あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

切れやすいのは、深層心理が敏感であるために、心が弱く、傷付きやすいからである。(自我その374)

2020-06-26 13:40:40 | 思想
人間は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それによって行動するのである。だから、人間は、絶対的な自由観や主体性観から、自らを解放させなければならないのである。人間は、他者が行動を束縛していなくても、他者に思考を束縛されていなくても、絶対的に自由になることも絶対的な主体性を抱くこともできないのである。なぜならば、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持たなければ生きていけないからである。また、人間は、自ら意識して思考すること、すなわち、理性を過信してはならない。なぜならば、人間は、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動しているからである。人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。人間の無意識の思考を、深層心理の思考と言う。深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と表層心理で考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。無意識の行動は、一般に思われているような稀な行動ではない。日常生活がルーティーンと言われるように同じような行動を繰り返すのは、無意識の行動だからできるのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動しようとするのである。これが、理性の思考による行動、すなわち、意志の行動である。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。心に安らぎは訪れない状態が苦悩である。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。犯罪の多くはこの時に起こるのである。だから、人間の思考の主体は、意識しての思考、すなわち、表層心理での思考では無く、無意識の思考、すなわち深層心理の思考なのである。さて、人間は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それによって行動するのであるが、自我とは、何であるか。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、一人暮らしをしていても、ホームレス生活をしていても、常に、構造体に所属し、自我を有し、常に、他者との関わりながら暮らしている。人間は、常に、何らかの構造体に所属し、他者から何らかの自我を与えられているので、それに則って行動するしか無いのである。他者から構造に所属することを許され、他者から自我を与えられているということは、他者の期待を背負っているということなのである。ある人が、どれだけ、自由を主張しても、主体性を誇示しても、いついかなる時でも、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を有しているので、構造体と自我に制限されているから、絶対的な自由そして絶対的な主体性は存在しないのである。選択肢が狭められている自由、選択肢が既に与えられている主体性なのである。それを、自由、主体性と呼ぶことはできない。逆に、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を有しているから、構造体と他者に束縛されているように感じ、自由と主体性に憧れるのである。しかし、もしも、全く、構造体に所属せず、自我を有していない時間があったならば、人間は、何をしてか良いかわからず、途方に暮れるだろう。人間は、常に、構造体に所属し、他者との関わりの中で、役目を果たす存在として自我を担わされているが、深層心理が生み出す自我の欲望はそれにとどまっていない。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者の期待に応えようとしつつ、時には、それ以上のこと、それ以外のことを求めて、自我の欲望として生み出しているのである。心理学者のラカンに、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉があるが、それは、深層心理が他者の期待に応えようと自我の欲望を生み出していることを意味しているのである。ラカンの言葉に倣えば、「人は自我の欲望を対象に投影する」という言葉が、深層心理が他者の期待以上のことや他者の期待以外のことを求めて自我の欲望を生み出しているという意味になるだろう。対象の範疇には、他者、物、現象が入っている。人間は、常に、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を有して、他者の欲望を欲望し、もしくは、自我の欲望を対象に投影しながら、生きているのである。次に、自我を主体に立てるとは、何か。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我の行動について考えるということである。深層心理は、欲動によって、自我に対して快感原則を満たそうとして、すなわち、自我に快楽をもたらそうとして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。だから、人間は、自我が主体的に自らの行動を思考していないのである。そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。また、人間の主体的な思考、すなわち、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考の結果を受けて始まるから、人間は、本質的に、主体的に思考できないのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考に気付いていない。深層心理の思考に対しては、無意識の行動というような、稀な行動だと思っているのである。思考の中心は表層心理にあるから、そのように誤解しているのである。そして、自ら、主体的に、意識して、考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思っているのである。それは、主体的に生きていたいと思っているからである。これを、深層心理の無の有化作用という。無の有化作用とは、実際に存在しないものやことが、深層心理の存在への欲望が強いと、存在しているように思い込むことである。そこに、大きな誤りが生じているのである。次に、欲動とは何か。欲動は、深層心理に住みつき、深層心理に感情と行動という自我の欲望生み出させる欲望の集団である。欲動は深層心理に住みついているから内在的な欲望と表現し、深層心理が生み出した自我の欲望を外在的な欲望と表現することがある。欲動は、四つの欲望によって成り立っている。第一の欲望が、自我を存続・発展させたいという欲望である。自我の保身化という作用をする。第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。自我の対他化の作用をする。第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。対象の対自化の作用をする。第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。自我の他者の共感化という作用をする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望が満たされている、すなわち、自我の保身化の作用が上手く行っているのである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言う。しかし、深層心理は瞬間的思考するのだから、良心がそこで働いていると考えられない。ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。これも、また、深層心理による無の有化作用である。自殺した子は、仲間という構造体から追放されたくなく友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。人間は、自我に執着するあまり、かくも愚かなことを行うのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用であるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なると、不登校・不出勤になることがある。これは、深層心理は、これ以上傷心せず、自宅で心を癒やそうとして、不登校・不出勤の行動の指令を生み出したのである。そして、人間は、表層心理で、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について意識して思考し、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのであるが、傷心の感情が強いので、登校・出勤できないのである。また、受験生が有名大学を目指すこと、少女がアイドルを目指すことの理由・意味も、自我が他者に認められたいという欲望を満足させることである。男性が身だしなみを整えるのも、女性が化粧をする、痩せるのも、自我が他者に認められたいという欲望を満足させるために行っているのである。有名大学を目指すこと、アイドルを目指すこと、身だしなみを整えること、化粧をすること、痩せることいずれも、他者から見るとたわい無いことであるが、自我が他者に認められたいという欲望にとらわれている人間には、非常に重要なことなのである。失敗すると、鬱病になったり、最悪の場合、自殺を図る人も存在するのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対自化化の作用であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。哲学的に言えば、対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)ことである。さらに、深層心理は、対象の対自化が高じて、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象化を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ことまで行う。これは、人間特有のものである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこともこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとしているのである。人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自己正当化できなければ生きていけないのである。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その目的である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば満足感が得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。とどのつまり、人間とは、自分中心、自我中心の動物なのである。それは、幼い頃に、既に、現れているのである。人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。それは、家族という構造体で、男児という自我を持った者は、深層心理が、母親という他者に対して、男性という好評価・高評価を受けて快楽を得ようとして、近親相姦的な愛情というエディプスの欲望を抱き、敵対者として、父親を憎むようになるが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、表層心理で、抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理がエディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)という自我の欲望を生み出したのである。しかし、家族という構造体から追放される虞があるので、男児は、深層心理で、エディプスを抱いたのは一人の男性という自我を母親という他者から認めて欲しいという理由から起こしたのであるが、表層心理で、エディプスの欲望を抑圧した意味は、そうするすることによって、家族という構造体の中での男児の自我を守るためである。次に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用であるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。さて、人間は、誰しも、心が深く傷付き、怒りの感情が高まると、切れ、いきなり、激しく相手に毒づいたり、相手に殴り掛かったりすることがある。切れやすい人は、繰り返し、そのような乱暴を働く。多くの人は、乱暴を働く人は心が強い人だと誤解している。そうではなく、乱暴な人は、すなわち、切れやすい人は、心が弱く、深層心理が敏感なために、自我が傷付きやすく、傷付いた自我の心を早く回復させるために、深層心理が乱暴を働ように指令を出し、本人が、それに従ったのである。しかし、切れやすい性格は、先天的なものであり、本人の意志ではどうすることもできないのである。一生変わることはないのである。なぜならば、性格は深層心理の範疇にあり、人間は表層心理の意志ではどうすることもできないからである。だから、人間は、自らの意志で性格を変えることができないのである。もしも、性格が変わったように見える人がいたならば、その人は、生活環境が変わったために深層心理が敏感に反応することが少なくなったからか。感情が高まっても切れる前に行動をして切れる行動をすることを回避しているか、人間の精神活動の仕組みを知り深層心理の生み出す行動の指令のままに行動しなくなったからである。さて、広辞苑では、「切れる」の意味を、「我慢が限界に達して、理性的な対応ができなくなる。」と説明している。それでは、何を「我慢」することが「限界に達し」たのか。それは、激しく相手に毒づいたり、相手に殴り掛かったりすることである。それでは、その人の何が、相手に激しく毒づいたり、相手に殴り掛かったりすることを考え出したのか。それは、深層心理である。深層心理とは、一般に、無意識と呼ばれている。深層心理とは、人間の心の奥底に存在し、自らは意識していない心の思考である。その人の深層心理が、相手に激しく毒づいたり、相手に殴り掛かったりすることを考え出したのである。それでは、何が、「我慢の限界に達し」たのか。それは、表層心理である。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間が表層心理で意識して思考した結果が、一般に、意志と呼ばれるものである。つまり、その人の表層心理の意志が、相手に激しく毒づいたり、相手に殴り掛かったりするという行動を抑圧できなかったのである。それでは、何が、相手に激しく毒づいたり、相手に殴り掛かったりするという行動を抑圧しようという表層心理の意志を抑圧したのか。それは、深い傷心と強い怒りの感情である。それでは、何が、深い傷心と強い怒りの感情を生み出したのか。それも、深層心理である。つまり、深層心理が生み出した深い傷心・強い怒りの感情によって、表層心理の意志が、相手に激しく毒づいたり、相手に殴り掛かったりするという行動を抑圧できなかったのである。それでは、その人の深層心理が、相手に激しく毒づいたり、相手に殴り掛かったりするという行動をその人に取らせることによって何を獲得しようと考えたのか。それは、相手の同位に立つこと、もしくは、相手の上位に立つことである。深層心理には、常に、他者の同位に立ちたい、もしくは、他者の上位に立ちたいという欲望が存在するからである。それでは、なぜ、深層心理が、深い傷心の感情と怒りの感情を生み出したのか。それは、相手から侮辱や暴力などを受け、自我が悪評価・低評価を受けたからである。人間の深層心理の欲動には、他者に認められたいという欲望があり、それが傷つけられたからである。それでは、なぜ、相手から、悪評価・低評価を受けると、深層心理が、傷心・怒りの感情を生み出すのか。それは、深層心理には、常に、他者から好評価・高評価を受けたいという欲望が存在するからである。それは、相手の同位に立ちたい、もしくは、相手の上位に立ちたいという欲望と同じものである。すなわち、深層心理の欲動の中の他者に認められたいという欲望が傷つけられたからである。さて、先に述べたように、深層心理が敏感であることは、意志によって変えることができないから、人間関係や生活環境が変えて、深層心理が敏感に反応することが少なくするか、深層心理が敏感に反応して感情が高まっても、切れる前に回避する行動を前もって考えておくか、人間の精神活動の仕組みを知り、深層心理の生み出す行動の指令を冷静に対応するように自らを仕向けることである。

  


コメントを投稿