトの用語である。ひたすら快楽を求めることであり、上記の四つの欲望のいずれかが満たされたならば、快楽が得られるのである。このように、人間の思考には、深層心理の思考と表層心理の思考という二種類存在し、人間は、深層心理が思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望によって動かされているのである。人間は、意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、自我の欲望を生み出すことはできないのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしていると思っているのである。確かに、人間は、表層心理で、思考することがある。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で、意識して思考し、深層心理が生み出した行動の指令について拒否することを決定し、意志で、行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。だから、林郁夫が、表層心理で、意識して思考し、麻原彰晃のサリンを撒けという命令を拒否することを決定し、意志で、麻原彰晃の命令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した、死への恐怖感・オウム神理教教団から追放され信者という自我を失う恐怖感が強いので、麻原彰晃のサリンを撒けという命令のままに行動してしまうのである。しかも、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動において、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。林郁夫も、麻原彰晃の命令を聞くというルーティーンをたどり、地下鉄でサリンを撒いたのである。さらに、林郁夫は、オウム真理教教団という構造体の中で、治療省大臣という幹部になり、自我を確保・存続・発展させたいという欲望が満たされ、麻原彰晃という教祖に治療省大臣に抜擢され、自我が他者に認められたいという欲望が満たされ、治療省大臣という幹部という地位で信者を指導して、自我で他者を支配したいという欲望が満たされ、信者から信頼・尊敬され、自我と他者を共感させたいという欲望が満たされ、全ての欲望が満たされていたので、麻原彰晃の命令を拒否して、オウム真理教教団という構造体から追放され治療省大臣という自我を失うという選択肢は存在しなかったのである。かつて、新潟県や千葉県で、何年間も監禁されていた少女が助け出されたことがある。マスコミや大衆は、なぜ逃げるチャンスがあったのに逃げ出さなかったのだろうと疑問を呈する。しかし、彼ら自身が、自らを反省してみると良い。一度なりとも、自らの意志で、現在の生活環境や生活のサイクルを変えたことがあっただろうか。彼女たちも、ルーティーンに従って行動していたのである。人間は、他者の力で変えさせられることがあっても、自らの力で変えることはほとんど無いのである。しかし、ハイデッガーは、「人間は自らを臨死の状態におくことができれば(死の覚悟を持つことができれば、他者の視線をはねのけ、自ら自身で考え、自らの意志で決断し、自ら一人でも行動できる。」と言った。実存主義である。しかし、林郁夫は、死の覚悟を持てず、むしろ、死の恐怖に苛まれた。また、他者の視線をはねのけ、自ら自身で考え、自らの意志で決断し、自ら一人で行動しようとせず、オーム真理教から追放され治療省大臣という自我を失うことを恐れた。だから、麻原彰晃の命令で、地下鉄でサリンを撒くことになったのである。また、太平洋戦争で、臨死の状態にあった、操縦技術の未熟な六千人もの若者が、愚鈍でありながらも出世欲の強い上官たちの命令で、苦悩の果てに、特攻死した。彼らは、臨死の状態にあったのに、上官たちの視線をはねのけることができなかった。死にたくなかったのに、特攻死を拒否できなかった。それは、彼らは、臨死の状態にありながら、自らを臨死の状態におかなかった(死の覚悟を持つことができなかった)からである。なぜならば、臆病者というレッテルを貼られることで、日本人という自我を失うことが恐かったからである。太平洋戦争中、一部の知識人・一部の宗教人・一部の共産党員だけが、残酷な憲兵や特高の拷問を受けながら、戦争反対を唱え続けた。臨死の状態に身をおき(死の覚悟を持ち)、憲兵や特高の視線、政治権力の視線、マスコミや神主や大衆の視線をはねのけ、自らの意志で決断し、戦争反対を唱え続けた。そして、百人以上が拷問で殺された。特攻死した六千人もの若者や戦争反対を唱え続けて拷問死した一部の知識人・一部の宗教人・一部の共産党員に、戦後の明日は無かった。操縦桿を握った時に、そして、逮捕された時に、今日は途絶え、明日は無かった。しかし、若者を特攻死させた上官や戦争反対者を拷問死させた憲兵や特高には、戦中の今日も戦後の明日も存在した。そして、今日生きたように、明日も生きていくことができた。つまり、自我によって生き、他者を殺した者たちに明日は来たのである。自己によって生きようとした者は、自我によって生きている者に殺されたのである。さて、ほとんど戦後生まれになった日本人にも、明日はやって来るだろう。そして、今日生きたように、明日も生きていくだろう。それが、習慣であり、ルーティーンである。それが、ニーチェの言う「永劫回帰」(全ての者は同じことを繰り返す)という思想である。ほとんどの人間は、「永劫回帰」しているのである。すなわち、ほとんどの人間には、明日はやって来るだろう。そして、今日生きたように、明日も生きていくのである。それは、自我によって生きているからである。しかし、人間、誰しも、明日がやって来ること、明日も生きていくことの確証は得ることはできない。誰しも、明日がやって来ること、明日も生きていくことの確証は得ることはできないのに、明日がやって来ること、明日も生きていくことを信じている。もちろん、人間は、表層心理で、意識して考えて、そのような結論に達したのではない。表層心理での思考が理性の思考である。すなわち、理性の思考から、明日への期待が生まれているのでは無い。深層心理(無意識)がそのように信じなければ生きていけないから、明日もやって来て、明日も今日のように生きていくことができると思い込んでいるのである。それは、そのように思わなければ、生きていけないからである。しかし、人間には、時には、判断が求められることが起こる。その時、自己判断をするか自我判断をするかを決定しなければならない時がある。自己判断とは、自分の良心による判断である。自我判断とは、構造体の中で、自我を確保・存続・発展させるために、他者から自我が認められるように、構造体の主体者や構造体の方向性に則って行動するように、判断することである。だから、戦後生まれの者も、他者には自己判断を求めるが、自らは、判断に迷うと、自我判断するのである。なぜならば、自分の良心によって判断すると、正義は貫けるが、構造体から追放され、自我を失う可能性が高いからである。戦前、戦中は、自己判断をして行動した者は、国家権力という自我に取り憑かれた者に殺され、戦後は、自己判断をして行動した者は、構造体の主体者という自我に取り憑かれた権力者から構造体から追放されるのである。