あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人生とは、この世に、自我を刻印することである。(自我その390)

2020-08-02 15:00:33 | 思想
人間は、自由を希求して生きている。自由であるとは、自我の欲望のままに行動することである。しかし、人間は、意識して思考して、自我の欲望を生み出すことはできない。人間は、無意識のうちに思考して、自我の欲望を生み出している。人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。無意識の思考を深層心理と言う。つまり、人間の思考には、深層心理の思考と表層心理での思考という二種類が存在するのである。さて、深層心理が生み出す自我の欲望には、目的がある。それは、この世に、自我を刻印することである。つまり、人生とは、この世に、自我を刻印することである。自我を刻印するとは、他者に自我の存在を認めてもらうことである。しかし、自由であるということは自我の欲望のままに行動することであるから、自らが自由であれば他者が不自由であることを意味する。なぜならば、自我の欲望とは、自我を確保しつつ、他者を支配し、他者を排除し、なおかつ、自我を他者に認めてもらいという欲望であるからである。だから、人間は自由を希求している限り、自我の欲望のままに行動しようとする限り、この世に自我を刻印しようとする限り、他者との相克は避けられないのである。つまり、人間は生きている間は、他者との相克は避けられないのである。さて、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体には、家族、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップルなどがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、銀行という構造体では、支店長・行員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、孤独であっても、そこに、常に、他者が絡んでいる。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、暮らしているのである。人間は、社会的な存在であるから、自分や自己は、人間にとって、単に、自らを指し示すことにしか過ぎず、ある構造体の中で、ある自我を得て、初めて、自らの存在の意味を帯びるのである。例えば、山田一郎は、夫婦という構造体では、夫であり、家族という構造体では、父であり、会社という構造体では、営業課長であり、電車という構造体では、乗客である。山田美子は、夫婦という構造体では、妻であり、家族という構造体では、母であり、銀行という構造体では、行員であり、電車という構造体では、乗客である。人間は、社会的な存在であるから、抽象的な人間像を基にしては、行動できないのである。人間は、自らの社会的な位置が定まらなければ、深層心理は、自我の欲望を生み出すことができないのである。社会的な位置とは、構造体の中での自我である。つまり、人間の存在とは、社会的な位置であり、それは、構造体の中での自我なのである。人間は、構造体に所属し、構造体内の他者にその存在が認められて、初めて、自らの自我が安定するのである。それが、アイデンティティーを得るということである。つまり、アイデンティティを得るには、自らが構造体に所属しているという認識しているだけでは足りず、構造体内の他者からの承認と評価を必要とするのである。つまり、構造体内の他者からの承認と評価が存在しないと、自我が安定しないのである。だから、人間は、常に、他者の視線を気にして生きているのである。さて、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動している。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現れなのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしていると思っているのである。確かに、人間は、表層心理で、思考することがある。しかし、人間は、表層心理では、独自に思考することは無いのである。人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議するのみである。しかも、人間は、深層心理が生み出した行動の指令について、表層心理で、常に、審議して、行動しているのではないのである。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動において、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。さて、人間は、常に、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動しているのであるが、自我を主体に立てるとはどういうことか。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。人間は、表層心理で、意識して思考して、自我が主体的に自らの行動を決定するということはできないのである。それには、二つの理由がある。一つは、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。もう一つは、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議することだけだからである。人間は、表層心理独自で、思考することはできないのである。次に、心境とは何か。心境は、感情と同じく、心の状態を表す。深層心理は、常に、ある心境や感情の下にある。つまり、深層心理は、心がまっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情にも動かされているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の心境や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインが、「苦しんでいる人間は、苦しいという感情が消滅すれば、苦しみの原因もが決されなくても構わない。」と言うように、人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、苦しんでいる人間は、苦しいという感情が消えれば良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、苦しみの感情は、深層心理がもたらしたものであり、苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、自我の欲望は、他者に対する思いより、自らの心境や感情という情態性を重んじているのである。つまり、自我の欲望とはエゴイスティックなのである。自由とは、自我の欲望のままに行動することであるから、エゴイズムを追求することなのである。さらに、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時、同時に、必ず、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。どのような状態にあろうと、心境や感情は掛け替えのない自分なのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできない。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。心境と気分は同意語である。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。次に、快感原則とは、何か。快感原則とは、スイスで活躍した心理学者のフロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けたいという欲望である。深層心理は、構造体の中で、自我が快楽を得るように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我を動かしているのである。快感原則とは、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望であり、そこには、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。そして、人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考することがあるのである。現実原則とは、現実的な利得を求める欲望である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。さて、すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強いので抑えきれないのである。フロイトによれば、超自我とは、道徳観や社会的規約によって、自我の欲望を抑圧することである。しかし、深層心理に、道徳観や社会的規約を有しない快感原則と道徳観や社会的規約を有する超自我が同居することになるから、矛盾することになる。だから、私は、フロイト説を採らない。超自我とは、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧することだと思う。いずれにしても、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。その時、人間は、表層心理で、思考して、意志によって、それを抑圧する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。このように、深層心理の快感原則や超自我にしろ、表層心理の現実原則にしろ、エゴイスティックである。つまり、自我の欲望とはエゴイスティックなのである。自由とは、自我の欲望のままに行動することであるから、エゴイズムを追求するのである。次に、欲動についてであるが、欲動とは、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てる、深層心理に内在している欲望の集合体である。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させるのである。だから、深層心理は欲動に基づいて思考していると言えるのである。フロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギー、すなわち、性欲を挙げている。しかし、フロイトが挙げているリピドーとしての性欲だけでは、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望を説明しきれないのである。欲動は四つの欲望によって成り立っていると考えると、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望を説明できるのである。まず、欲動には、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。自我を存続させたいのである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。いずれも、自我を存続・発展せたいという第一の欲望、自我の保身化から来ている。いずれも、安倍首相に、認めてもらい、立身出世しようとしているのである。自我を発展させたいのである。また、人間は、入学試験や入社試験に合格して、学校や会社という構造体で自我を確保しようとする。自分が合格すれば、他者の誰かが排除される。自分が不合格ならば、自分に代わって、他者の誰かが自我を得ていることになる。つまり、自我の確保には、必ず、自我の排除を伴っているのである。自我の保身化の前に自我の確保が必要であるが、それも、また、エゴイスティックなのである。つまり、自我の保身化も自我の確保もエゴイスティックなのである。そして、自由とは、深層心理が生み出す自我の欲望のままに行動することであり、自我の保身化も自我の確保も深層心理が為すことであるから、人間は、自由を希求して生きている限り、深層心理は、自我の保身化と自我の確保というエゴイズムを追求し続けるのである。次に、欲動には、第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。それは、深層心理が、自我が他者に認められることによって、すなわち、他者に自我を刻印することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、言い換えると、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。それが、自我の刻印の快楽である。受験生が勉強するのは、所謂名門大学に合格し、教師や同級生や親から褒められ、世間から賞賛を浴びたいからである。若い女性がアイドルを目指すのは、大衆から賞賛を浴びたいからである。宇宙飛行士を目指すのは、宇宙から帰還して、国民から賞賛を浴びたいからである。自我の対他化については、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に、その意味が集約されている。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。そして、人間が苦悩に陥る主原因が、深層心理の自我の対他化の欲望がかなわなかったことである。そのために、鬱病などの精神疾患に陥ることがあるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なり、苦悩し、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにすることもあるのである。すなわち、現実逃避するのである。しかし、人間は、他者が苦悩しているのを見ても、決して、精神疾患に陥ることは無い。つまり、人間は、自我の対他化においては、他者に自我を刻印しようとしているが、他者から刻印されることを求めないのである。確かに、人間は、他者から刻印されることはあるが、それは、自我の対他化とは別の作用である。そして、自由とは、深層心理が生み出す自我の欲望のままに行動することであり、自我の対他化は自我を他者に刻印しようとするが他者からの刻印されることを求めないというエゴイスティックなものであるから、人間は、自由を希求して生きている限り、深層心理は、自我の対他化というエゴイズムを追求し続けるのである。次に、欲動には、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。それは、哲学用語で言えば、有の無化作用である。有の無化作用は、二種類存在する。一つは、深層心理が、他者や物や現象という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。深層心理が、自我を主体に立てて、他者という対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で支配すること、物という対象を自我の志向性や趣向性で利用すること、現象という対象を自我の志向性や趣向性で捉えることなのである。すなわち、他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用することである。現象の対自化とは、自分の志向性でや趣向性で、現象を捉え、理解し、支配下に置くことである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、現象という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で捉えている。国会議員は総理大臣になってこの国を支配したいのである。教諭は校長になって学校を支配したいのである。社員は社長になって会社を支配したいのである。人間は樹木やレンガを建築材料として利用するのである。科学者は自然を対象として捉え、支配しようとするのである。もう一つは、深層心理は、自らを苦しめる他者・物・現象という対象がこの世に存在していると、それが存在していないように思い込むのである。いじめられていた子が自殺すると、いじめていた子は、責任を問われるのが辛いから、遊びだと思い込み、いじめていた子の親は、親という自我を責められるのが辛いから、自殺の原因をいじめられた家族にあると思い込むのである。また、深層心理は、自らの志向性や自分の趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、この世に存在しているように思い込むのである。それが、「人は自己の心象を存在化させる」、哲学用語で言えば、無の有化という作用である。深層心理は、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったから、神を創造したのである。さて、志向性や趣向性は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。しかし、志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は冷静に捉え、趣向性は感情的に捉えていることである。右翼・保守系の大衆は、愛国心を金科玉条にして、安倍首相を趣向性で捉えている、すなわち、好みで捉えているから、安倍首相がどれだけ悪行を重ねても、支持するのである。また、自我による対象の対自化は、挫折しても、深層心理が、自らを精神疾患をするまでに苦悩しないのである。なぜならば、挫折しても、深層心理は、無の有化作用、すなわち、「人は自己の心象を存在化させる」ことによって、空想、妄想を生み出し、乗り越えていくからである。むしろ、自我による対象の対自化によってこそ、人間の生きる希望が見出されるのである。さて、自我の対他化は自我が他者の視点によって見られることならば、対象の対自化は自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者・物・事柄を見ることなのである。深層心理は、自我で他者を支配するために、他者がどのような思いで何をしようとしているのかその欲望を探ろうとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これを徹底した思想が、ドイツの哲学者のニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。だから、フランスの哲学者のサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。見られることより見ることの方が大切なのだ。」と言い、死ぬまで戦うことを有言実行したが、一般には、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。また、大衆は、他者という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えることが多い。だから、大衆の行動は、常に、感情的なのである。このように、対象の対自化は、支配欲というエゴイスティックなものである。人間は、自由を希求して生きている限り、深層心理は、対象の対自化というエゴイズムを追求し続けるのである。最後に、欲動には、第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。それは、深層心理が、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化とは、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。つまり、自我と他者の共感化という作用も、自我のためにあるのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持つ。しかし、相手から別れを告げられると、深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、ストーカーになって、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするのである。それは、カップルや夫婦という構造体が壊れ、恋人や夫・妻という自我を失うことの苦悩から起こすのである。つまり、自我と他者の共感化の作用も、自我のために存在するから、相手が別れから告げられると、傷心・怒りのために、相手の気持ちも考えずに、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりすることがあるのである。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。ドイツの詩人ヘルダーリンは、愛するゼゼッテが亡くなってしまったので、深層心理が、苦悩から脱出する術を知らず、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにすることもある。それほど、恋人いう自我を失うことは辛いのである。自我と他者の共感化と言えども、自我に執着し、エゴイスティックであることは、他の欲望と、何ら変わらないのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。安倍晋三首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆の支持を集めているのである。「呉越同舟」も、自我のエゴイスティックな行動なのである。このように、自我と他者の共感化という作用も、エゴイスティックなものである。人間は、自由を希求して生きている限り、深層心理は、自我と他者の共感化というエゴイズムを追求し続けるのである。このように、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を確保し、自我を存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それに動かされて行動しているのである。いずれも、深層心理のエゴイズムの追求から起こされているのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望が満たされているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。たとえ、深層心理が思考して、ルーティーンと外れた行動の指令を出したとしても、深層心理の生み出した感情が強くなければ、超自我で抑圧し、ルーティーン通りの行動をさせるのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。深層心理が、自我に執着するのは、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。それは、人生とは、この世に、自我を刻印することである
からである。さて、人間は、常に、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのであるが、深層心理が、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、人間は、二種類の行動を取る。一つは、表層心理で意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動するのである。もう一つは、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を意識して思考し、その後で行動するのである。前者が、所謂、無意識による行動である。日常生活のルーティーン通りの行動がそれである。後者は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、行動するのである。この、表層心理での思考は広義の理性の思考である。この思考の結果が意志(による行動)である。現実原則も、フロイトの用語で、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。人間は、表層心理で思考して、行動の指令を許諾する結論を出せば、言うまでもなく、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動することになる。これが意志による行動となる。人間は、表層心理で思考して、行動の指令を拒否する結論を出せば、意志によって、深層心理が出した行動の指令を抑圧しようとする。抑圧が成功すれば、その後、人間は、表層心理で、意識して思考して、別の行動を考え出さなければならなくなる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理での思考は、長時間を要する。そして、感情は、深層心理が行動の指令とともに生み出すから、瞬間的に湧き上がる。そして、人間は、表層心理で思考して、深層心理の行動の指令を拒否する結論を出し、意志で、抑圧しようとするのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。人間は、表層心理で、現実原則に基づいて思考して、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を拒否し、意志で抑圧しようとするのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。これが狭義の理性である。この場合、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがあるのである。さらに、人間は、表層心理で、思考して、深層心理の行動の指令を拒否する結論を出し、意志を使って抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、意志では、抑圧できないのである。これが、所謂、感情的な行動であり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多いのである。だから、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令をコントロールしながら生きていけなければいけないのだが、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するしかないのである。これが、人間の表層心理での思考の限界、すなわち、理性の限界のである。それほど、深層心理が生み出す行動の指令とは、大きな存在なのである。それは、深層心理は、行動の指令を、感情と共に、生み出しているからである。深層心理が生み出す自我の欲望は、常に、感情と行動の指令が一体化しているのである。つまり、行動の指令の強さは感情の強さなのである。しかし、確かに、自我の欲望は、惨劇・悲劇をもたらすこともあるが、それを否定しきれないのである。なぜならば、人間は、無意識のうちに、深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出さなければ、行動できないからである。人間の意識しての思考、すなわち、表層心理での思考は、独自に動けず、常に、深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、始まるからである。さて、深層心理が生み出す自我の欲望には、感情と行動の指令が合体したものと、感情と行動のイメージが合体したものが存在するのである。行動の指令は、深層心理が自我に行動することを強いるのであるが、行動のイメージとは、深層心理が行動を想像するだけで実行性は求めないのである。好きな人とデートしている場面を空想すること、嫌な上司を殴っている場面を想像することなど、人間の生活には行動のイメージは欠かせない。なぜならば、それによって、快楽や満足感が得られたり、気持ちを収めることができるからである。もちろん、実際には、体を動かしていず、イメージでしかない。しかし、イメージにしろ、行動が形作られているので、実際に体を動かして行動するのと同等の価値があるのである。なぜならば、実際に体を動かしてする行動も、快楽や満足感が得ること、気持ちを収めることが目的であるからである。それでは、なぜ、深層心理は、行動をイメージするだけで満足し、実際に体を動かして行動するという指令を出さないのか。それは、実際に行動することが不可能であったり、実際に行動することで、対象の他者や周囲の他者から顰蹙を買い、自我に不利益が生じる虞があるからである。深層心理は、その点を考慮して、行動の指令を出さず。イメージだけにとどめているのである。もちろん、イメージだけの行動で満足する行動が、全ての行動ではない。それは、イメージを形作るだけで、十分に、快楽や満足感が得、気持ちを収めることができるものだけである。それだけで、快感原則を満たすことができるからである。快感原則とは、快楽や満足感を得るというエゴイスティックなものであるから、イメージだけで満足できれば、それで十分なのである。このように、人間は、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望によって、動かされている。深層心理は、ある心境の下で、欲動によって、快感原則に基づいて、自我の欲望を生み出している。自由であるとは、自我の欲望のままに行動することである。だから、人間は、自由を希求して生きているのである。自我の欲望の目的は、他者に自我を刻印すること、すなわち、この世に、自我を刻印することである。深層心理は、この世に、自我を刻印するために、自我を確保しつつ、他者を支配し、他者を排除し、なおかつ、自我を他者に認めてもらいという自我の欲望を生み出しているのである。だから、人間は自由を希求している限り、自我の欲望のままに行動しようとする限り、この世に自我を刻印しようとする限り、他者との相克は避けられないのである。つまり、人間は生きている間は、他者との相克を避けられないのである。それを避けるために、深層心理は、行動のイメージを生み出したり、表層心理で、現実原則によって思考し、意志によって行動の指令を抑圧しようとするのである。しかし、行動のイメージは実行性が無く、表層心理の現実原則の思考による意志は深層心理の感情に敗れることが多いのである。だから、人間は、他者との相克を避けられないのである。