あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

気分と感情こそ存在の証である。(自我その366)

2020-06-11 12:16:18 | 思想
デカルトは、「方法序説で」で、「コギト エルゴ スム」と述べた。一般に、「コギト」と略されて呼ばれている。「我思う、故に、我あり。」と翻訳されている。「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在しているである。だから、私はこの世に確実に存在しているのである。」という意味である。しかし、論理は危うい。もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を心理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからだ。また、そもそも、人間は、自分がそこに存在していることを前提にして、いろいろな活動をしているのであるから、自分の存在を疑うことは意味をなさないのである。疑うこと自体、自分の存在を前提にして論理を展開するのだから、論理の展開の結果、自分の存在は疑わしいという結論が出たとしても、自分の存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に自分の存在が証明できるから存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。その活動を、人間は、必ずしも、意識して行っているのではない。むしろ、無意識の活動の方が多いのである。それが、深層心理である。つまり、人間には、深層心理の思考と表層心理での思考という二種類の思考が存在するのである。深層心理の思考とは人間の無意識の思考であり、表層心理での思考とは人間の意識しながらの思考である。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考に気付いていない。思考の中心は表層心理でのものだと思っていて、深層心理の思考を、無意識の行動というような、例外的な活動にしか認めていないのである。そして、自ら、主体的に、意識して、考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思っているのである。そこに、大きな誤解があるのである。人間は、常に、深層心理がまず思考して、行動するのである。深層心理は、人間の存在を前提に思考しているから、人間は、自らの存在を意識することは無い。人間は、表層心理で思考している時は、自らを意識して思考しているから、当然のごとく、自らの存在を意識している。また、他者に会った時や他者に見られた時に、自らの存在を意識する。そして、無我夢中で行動していて、突然、自らの存在を意識することもある。しかし、人間は、深層心理が、まず思考して、行動するのであり、深層心理は、人間の存在を前提に思考しているから、人間は、自らの存在を意識することは稀れなのである。さて、フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。さて、人間は、常に、深層心理が、ある気分の下で、構造体の中で、自我を主体に立てて、快感原則によって、欲動に基づいて、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動するのである。しかし、人間は、深層心理が、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動する場合と、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、行動する場合がある。前者の場合が、無意識による行動である。人間の生活が、ルーティンと言われる、決まり切った無意識の行動の生活になるのは、表層心理で考えることもなく、安定しているからである。だから、ニーチェの言う「永劫回帰」(同じことを永遠に繰り返す)という思想が、人間の日常生活にも当てはまるのである。次に。後者の場合、すなわち、表層心理で行動の指令について審議した後で行動する場合であるが、この時の表層心理での審議は広義の理性の思考と言われている。広義の理性の思考の結果が意志(による行動)である。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考するのである。これが広義の理性である。現実原則も、フロイトの用語で、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。これが狭義の理性である。この時、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。また、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令を意志を使って抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、所謂、感情的な行動であり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多いのである。さて、自我とは何か。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。具体的には、構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。人間は、常に、社会生活を営まないと生きていけないから、常に、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持して暮らしているのである。デカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言いながら、我の定義を明確にしなかったが、人間が、自分の存在を意識するのは、普遍的な自分としてでは無く、個別的な自我なのである。つまり、日本という構造体では国民という自我があり、家族という構造体では父という自我であり、学校という構造体では生徒という自我であり、会社という構造体で課長という自我であり、コンビニという構造体では客という自我であり、電車という構造体で客という自我であり、仲間という構造体では友人という自我であり、カップルという構造体では恋人という自我である。つまり、人間が自分の存在を意識する時は、漠然とした自分、普遍的な自分を意識するのでは無く、常に、構造体の中で、個別の明瞭な自我を意識するのである。さて、それでは、自我を主体に立てるとはどういうことか。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。しかし、人間は、表層心理で、自我が主体的に自らの行動を思考するということはできない。それには、二つの理由がある。一つは、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。もう一つは、人間が、表層心理で、意識して。思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについてのことだけだからである。人間は、表層心理独自で、思考することはできないのである。次に、快感原則とは、何か。快感原則とは、スイスが活躍した心理学者のフロイトの定義であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。次に、欲動とは何か。欲動とは、深層心理の心理を動かすものであり、四つの欲望から成り立っている。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、自我の欲望を生み出しているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。この四つの欲望の中で、人間が自らの存在を最も意識するのは、自我の対他化の作用での時である。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我と他者の共感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望、もしくは、感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出し、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。いずれも、自我を存続・発展せたいという第一の欲望、自我の保身化から来ているのである。次に、欲動の第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望、自我の対他化の作用であるが、それは、深層心理が、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、言い換えると、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。受験生が勉強するのは、所謂名門大学に合格し、教師や同級生や親から褒められ、世間から賞賛を浴びたいからである。自我の対他化については、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉にその意味が集約されている。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。人間が苦悩に陥る主原因が、深層心理の自我の対他化の欲望がかなわなかったことである。次に、欲動の第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望、対象の対自化の作用であるが、それは、哲学用語で言えば、有の無化作用である。深層心理が、他者や物や現象という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。深層心理が、自我を主体に立てて、他者という対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で支配すること、物という対象を自我の志向性や趣向性で利用すること、現象という対象を自我の志向性や趣向性で捉えることなのである。すなわち、他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用することである。現象の対自化とは、自分の志向性でや趣向性で、現象を捉え、理解し、支配下に置くことである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、現象という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で捉えている。国会議員は総理大臣になってこの国を支配したいのである。教諭は校長になって学校を支配したいのである。社員は社長になって会社を支配したいのである。人間は樹木やレンガを建築材料として利用するのである。科学者は自然を対象として捉え、支配しようとするのである。また、人間は、自分の志向性や自分の趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。それが、「人は自己の心象を存在化させる」、哲学用語で言えば、無の有化という作用である。人間はは、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったから、神を創造したのである。さて、志向性や趣向性は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。しかし、志向性と趣向性(好み)は厳密には区別できないのである。それでも差異があるとすれば、志向性は冷静に捉え、趣向性は感情的に捉えていることである。右翼・保守系の大衆は、愛国心を金科玉条にして、安倍首相を趣向性で捉えている、すなわち、好みで捉えているから、安倍首相が悪行をどれだけ悪行を重ねても、安倍政権を支持するのである。また、自我による対象の対自化は、挫折しても、深層心理が、自らを精神疾患をするまでに苦悩しないのである。なぜならば、挫折しても、深層心理は、無の有化作用、すなわち、「人は自己の心象を存在化させる」ことによって、空想、妄想を生み出し、乗り越えていくからである。自我による対象の対自化にこそ、人間の生きる希望が見出されるのである。自我の対他化は自我が他者の視点によって見られることならば、対象の対自化は自分の志向性や趣向性で他者・物・事柄を見ることだから、自我主体だからである。また、深層心理は、欲動の第三の欲望として、自我で他者を支配するために、他者がどのような思いで何をしようとしているのかその欲望を探ろうとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これを徹底した思想が、ドイツの哲学者のニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、他者という対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。だから、フランスの哲学者のサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。見られることより見ることの方が大切なのだ。」と言い、死ぬまで戦うことを有言実行したが、一般の人の中では、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。また、大衆は、他者という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えることが多い。だから、大衆の行動は、常に、感情的なのである。次に、欲動の第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、自我の他者の共感化という作用であるが、それは、深層心理が、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化とは、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持つが、相手が別れを告げ、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、深層心理の敏感な人ほど、ストーカーになって、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするのである。それは、カップルや夫婦という構造体が壊れ、恋人や夫・妻という自我を失うことの苦悩から起こすのである。ドイツの詩人ヘルダーリンは、愛するゼゼッテが亡くなったので、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにしたのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。安倍晋三首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆の支持を集めているのである。人間関係がすぐに成り立つのは、愛情・友情・信頼の連帯よるものではなく、「呉越同舟」の関係だからである。
最後に、気分についてであるが、気分は、感情と同じく、心の状態を表す。深層心理は、常に、ある気分や感情の下にある。つまり、深層心理は、まっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、気分や感情にも動かされているのである。気分は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の気分や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の気分や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。さらに、人間は自分を意識する時は、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は気分や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある気分やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、気分や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する気分や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、気分は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化する。感情は、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時、同時に、必ず、自分の心を覆っている気分や感情にも気付くのである。どのような状態にあろうと、気分や感情は掛け替えのない自分なのである。つまり、気分や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。ハイデッガーも、「人間の心は、常に、何らかの情態性にある。」と言う。情態性とは耳慣れない言葉であるが、気持ち・心理状態の意味である。ハイデッガーが敢えてそれを情態性という言葉にしたのは、それが人間の存在のあり方に深く関わっているからである。情態性は、一時的な気持ちの高ぶりである感情と継続した心理状態である気分から成り立っている。しかし、人間は感情の発生も気分の継続・変化も、表層心理で、自ら意識して、自らの意志で、行っているわけではない。人間の深層心理が感情・気分という情態性を統括している。深層心理とは、人間が意識せず、意志できない心の働き(思考)である。表層心理とは、人間の、意識して、意志で行う思考である。だから、人間は、意識や意志という表層心理では、情態性を動かすことはできないのである。人間が、意識や意志という表層心理でできることは、感情の高まりや自我の欲望を幾分抑えるだけである。これが、フロイトの言う超自我という作用である。超自我は万能では無く、感情の大きな高まりや自我の強い欲望に会うと、それらを抑圧しきれないのである。さて、人間の心は、基本的には、継続したある気分の状態にあるが、変化することがある。それには、二つの原因がある。一つの原因は、深層心理が、あまりに長く同じ気分でいることに嫌悪感を抱くからである。すなわち、深層心理は、あまりに長く同じ気分でいると、その気分に嫌悪感を抱き、自ら、その気分を変化させようとするのである。飽きるという状態が、この、あまりに長く同じ気分でいることに嫌悪感を抱いた状態である。つまり、深層心理は、あまりに長く同じ気分でいることに飽きたから、別の気分になろうとして、ある行動をしようと欲望を起こすことがあるのである。もう一つの原因は、感情の高まりである。すなわち、人間は、心に、感情の高まりが起こると、それを起点にして、そこから気分の変化の助走が始まるのである。そして、暫くすると、気分が明確に変化し、そこから、それが継続した気分になるのである。しかし、情態性は、常に、人間が何らかの感情や抱いていたり何らかの気分の状態にいたりすることを意味していることにとどまらない。人間は、常に、自分が何らかの感情や何らかの気分の情態性にあるから、自分の存在を認識できるのである。特に、人間は、苦悩という情態性にある時、もっとも、自分の存在を感じるのである。なぜならば、苦悩から逃れようとしても、容易には逃れられない自分の存在を実感させられるからである。デカルトは、「我思う、故に、我あり。」という論理で、自分の存在を確証したが、そのような論理を駆使しなくても、人間は、自らの情態性によって、常に、自分の存在を感じ取っているのである。