あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間が後悔をするのは、謙虚だからでは無く、傲慢だからである。(自我その363)

2020-06-05 14:28:04 | 思想
ほとんどの人は、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動しながら、主体的に暮らしていると思っている。だから、試験に落ちたり試合に負けたりなど、何かで失敗すると、ああすれば良かったと自らの判断力の無さを嘆き、実力を蓄えてくれば良かったと自らの努力不足を嘆き、もう少し頑張れば良かったと自らの忍耐力の無さを嘆き、後悔の山を築くのである。しかし、人間は、試験や試合の時までにできることを行い、試験や試合の場においては最善を尽くしているのである。試験や試合の場において、それだけの力しか無かったのである。その時、肉体と精神を使って、自らの意志でできる範囲のことを行った結果が、単に、不合格や敗戦という失敗という知らせだったのである。だから、いたずらに後悔しても、意味が無いのである。後悔の山を築くのは、自らの意志で肉体も精神も動かすことができるという傲慢さから来ているのである。むしろ、何かで失敗する度に、後悔では無く、反省し、表層心理で生み出した意志、意志による行動、深層肉体の意志、深層心理の意志の関係を探究し、これからの生きる糧にすべきなのである。さて、人間は、何も意志しなくても、深層肉体と深層心理は動いているのである。人間の根源は、深層心理と深層肉体にあり、人間は、自らの意志によっては、これらを動かすことはできないのである。むしろ、人間は、無意識の心理の思考である深層心理と無意識の肉体の意志である深層肉体によって生かされているのである。だから、人間は、何もしていないように見える時があるだけで、実際は、いついかなる時でも、常に、深層肉体と深層心理は活動しているのである。深層肉体は、ひたすら生きようという意志を持って、活動している。深層心理は、快楽を求め、不快を避けて生きようと意志して、活動している。だから、人間は、自ら意識して生きようと意志しなくても、生きていこうとし、自ら意識して快楽を求めようと意志しなくても、快楽を求めて生きていこうとしているのである。しかも、肉体のひたすら生きようという意志も精神の快楽を求め不快を避けて生きようという意志も、人間は、自らが意識して、生み出したものではないばかりでなく、自らが意識して消そうとしても、消すことはできないのである。それは、肉体そのもの、精神そのものに、生来、備わっている意志だからである。だから、深層肉体の意志、深層心理の意志と呼ぶのである。人間の意識しての思考、意識しての意志が、表層心理である。そして、人間が、自ら意識して意志で動かすことができる肉体が表層肉体である。もしも、深層肉体の意志、深層心理の意志を、人間が自ら意識して生み出しているならば、表層心理による意識しての意志に含まれることになる。しかし、肉体のひたすら生きようという意志も精神の快楽を求め不快を避けて生きようという意志も、全ての人間に生来備わっていて、自らの深層心理で、すなわち、自らの意識した意志によって、生み出していないのである。さて、聖書に「人はパンのみにて生くるものにあらず。」とあるが、人間は、聖書に記されているような高尚に生まれていない。パンを求めてひたすら生きようと意志しているのが深層肉体であり、パンを食べる時にもそれ以外の時にも快楽を求め不快を避けようと意志しているのが深層心理である。つまり、深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持っているのである。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら生きようとするのである。自殺は、深層肉体の意志に反した行いである。自殺とは、深層心理が、快楽を求め不快を避けて生きようという快感原則の基づいて、生み出した自我の欲望である。深層心理が、生きている間は、快楽から最も離れた苦痛という精神状態から逃れられないと思考し、自殺という自我の欲望を生み出したのである。それを受けて、人間は、表層心理で、現実的な利益を追求するという現実原則に基づいて思考したのだが、たとえ、自殺を抑圧するような結論に達したとしても、深層心理が生み出した苦痛の感情が強すぎるので、抑圧できず、自殺に突き進んでしまったのである。しかし、深層肉体は、人間が、自殺に突き進んでも、生きる意志を捨てることは無いのである。だから、どのような自殺行為も、苦痛が伴うのである。つまり、人間の肉体は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の意志によって生かされようとしているのである。人間の肉体の内部には、肺や心臓や胃があるが、誰も、自分の意志で、肺や心臓や胃の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まり、死んでしまうはずである。深呼吸という意識的な行為も存在するが、それは、意識して深く息を吸うということだけでしかなく、常時の呼吸は無意識の行為である。呼吸は、誕生とともに、既に、人間の深層肉体に備わっている機能であるから、人間は、生きていけるのである。心臓も、人間の意識しての意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできないのである。心筋梗塞という異常な事態に陥ったり、自らや他者が人為的にナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。さらに、胃も、人間の意識しての意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体の意志として、既に動いているのである。胃の仕組みや働きすら、今もって、ほんのわずか知られていない。だから、人工的な胃は存在しないのは当然のことである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しい心臓を作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできないのである。このように、人間は、ほとんどの場合、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、肉体を動かしているのではなく、深層肉体が、肉体自身が肉体を動かしているのである。それが深層肉体の意志なのである。人間が、表層心理で、意識して行う肉体の活動、すなわち、表層肉体による活動は、深呼吸する、挙手する、速く走ろうとする、体操するなど、日常生活の中でも一部の活動である。そして、人間は、表層心理で、自ら意識して、自らの意志よって、肉体そのものを創造することはできない。現に存在する肉体を模倣するしかない。肉体を創造できるのは深層肉体の細胞分裂による増殖、すなわち、肉体自身の働きでしかないのである。確かに、我々は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、体を動かすことができる。しかし、それは、先に挙げた例でもわかるように、深呼吸する、挙手する、速く走る、体操するなどの些細な動作である。しかも、表層心理による、意志的な動作も、動作の初発のほんの一部にしか関わっていない。例えば、歩くという動作がある。確かに、歩こうという意志の下で歩き出すことがある。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰も意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたら、意識しての行動、つまり、表層肉体は同じことを長く続けていられないから、途中で足がもつれ、うまく歩けなくなるだろう。万が一、目的地まで、意識して両足を差し出して歩いて行ったとしても、むしろ、必要以上に、疲れてしまうだろう。だから、最も意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという行動すら、意識して行っているのではなく、無意識に、つまり、深層肉体によって行われているのである。歩きながら考えるということも、歩くことに意識が行っていないから、可能なのである。このように、ほとんどの肉体行動は、人間は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、為されているのではなく、深層肉体が肉体を動かしているのである。つまり、人間は、深層肉体によって、生かされているのである。深層肉体の生きようとする意志は並大抵のものではない。私の知人は亡くなった翌日も、遺髪の毛も爪も伸びていた。髪の毛も爪も、つまり、深層肉体は亡くなったことを知らないのである。いや、知ろうとしていないと言ったほうが正確かもしれない。それほど、深層心理の生きようとする意志は強いのである。さて、人間は、指を少し切っただけでも、痛みを感じ、血が出る。血は、その部分を白血球で殺菌し、傷口を血小板で固め、その部分の再生を助けるために、出るのである。深層肉体は、自ら、再生能力を持っているのである。更に、深層肉体は、痛みによって、深層心理に、そこに異状があることを知らしめるのである。深層心理は、習慣的なことは、自ら、思考し、処理し、それは無意識の行動にとどまるが、異常事態の時は、人間は、深層心理が、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、表層心理が、深層心理が生み出した自我の欲望について、思考し、その結果が、行動となるのである。人間は、指を切っただけでも、痛みがあれば、異常事態だから、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令を受けて、思考し、原因を追究し、同じ過ちを繰り返さないようにし、また、治療法も考えるのである。深層肉体は、これほどまでに、肉体を、すなわち、人間の生命を長らえさせようとしているのである。さて、深層心理も、また、深層肉体と同じく、人間の無意識の活動であるが、深層心理の活動は、人間が自我を持つことによって始まるのである。深層心理が、快楽を求め不快を避けて生きようという快感原則の基づく思考の活動は、自我を主体に立てての思考なのでる。人間は、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立て、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。すなわち、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体の中で、自我として、生きるしかないのである。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動しているのである。人間は、孤独であっても、そこに、常に、他者が絡んでいる。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、暮らしているのである。人間は、深層心理は、まず、構造体の中で、ポジションを得て、他者からそれが認められ、自らも自らのポジションに満足している状態にあることを望むのである。なぜならば、その状態にあると、快楽を覚えたり、心に充足感があったり、安定感を覚えたりするからである。つまり、それが、深層心理の快感原則に合致しているのである。それが、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、アイデンティティーという英語は、自己同一化と翻訳されることが多く、これでは、自らの気持ちが優先する意味になる。アイデンティティーは、確かに、自らが自らのポジションに満足している状態だが、それは、他者から認められて、初めて、成立するのである。さて、人間は、成長するにつれて、家族、小学校、会社などというさまざまな構造体に所属し、息子・娘、小学生、会社員などというさまざまな自我を持つことになる。さて、人間は、構造体の中で、自我を持つと同時に、深層心理が、自我を主体に立て、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。快感原則とは、フロイトの用語で、その時その場でひたすら快楽を求め、不快を避けようという欲望である。深層心理が生み出した自我の欲望が、人間の行動の起点になるのである。さて、深層心理は、自我の保身化、自我の対他化、他者や物や現象という対象の対自化、自我と他者の共感化という四種類の欲望を使い、快感原則を満たそう、すなわち、その時その場でひたすら快楽を求めようとする。まず、深層心理には、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。いずれも、自我を存続・発展せたいという第一の欲望、自我の保身化から来ている。次に、深層心理には、第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。それは、深層心理が、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、言い換えると、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。受験生が勉強するのは、所謂名門大学に合格し、教師や同級生や親から褒められ、世間から賞賛を浴びたいからである。自我の対他化については、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉にその意味が集約されている。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。人間が苦悩に陥る主原因が、深層心理の自我の対他化の欲望がかなわなかったことである。つまり、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、快感原則の下で、傷心という感情とと不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。人間は、それを受けて、表層心理で、すなわち、広義の理性で、現実原則の下で、傷心という感情の中で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのだが、傷心という感情が強いので、不登校・不出勤になってしまうのである。そこで、人間は、表層心理で、すなわち、狭義の理性で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それが上手く行かずに、苦悩に陥るのである。人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにすることもあるのである。すなわち、現実逃避するのである。次に、深層心理には、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。それは、哲学用語で言えば、有の無化作用である。深層心理が、他者や物や現象という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。深層心理が、自我を主体に立てて、他者という対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で支配すること、物という対象を自我の志向性や趣向性で利用すること、現象という対象を自我の志向性や趣向性で捉えることなのである。すなわち、他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用することである。現象の対自化とは、自分の志向性でや趣向性で、現象を捉え、理解し、支配下に置くことである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、現象という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で捉えている。国会議員は総理大臣になってこの国を支配したいのである。教諭は校長になって学校を支配したいのである。社員は社長になって会社を支配したいのである。人間は樹木やレンガを建築材料として利用するのである。科学者は自然を対象として捉え、支配しようとするのである。また、人間は、自分の志向性や自分の趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。それが、「人は自己の心象を存在化させる」、哲学用語で言えば、無の有化という作用である。人間はは、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったから、神を創造したのである。さて、志向性や趣向性は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。しかし、志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は冷静に捉え、趣向性は感情的に捉えていることである。右翼・保守系の大衆は、愛国心を金科玉条にして、安倍首相を趣向性で捉えている、すなわち、好みで捉えているから、安倍首相が悪行をどれだけ悪行を重ねても、安倍政権を支持するのである。また、自我による対象の対自化は、挫折しても、深層心理が、自らを精神疾患をするまでに苦悩しないのである。なぜならば、挫折しても、深層心理は、無の有化作用、すなわち、「人は自己の心象を存在化させる」ことによって、空想、妄想を生み出し、乗り越えていくからである。むしろ、自我による対象の対自化にこそ、人間の生きる希望が見出されるのである。そして、また、自我の対他化は自我が他者の視点によって見られることならば、対象の対自化は自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者・物・事柄を見ることなのである。深層心理は、自我で他者を支配するために、他者がどのような思いで何をしようとしているのかその欲望を探ろうとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これを徹底した思想が、ドイツの哲学者のニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。だから、フランスの哲学者のサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。見られることより見ることの方が大切なのだ。」と言い、死ぬまで戦うことを有言実行したが、一般には、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。また、大衆は、他者という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えることが多い。だから、大衆の行動は、常に、感情的なのである。最後に、深層心理には、第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。それは、深層心理が、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化とは、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持つが、相手が別れを告げ、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、深層心理の敏感な人ほど、ストーカーになって、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするのである。それは、カップルや夫婦という構造体が壊れ、恋人や夫・妻という自我を失うことの苦悩から起こすのである。ドイツの詩人ヘルダーリンは、愛するゼゼッテが亡くなったので、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにしたのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。安倍晋三首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆の支持を集めているのである。このように、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令もしくは感情と行動のイメージという自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望が満たされているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。深層心理が、構造体を発展させようと自我の欲望を生み出すのは、そうすれば、自我が所属している構造体であるから自我が他者から認められたように気持ちになり、快感を覚えるからである。もちろん、現在よりも上位の構造体や上位の自我が用意されていたならば、人間の深層心理は、現在の構造体が消滅し、現在の自我を失うことにためらいも不安も覚えないのである。このように、深層心理は、構造体において、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、保身化・対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。人間は、精神活動においては、まず、無意識のうちに、深層心理が動くのである。深層心理が動いて、自我を主体に立て、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。表層心理の思考のすぐ後で、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令について、意識して思考し、行動の指令の採否を決めるのである。現実原則とは、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらそうという欲望である。また、人間は、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動することがある。これが、無意識による行動である。日常生活において、無意識による行動が非常に多い、だから、人間は、ルーティーン通りに毎日送れるのである。しかし、大切なことや異常なことが起こると、表層心理は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令の採否を決めるのである。それが、広義での、理性と言われる表層心理の思考である。人間は、広義での、理性と言われる表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令を許諾してそのまま行動するか、行動の指令を拒否してその行動を抑圧するかを決定するのである。人間が、表層心理で、深層心理の出した行動の指令を拒否し、その行動を抑圧するように決定したのは、そのように行動したら、後に、自我に不利益なことが生ずる虞があるからである。しかし、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を拒否し、抑圧することに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになることもあるのである。そして、表層心理は、意志で、抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出そうとするのである。それが、狭義での、理性による思考である。なぜ、狭義での、理性の思考が必要か。それは、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。このように、人間は、何もしていないように見えるでも、常に、深層肉体と深層心理は動いているのである。そして、人間の表層心理での思考、すなわち、意識しての思考によって生み出された意志はこの深層肉体に対しては全く力が及ばず、深層心理に対しては限界があるのである。だから、試験に落ちたり試合に負けたりなど、何かで失敗しても、それまでも、その時も、自らの意志でできる範囲のことを行っているのである。だから、何かで失敗しても、自分の無力を嘆くのではなく、反省し、自分の表層心理で生み出す意志、意志による行動、深層肉体の意志、深層心理の意志の関係を探究し、これからの生きる糧にすべきなのである。人生とは、この繰り返しである。これが、ニーチェの言う「永劫回帰」である。