あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間の心理と行動の仕組みについて。(自我その396)

2020-08-16 11:55:49 | 思想
人間は、自我の欲望を満たすために生きている。自我の欲望を満たすとは、自我の存在を他者に知らしめ、快楽を追求することである。人間は、他者を、自我が自らの欲望を追求するための目標、若しくは、道具としてみている。なぜならば、自我の欲望とは、自我を確保しつつ、他者を支配し、他者を排除し、なおかつ、自我を他者に認めてもらいたいという欲望であるからである。人間は、自我の欲望を追求しながら、一生を送るのである。自我は、自分や自己とは、微妙に異なっている。自分や自己は、単に、他者に対して、自らを指し示すしかものでしかない。だから、自らを指し示す必要があれば、自分や自己という言葉は、いついかなる時でも、どのような他者に対してであろうと、使うことができる。しかし、自我は、構造体の中でしか使えない。なぜならば、自我とは、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、そのポジションに応じて行動しようとする、 現実の自分のあり方であるからである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持して活動しているのである。構造体には、家族、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップルなどがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、銀行という構造体では、支店長・行員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、自分や自己においては、欲望を抱かない。自分や自己は、他者に対して、自らの存在を指し示すだけのものだからである。人間は、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、自我を持することによって、深層心理が、自我の欲望を生み出すことができるのである。人間は、深層心理が、他者に働き掛けるという自我の欲望を生み出し、自我の欲望を叶えることによって、快楽を得ようとして、生きているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。それに対して、人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。人間の思考には、深層心理の思考と表層心理の思考という二種類存在するのである。人間は、意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、自我の欲望を生み出すことはできない。人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現れなのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしていると思っているのである。確かに、人間は、表層心理で、思考することがある。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動において、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持しているから、そこに、常に、他者が存在し、若しくは、介在している。人間は、社会的な存在であるから、自分や自己は、人間にとって、単に、自らを指し示すことにしか過ぎず、構造体の中で、自我を得て、初めて、自らの存在が意味を帯びるのである。人間は、自らの社会的な位置が定まらなければ、つまり、構造体の中で自我が定まらなければ、深層心理は、自我の欲望を生み出すことができないのである。人間の存在とは社会的な位置であり、社会的な位置とは構造体の中での自我であるから、構造体の中での自我が重要なのである。また、人間は、構造体に所属し、構造体内の他者にその存在が認められて、初めて、自らの自我が安定するのであるが、それがアイデンティティーを得るということである。つまり、アイデンティティを得るには、自らが構造体に所属しているという認識しているだけでは足りず、構造体内で、他者から、承認と評価を受ける必要とするのである。つまり、構造体内の他者からの承認と評価が存在しないと、自我が安定しないのである。さて、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動しているのであるが、自我を主体に立てること、心境、欲動、快感原則、感情と行動の指令について、順に、説明していこうと思う。まず、自我を主体に立てることについてであるが、それは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。もちろん、自我が快楽を得るということは、深層心理が快楽を得るということである。深層心理にとって、自らが快楽を得るために、自我を主体に立てる必要があるのである。なぜならば、深層心理とは見えない存在だからである。つまり、自我は、深層心理の傀儡である。そして、自我が快楽を得るために、他者を目標にしたり、若しくは、他者を道具にしたりするのである。だから、他者のために自我があるのでは無く、自我のために他者が存在するのである。それ故に、人間関係とは、利用し、利用される関係である。だから、人間は、自我が主体的に思考する前に、すなわち、表層心理で、自ら意識して、思考する以前に、深層心理が、既に、自我を主体に立てて、自我の快楽のために自我の行動を考えているのである。だから、人間は、自由でもなく、主体的な存在者でもないのである。そもそも、人間は、表層心理で、意識して思考して、主体的に自らの行動を決定するということはできないのである。それには、二つの理由がある。一つは、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。もう一つは、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議することだけだからである。人間は、表層心理独自で、思考することはできないのである。つまり、人間は、本質的に、主体的に思考できず、行動できないのである。次に、心境についてであるが、それは、感情と同じく、心の状態を表している。深層心理は、常に、ある心境やある感情の下にある。つまり、深層心理は、心がまっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情にも動かされているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の心境や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理は、自らの現在の心境や感情を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境や感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、苦しいという感情が消すことができれば良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理にとって、感情や行動の指令という自我の欲望を起こして、自我を動かし、苦しみの心境や感情から、苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態性が大切なのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。心境と気分は同意語である。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。次に、欲動についてであるが、欲動とは、深層心理に内在している欲望の集合体である。欲動が、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てるのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。だから、深層心理は欲動に基づいて思考していると言えるのである。スイスで活躍した心理学者のフロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギー、すなわち、性欲を挙げている。しかし、フロイトの言う性欲というリピドーだけでは、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望を説明しきれないのである。欲動は四つの欲望によって成り立っているのである。深層心理に内在する欲動の四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。まず、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという欲望があるが、それは、自我の保身化という作用で現れる。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。自我を存続させたいのである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。いずれも、自我を確保・存続・発展せたいという欲望、すなわち、自我の保身化作用から来ている。いずれも、安倍首相に、認めてもらい、立身出世しようとしているのである。自我を発展させたいのである。しかし、自らの自我が立身出世すれば、他者の自我の立身出世が阻まれるのである。自らの自我が発展すれば、他者の自我の発展が妨げられるのである。つまり、誰かの自我が発展すれば、誰かの自我が発展を妨げられるのである。また、人間は、入学試験や入社試験に合格して、学校や会社という構造体で自我を確保しようとする。しかし、自らの自我が確保すれば、他者の誰かの自我が排除されているのである。自分が不合格になると、自分の自我が排除され、他者の誰かが自我を確保することになる。つまり、誰かの自我の確保には、必ず、誰かの自我の排除を伴っているのである。つまり、深層心理の自我の確保・存続・発展という欲望、すなわち、自我の保身化の欲望は、他者の自我の排除によって成り立っているのであり、独りよがりで、孤独な営みなのである。次に、第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望があるが、それは、自我の対他化という作用で現れる。それは、深層心理が、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。受験生が有名大学を目指すのは、教師や同級生や親から褒められ、世間から賞賛を浴びたいからである。若い女性がアイドルを目指すのは、大衆から賞賛を浴びたいからである。宇宙飛行士を目指すのは、宇宙から帰還して、国民から賞賛を浴びたいからである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。そして、人間が苦悩に陥る主原因が、深層心理の自我の対他化の欲望がかなわなかったことである。そのために、鬱病などの精神疾患に陥ることがあるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なり、苦悩し、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにすることもあるのである。すなわち、現実逃避するのである。しかし、人間は、他者が苦悩しているのを見ても、決して、精神疾患に陥ることは無いのである。つまり、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用も、また、独りよがりで、孤独な営みなのである。次に、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望があるが、それは、対象の対自化の作用として現れる。それは、哲学用語で言えば、有の無化作用である。有の無化作用は、二種類存在する。有の無化作用の一つは、深層心理が、他者や物や現象という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。深層心理が、自我を主体に立てて、志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、他者という対象を支配することによって、物という対象を志向性で利用することによって、現象という対象を自我の志向性や趣向性で捉えることによって、喜び・満足感を得ようとするのである。他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることである。人間は、その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接しているのである。物の対自化とは、目的のために、対象の物を利用することである。現象の対自化とは、自分の志向性でや趣向性で、現象を捉え、理解し、支配下に置くことである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、自分の志向性や自分の趣向性で、他者という対象を支配しようとしている。人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で利用しようとしている。人間は、無意識のうちに、現象という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で捉えている。)という言葉に集約されている。国会議員は総理大臣になってこの国を支配したいのである。教諭は校長になって学校を支配したいのである。社員は社長になって会社を支配したいのである。人間は樹木やレンガを建築材料として利用するのである。科学者は自然を対象として捉え、支配しようとするのである。有の無化作用のもう一つは、深層心理は、自らを苦しめる他者・物・現象という対象がこの世に存在していると、それが存在していないように思い込むことによって、その苦しみから逃れようとすることである。いじめられていた子が自殺すると、いじめていた子は、責任を問われるのが辛いから、遊びだと思い込み、いじめていた子の親は、親という自我を責められるのが辛いから、自殺の原因をいじめられた家族にあると思い込むのである。また、深層心理は、自らの志向性や自分の趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、この世に存在しているように思い込むのである。それが、「人は自己の心象を存在化させる」、哲学用語で言えば、無の有化という作用である。多くの人は、深層心理が、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったから、神が存在しているように思い込んだのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。さて、志向性や趣向性は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。しかし、志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は冷静に捉え、趣向性は感情的に捉えていることである。右翼・保守系の大衆は、愛国心を金科玉条にして、安倍首相を趣向性で捉えている、すなわち、好みで捉えているから、安倍首相がどれだけ悪行を重ねても、支持するのである。このように、自我で対象をを支配したいという欲望、すなわち、対象の対自化の作用も、また、独りよがりで、孤独な営みなのである。ドイツの哲学者のニーチェの言う「権力への意志」とは、自我で対象をを支配したいという欲望、すなわち、対象の対自化を徹底した思想である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。最後に、第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望があるが、それは、自我と他者の共感化という作用として現れる。それは、深層心理が、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化は、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うことなのである。つまり、自我と他者の共感化という作用も、また、自我のためにあるのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持つ。しかし、相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。なぜならば、自我と他者の共感化という作用も、また、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるためというエゴイスティックなものだからである。ストーカーは、深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするのである。それは、カップルや夫婦という構造体が壊れ、恋人や夫・妻という自我を失うことの苦悩から起こすのである。すなわち、自我と他者の共感化の作用も、自我のために存在するから、相手が別れから告げられると、傷心・怒りのために、相手の気持ちも考えずに、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするようなストーカーが出現するのである。つまり、自我と他者の共感化と言えども、自我に執着し、独りよがりで、孤独であり、それは、他の欲望と、何ら変わらないのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の作用が起こしたものである。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。安倍晋三首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆の支持を集めているのである。「呉越同舟」も、自我のエゴイスティックな行動なのである。次に、快感原則についてであるが、快感原則とは、フロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けたいという欲望である。深層心理は、欲動という四つの欲望を満たすことで、自我が快楽を得るように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我を動かしているのである。欲動の四つの欲望とは、自我を保有・存続・発展させたいという欲望、自我を他者に認めてほしいという欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、自我と他者が共感したいという欲望である。快感原則とは、ひたすらその時その場で、欲動の四つの欲望のいずれかを満たして、快楽を得、不快を避けようという欲望であり、そこには、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、快感原則も、独りよがりで、孤独なものなのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望についてであるが、深層心理は、人間の無意識のうちに思考して、感情と行動の指令を対にして生み出し、自我の欲望として自我を動かそうとするのである。例えば、怒りの感情と対にして殴れという行動の指令を出し、それを自我の欲望として自我に提出し、自我に殴ることを促すのである。さて、人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考することがあるのである。現実原則も、フロイトの用語であり、現実的な利得を求める欲望である。だから、現実原則も、独りよがりで、孤独なものなのである。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満足させるように、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。後者の場合、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強いので抑えきれないのである。フロイトによれば、超自我とは、道徳観や社会的規約によって、自我の欲望を抑圧することである。しかし、深層心理に、道徳観や社会的規約を有しない快感原則と道徳観や社会的規約を有する超自我が同居することになるから、矛盾することになる。超自我は、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧することである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。その時、人間は、表層心理で、思考して、意志によって、それを抑圧する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。このように、深層心理の快感原則や超自我にしろ、表層心理の現実原則にしろ、独りよがりで、孤独なものである。つまり、人間は、エゴイスティックで孤独な存在なのである。確かに、家が火事になり、取り残された子供を助けようとして、自らの命が失われる危険を省みずに、火の中に飛び込む母親が存在する。感動的な行為であるが、それは、家族という構造体の中の母親という自我がそのようにさせるのであり、言わば、深層心理がそうさせるのであり、表層心理の思考による、主体的な意志によるものではない。だから、よその家が火事ならば、消防署には連絡しても、火の中に飛び込むことはないのである。