あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間に、何ができるのか。そして、自分に、何ができるのか。(自我その371)

2020-06-20 14:40:55 | 思想
人間に、何ができるのか。人間は、ただ、単に、欲望に操られているだけの存在ではないのか。人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に操られて生きているだけではないのか。そして、その人間の一人として、自分に、何ができるのか。それに答えるには、人間の深層心理と表層心理のあり方、そして、自分自身の深層心理と表層心理の特徴を理解する必要がある。人間には、深層心理の思考と表層心理での思考という二種類の思考が存在する。深層心理の思考とは無意識の思考であり、表層心理での思考とは意識しながらの思考である。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考に気付いていない。深層心理の思考に対しては、無意識の行動というような、例外的な活動にしか認めていないのである。思考の中心は表層心理でのものだと思っているのであるのである。そして、自ら、主体的に、意識して、考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思っているのである。それは、主体的に生きていたいと思っているからである。これを、深層心理の無の有化作用という。無の有化作用とは、実際に存在しないものやことが、深層心理の欲望が強過ぎると、存在しているように思い込むことである。そこに、大きな誤りが生じているのである。人間は、自らの欲望にとらわれ、自らを正確に見ず、自らの思考や行動に対して、過小な評価や過大な評価をして、いたずらに絶望したり、過ちを犯したりするのである。さて、人間は、自ら思考する前に、既に、思考している。人間は、自ら意識して思考する前に、既に、無意識のうちに思考しているのである。すなわち、人間は、表層心理で思考する前に、既に、深層心理で思考しているのである。しかし、無意識のうちに思考を始めても、すなわち、深層心理が思考を始めても、その思考の途中に、意識することがあれば、意識しての思考、すなわち、表層心理での思考だと思い込んでしまうのである。しかも、表層心理での思考は、常に、深層心理の結果を受けて始まるのであり、表層心理独自で思考することは無いのである。つまり、人間の意識しての思考は、無意識の思考を受けて始まるのである。しかも、人間は、自ら意識して思考して行動する前に、すなわち、表層心理で思考して行動する前に、既に、無意識のうちに思考して、すなわち、深層心理が思考して行動していることが多いのである。この深層心理の思考の行動が、所謂、無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンと言われ、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。表層心理で思考していないから、考え込むこと無く、行動がスムーズに行われるのである。しかし、人間は、無意識のうちに行動を始めても、その行動の途中に、意識すると、最初から意識して行動していたように思い込むのである。そして、人間は、自ら、主体的に、意識して、考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思い込んでいるのである。しかし、人間は、常に、まず、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心理の下で、欲動によって、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。つまり、深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望にとらわれて生きている。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。欲動によって、快感原則を満たそうとして、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望にとらわれて生きるのである。自我の欲望が、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が生み出しているから、やはり、その自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。しかし、自我の欲望は、自らが表層心理で意識して思考して生み出していず、深層心理が人間の無意識のうちに快感原則に満たそうと思考して生み出しているから、自我の欲望には、恥知らずな欲望も存在するのである。しかし、ほとんど人は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思っている。そして、もしも、自分が、主体的に行動できないとすれば、それは、他者からの妨害や束縛があるからだと思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れる。自由であれば、自分は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。しかし、それは大きな誤解である。人間は主体的ではないのである。人間は、自由であっても、主体的になれないのである。なぜならば、人間は、常に、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きているからである。自我の欲望に動かされて生きている人間に対して、は主体的に思考し、主体的に生きているとは言えないのである。人間は、主体的に思考して自我の欲望を生み出しているのではなく、深層心理が思考して、自我の欲望を生み出しているから、誰しも、他者に、自らの欲望を全てを話すことができないのである。それには、二つの理由がある。一つの理由は、無意識の思考という深層心理が自我の欲望を生み出すから、人間は、表層心理で、その自我の欲望を意識しないこともあるのである。むしろ、人間は表層心理で意識することなく、深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが、所謂、無意識の行動である。人間は、自らは気付いていないが、行動の多くが無意識の行動もしくは無意識で始まっている行動である。もう一つの理由は、深層心理が生み出す自我の欲望の中には、必ず、恥知らずな欲望が存在するからである。中には、恥知らずな欲望にまみれている人も存在する。深層心理は、快感原則を満たそうとして、自我の欲望を生み出すから、恥知らずな欲望が存在するのである。快感原則とは、ひたすら快楽を求める欲望であり、そこには、道徳観や社会規約は存在しないから、当然のごとく、深層心理は、自我の欲望として、恥知らずな欲望を生み出すこともあるのである。さて、人間は、常に、まず、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心理の下で、欲動によって、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのであるから、人間にとって、最も大切なものは自我である。言うまでもなく、自我の欲望は、常に、自我と深く関わっている。自我の欲望には、自我に関わりの無い、突拍子のない、野放図なものは存在しないい。それでは、自我とは何か。それは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、いついかなる時でも、ある自我を有して、ある構造体に所属し、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて生きているのである。次に、自我を主体に立てるとは何か。それは、深層心理が自我を中心に据えて、自我の行動について考えるということである。深層心理は、欲動によって、自我に対して快感原則を満たそうとして、すなわち、自我に快楽をもたらそうとして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。だから、人間は、自我が主体的に自らの行動を思考していないのである。そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。また、人間の主体的な思考、すなわち、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考の結果を受けて始まるから、人間は、本質的に、主体的に思考できないのである。次に、快感原則とは何か。それは、スイスで活躍した心理学者のフロイトの用語であり、ひたすら、その時その場で、自我に快楽をもたらし、自我から不快を避けようという欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを、目的・目標としているのである。キリスト教で、悪事を犯したことや悪なる欲望を抱いたことがある者が、神の代理とされる司祭に、それ告白し、許しと償いの指定を求める懺悔という儀式がある。しかし、悪なる欲望を抱いただけで罪人であるなら、人間全員が懺悔しなければならなくなる。当然のごとく、司祭自身も、懺悔しなければならないことになる。なぜならば、深層心理は、快感原則を満たそうとして自我の欲望を生み出すので、全ての人間の自我の欲望には、必ず、悪なる欲望が存在するからである。次に、気分とは何か。それは、感情と同じく、心の状態を表す。気分は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の気分や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の気分や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。さらに、人間は自分を意識する時は、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は気分や感情を意識しようと思って意識するのでは無く、ある気分やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、否応なく、気分や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する気分や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり」(私は全ての存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは自分が存在しているからである。だから、自分は確かに存在しているのである。)という論理で、自分の存在を確証したが、そのような回りくどい論理を使用せずとも、人間は自分の気分や感情で自分がこの世に存在していることを感じ取っているのである。そして、気分は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化する。感情は、深層心理が、思考して、自我の欲望を生み出した時、行動の指令ととともに誕生する。だから、人間は、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。人間は、表層心理では、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時も、同時に、必ず、自分の心を覆っている気分や感情にも気付くのである。どのような状態にあろうと、気分や感情は掛け替えのない自分の存在を表しているのである。つまり、気分や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、深層心理は、まっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではないのである。深層心理は、常に、ある気分の下にあり、ある行動の指令とともにある感情という自我の欲望を生み出しているのである。次に、欲動とは何か。それはは、感情を生み出し人間を行動へと駆り立てる、すなわち、深層心理に感情と行動という自我の欲望生み出させる内在的な欲望の集団である。欲動は深層心理に存在しているから、内在的な欲望と言うのである。欲動という欲望の集団が、深層心理を内部から突き動かしているのである。だから、欲動を欲望と同列に扱って構わないのである。フロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギーを挙げている。ユングは、リピドーとして、生命そのもののエネルギーを挙げている。しかし、フロイトが挙げているリピドーは狭小であり、ユングが挙げているリピドーは漠然としていて、曖昧である。両者とも、人間の全ての行動と感情の理由と意味を説明できないのである。実際には、欲動は、四つの欲望によって成り立っているのである。それは、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。第三の欲望として、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言うが、深層心理は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子も、仲間という構造体から追放されたくなく友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。次に、欲動の第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用があるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、傷心という感情とと不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。悪評価・低評価が傷心という感情の理由である。不登校・不出勤は、これ以上傷心せず、自宅で心を癒やそうという意味である。その後、人間は、表層心理で、理性で、現実原則に基づいて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について意識して思考し、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのである。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望を満たそうという理由からである。だが、深層心理が生み出した傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。そして、人間は、表層心理で、すなわち、理性で、不登校・不出勤を指令する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、加害者である同級生・教師や同僚や上司という他者を数年後襲撃したり、自殺したりするのである。つまり、同級生・教師や同僚や上司という他者の悪評価・低評価が苦悩の理由であり、襲撃や自殺は苦悩から脱出するという意味である。また、受験生が有名大学を目指すこと、少女がアイドルを目指すことの理由・意味も、自我が他者に認められたいという欲望を満足させることである。男性が身だしなみを整えるのも、女性が化粧をするのも、自我が他者に認められたいという欲望を満足させるために行っているのである。次に、欲動の第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用があるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。哲学的に言えば、対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)ことである。さらに、対象の対自化は、哲学的に言えば、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象化を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ことまで、深層心理は行う。これは、人間特有のものである。 人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこと、いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めること、いずれもこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとすることがその理由・意味である。さて、自我の志向性や趣向性は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。志向性と趣向性は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は観点・視点で冷静に捉え、趣向性は好みで感性として捉えていることである。さて、自我の対他化は自我が他者によって見られることならば、対象の対自化は自我の志向性や趣向性で他者・物・現象を見ることなのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。さて、人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。それは、家族という構造体で、男児という自我を持った者は、深層心理が、母親という他者に対して、男性という好評価・高評価を受けて快楽を得ようとして、近親相姦的な愛情というエディプスの欲望を抱き、敵対者として、父親を憎むようになるが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、表層心理で、抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理がエディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)という自我の欲望を生み出したのである。しかし、家族という構造体から追放される虞があるので、男児は、深層心理で、エディプスを抱いたのは一人の男性という自我を母親という他者から認めて欲しいという理由から起こしたのであるが、表層心理で、エディプスの欲望を抑圧した意味は、そうするすることによって、家族という構造体の中での男児の自我を守ることである。次に、欲動の第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用があるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。さて、人間の行動は、深層心理が欲動に基づいて快感原則を満たそうとして生み出し、指令しているから、全ての行動には理由と意味がある。しかし、人間は、常に、全ての行動の理由と意味を意識して行動しているわけではない。無意識の行動が存在するのである。なぜならば、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて快感原則を満たそうとして思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それが起点となって、人間は行動するからである。確かに、人間は、表層心理で、意識して行動することがある。また、人間は、表層心理で、意識して思考した後で行動することがある。しかし、それらは、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、それを受けて行われるのである。人間の表層心理での思考は、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて快感原則を満たそうとして思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、それを受けて行われるのである。深層心理が自我の欲望を生み出す前に、表層心理で、思考して、行動することは無いのである。しかしながら、人間は、全ての行動は、自ら表層心理で意識して、思考して、行っていると思い込んでいるから、行動している途中や行動した後で、時として、理痛や意味を理解せずに行動していることに気付き、驚くのである。また、人間の全ての感情にも理由と意味がある。それは、行動の指令と同様に、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて快感原則を満たそうとして思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すからである。しかし、行動と異なり、人間は、常に、自分の感情を意識している。しかし、人間は感情を意識しようと思って意識しているのでは無く、感情が人間を覆ってくるから、人間は自分の感情を意識せざるを得ないのである。しかし、感情の存在が、すなわち、自分が意識する感情が常に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。また、確かに、人間は、常に、自分の感情を意識するが、しかし、その理由と意味を全て理解しているわけではない。後にそれが理解されることもあり、後々までわからないこともある。なぜならば、これも、また、全ての感情は、全ての行動の指令と同様に、人間の無意識のうちに、深層心理が欲動に基づいて快感原則を満たそうとして思考して生みだしているからである。人間は、意識して、すなわち、表層心理で、思考して、決して、行動の指令と同様に、感情も生み出すことはできないのである。さて、なぜ、全ての行動と感情に理由と意味があるのか。それは、深層心理が、過去と現在を理由で繋ぎ、将来と現在を意味で繋いでいるからである。深層心理が、欲動に基づいて快感原則を満たそうとして思考して、過去の出来事によって現在の感情と行動の指令を生み出し、将来の目的によって現在の感情と行動の指令を生み出しているから、全ての行動と感情に理由と意味があるのである。つまり、深層心理が、欲動に基づいて思考して、過去の出来事、現在の感情と行動の指令、将来の目的を繋げているから、全ての行動と感情に理由と意味があるのである。この、深層心理による、過去、現在、将来という一連の創造を、ハイデッガーは、時熟と表現している。だから、時熟とは、客観的な時間系列ではなく、深層心理による創造の時間系列なのである。客観的な時間系列は、人間にとって、社会的な行動には有用であるが、個人的には、時熟が、身に迫ってくるのである。さて、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある気分の下で、構造体の中で、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我という道徳観や社会規約を守るという欲望の良心がそれを抑圧できないのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。犯罪の多くはこの時に起こるのである。だから、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きていると言えるのである。それでは、人間に、何ができるのか。人間は、ただ、単に、深層心理が生み出す自我の欲望に操られて人生を終わらせるのか。それが、一人一人の人間に問いかけられているのである。自分に、何ができるのか。それに答えるには、自分自身の深層心理の特徴を理解する必要がある。深層心理は瞬間的に思考するから、思考の傾向は一定のはずである。だから、深層心理の思考のままの行動、すなわち、無意識の行動である、日常生活がルーティーンの繰り返しになるのである。もちろん、人間は、表層心理では、すなわち、意識しての思考そしてその結果である意志によって、深層心理を動かすことはできない。つまり、表層心理で深層心理を直接に動かすことはできない。しかし、表層心理による繰り返しの行動が深層心理を動かすのである。たとえば、悲観的に考えがちの人が存在する。悲観的な思考は深層心理の傾向である。もしも、自分の思考の傾向が悲観的であることに悩んでいたならば、無理に、楽観的に考えることである。表層心理で、すなわち、意識して意志で、楽観的に考えることである。それを繰り返し、それがルーティーンになれば、深層心理も楽観的に考えるようになるのである。もちろん、それは、一朝一夕では変化しない。何年も掛かることも珍しくない。しかし、繰り返し、ルーティーンになれば、必ず、深層心理が変化するのである。スポーツもそうである。私は、サッカーを長年やっている。サッカーには、地上のボールの蹴り方として、インステップ、インフロント、インサイド、アウトサイド、アウトフロントがある。誰しも、初心者の時には、これらの蹴り方を正確にできない。なぜならば、深層心理に、正しい蹴り方が存在しないからである。しかし、経験者に習い、表層心理で、意識して、正しい蹴り方をするように繰り返し練習しているうちに、深層心理に、正しい蹴り方が身に付くようになるのである。そして、意識しなくても、自然と、正しい蹴り方をするようになるのである。つまり、深層心理を変えるのは、表層心理で、長期間を掛けて、繰り返し行い、ルーティーンにするしか無いのである。しかし、自ら、表層心理で思考して行動しながら暮らしている、すなわち、主体的に、意識して、考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思っている限り、深層心理の生み出す自我の欲望に操られて生きるしかないのである。そして、自らの表層心理での思考や行動に対して、過小な評価や過大な評価をして、いたずらに絶望したり、過ちを犯したりするのである。