あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理の敏感な人へ。(自我その283)

2019-12-22 19:54:18 | 思想
人間は、常に、深層心理の作用によって、自我を対他化して暮らしている。深層心理とは、人間は自らは意識していないが、心の中で起こる思考作用である。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。自我の対他化とは、人間は、他者に面したり、他者がそばにいたりすると、他者から好評価・高評価を得たいと思いながら、自我に対する他者の思いを探ることである。つまり、人間は、他者に面したり、他者がそばにいたりすると、人間の無意識のうちに、深層心理が、他者から好評価・高評価を得たいと思いながら、自我に対する他者の思いを探るのである。だから、人間は、皆、自分に対する他者の言葉や態度が気になるのである。人間、誰しも、自我に対する他者の言葉や態度が気にしようと思って、気にするのでは無く、深層心理が、気にするから、気になるのである。だから、人間は、他者に面したり、他者がそばにいたりすると、他者の言葉や態度が気にするが、それは、第一に、その人が自我をどのように見ているかという志向性(観点・視点)からである。だから、人間は、皆、他者が自我をどのように見ているか気になるから、その人のの言葉や態度が気にするのである。すなわち、人間は、自我の評価を気に掛けて、他者の言葉や態度が見ているのである。換言すれば、人間は、他者を見ることによって、自我を観取しているのである。だから、他者に面したり、他者がそばにいたりしても、全く、自我に対する他者の言葉や態度が気にならない人は、人間ではない。自我に対する他者の言葉や態度が気にならない人は、傍若無人に振る舞い、他者から反感を買われるだけでなく、社会的に処罰される可能性が高い。また、人間とは、自分で自分自身を知ることができず、自我に対する他者の言葉や態度によって、自分自身を察知しているので、自分に対する他者の言葉や態度が全く気にならなくなれば、自分がわからなくなってしまい、社会生活が営めなくなる。だから、人間は、皆、自分に対する他者の言葉や態度が気にして生きているのである。しかし、人間は、自分に対する他者の言葉や態度が気になる度合いは同じではない。気になる程度が大きい人と気になる程度が小さい人が存在する。苦悩という面では、気になる程度が小さい人の方が良い。しかし、気になる程度が大きい・小さいは、生来、深層心理に備わったものであるから、人間の意識や意志では、どうしようも無い。気になる程度が大きい人は、深層心理が敏感な人であり、一般に、人の目を気にする性格をしていると言われる。もちろん、深層心理が敏感な人は、感情の起伏が大きく、心が傷付きやすい。心が傷付いても、すぐに、心が回復する人と、いつまでも、心の傷が残っている人がいる。しかし、それも、深層心理の傾向であるから、人間は、自ら意識して、自らの意志で変えることはできない。深層心理が鈍感な人は、感情の起伏が小さく、心が傷付きにくい。深層心理の敏感な人と同じく、心が傷付いても、すぐに、心が回復する人と、いつまでも、心の傷が残っている人がいる。しかし、深層心理の鈍感な人の心の傷は小さく、いつまでも、心の傷が残っていても、苦悩することは少なく、それによって、他者に迷惑を掛けることも少ない。人間の性格は、多分に、深層心理の敏感・鈍感に拠っている。だから、人間は、一生、ほとんど、性格が変わらない。しかし、子供の時には、敏感な、怒りっぽい性格をしていた人が、大人になって、鈍感な、穏やかな性格に変化したように見える人がいる。しかし、それは、性格が変化したのでは無く、その人が、自らの性格の対応を上手くこなすことができるようになったからである。その人の深層心理は、敏感に反応しているが、それを外部に漏らさないようにしているのである。本人自身にとっても周囲の人にとっても、それで良いのである。人間とは、現れが全てであるからである。さて、人間は、まず、深層心理が動くのである。深層心理が、思考して、自我を動かすのである。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係を具体的に言うと、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属し、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。人間は、構造体において、深層心理が対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて、自我の思いを主人にして、行動しているのである。また、深層心理によって、自我は構造体の存続・発展にも尽力するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。人間は、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、自我を対他化して、他者や対象物や対象事を対自化して、自我と他者を共感化して、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理とは、無意識の(人間が直接には意識していない)人間の心の奥底にある思考の働きである。快感原則とは、フロイトの用語で、ひたすらその場でのその時での快楽を求め、不快感を避けようとする欲望である。深層心理の敏感な人は、快感原則が強いから、感情の起伏が激しく、感動しやすく、涙もろく、心が傷付きやすいのである。ラカンが「無意識は言語によって構造化されている。」と言っているように、人間は、無意識のままに、論理的に思考しているのである。無意識とは深層心理のことである。人間は、深層心理が、まず動き、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、自我を対他化して、他者や対象物や対象事を対自化して、自我と他者を共感化して、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。人間は、それを受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、意識して思考し、許諾か拒否の結論を出し、意志としての行動を示すのである。さて、それでは、自我の対他化とは何か。先に述べたように、対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。簡潔に言えば、愛されたい、認められたいという思いである。深層心理の敏感な人はこの思いは強い。だから、他者から好評価・高評価を受けると有頂天になり、悪評価・低評価を受けると深く傷付くのである。自我の対他化は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。次に、他者や対象物や対象事の対自化とは何か。対自化とは、自分の力を発揮するために、他者を支配し、存在物を利用し、存在ごとを自らの志向性で(観点・視点)で捉えることである。深層心理の敏感な人は、支配欲が強く、何事も仕切ろうとする。仕切る立場にいないならば、仕切る人に対していろいろなことで不満を抱く。「人は自己の欲望を他者に投影させる」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、自己の視点で他者を評価する。人間は、実際には存在しないものを、自己の欲望がこの世に生み出す。)という言葉は、端的に、対自化の特徴を表している。ニーチェの言う「力への意志」とは、このような自我の盲目的な拡充を求める、深層心理の対自化の欲望なのである。言うまでも無く、深層心理の敏感な人は、往々にして、「力への意志」の欲望は強い。次に、自我と他者の共感化とは何か。共感化とは、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と愛し合い、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。簡潔に言えば、愛情、友情、協調性を大切にする思いである。「呉越同舟」(共通の敵が存在すれば、仲の悪者同士でも、手を組む。)という現象も、深層心理の共感化の機能によっている。さて、往々にして、人間は、自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探る。自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。自我が不安な時は、他者と共感化して、自我の存在を確かなものにしようとするのである。深層心理の敏感な人は、感情の起伏が激しいから、共感化する他者ができにくい。さて、思想家の吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言っている。わがままに生きるとは、他者を対自化して、自分の思いのままに、行動することである。自分の力を発揮し、支配することである。他者に合わせて生きるとは、他者の評価を気にして行動することである。つまり、自分の思い通りに行動したいが、他者の評価が気になるから、行動が妥協の産物になると言っているのである。だから、思い切り楽しめず、喜べないというわけである。深層心理の敏感な人は、その傾向が強く、心が安定しない傾向にある。さて、先の述べたように、人間は、深層心理が、まず動き、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、自我を対他化して、他者や対象物や対象事を対自化して、自我と他者を共感化して、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。そして、人間は、それを受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、意識して思考し、許諾か拒否の結論を出し、意志としての行動を示すのである。表層心理の思考が始まるのは、決まって、深層心理の思考の結果を受けてのことなのである。現実原則とは、フロイトの用語であり、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらそうとする欲望である。表層心理は、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が出した行動に指令について考え、適当だと思えば行動に移し、不適当だと思えば行動の指令を抑圧し、別の行動を考えるのである。広義の理性は、表層心理による思考である。狭義の理性は、別の行動を考えることである。しかし、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、そのまま行動してしまうのである。そして、案の定、悪い結果を招き、周囲から顰蹙を買ったり、罰せられたりすることが多いのである。深層心理の敏感な人は、深層心理が生み出す感情が強いから、この傾向が強いのである。また、人間は、表層心理が意識すること無く、深層心理が出した行動の指令のままに行動することもある。それが、所謂、無意識の行動である。無意識の行動は、習慣的な行動が多く、意識して問題化するまでも無い事柄だから、表層心理が意識の俎上に上らせなかったのである。さて、ラカンは、「標準の性格など存在しない。性格には、皆、傾きがある。」と言っている。至言である。その性格の傾きは、主に、深層心理の感度が原因である。人間には、深層心理の敏感な人と鈍感な人が存在する。一般に、深層心理の鈍感な人は、深層心理が生み出した感情の力が弱いから、人間は、表層心理で行動を支配し、人間関係をスムーズに進めることができる。しかし、深層心理の敏感な人は、自分でも、深層心理が出した行動の指令のままに行動すれば、自分にとって不都合な結果になるのは予想できるので、表層心理が意志によって、行動の指令を抑圧しようとする。しかし。深層心理が生み出した感情の力が強いから、深層心理が生み出した行動の指令のままに、動いてしまうことが多いのである。しかも、深層心理の敏感な人にとって、表層心理で、行動の指令の抑圧に成功したとしても、感情の高ぶりがそのまま残っているので、その後、次の行動を考え出すのは非常に辛く、困難なのである。深層心理の敏感だということは、感動しやすいということであるとともに、心が深く傷付きやすいということなのである。だから、深層心理は、深く傷付いた心から解放されるために、往々にして、過激な行動の指令を出すのである。また、表層心理が、意志で、過激な行動の指令を抑圧し、行動をやめたとしても、深く傷付いた感情の中で、その感情から解放されるための方策を考えなければならないから、長い苦悩の時間が始まるのである。つまり、抑圧に成功しようと、抑圧が失敗しようと、苦しみが待っているのである。だから、深層心理の敏感な人は、自分の性格に悩むことが多いのである。だから、深層心理の敏感な人は、心が傷付くことが予想される場所に近寄らず、心が傷付くような情況に陥らないようにすることが大切なのである。深層心理の敏感な人は、幾度となく激高し、何度も失敗を重ねて、自分が、深層心理の敏感な人間であることはわかっているはずである。ところが、深層心理の敏感な人には、負けず嫌いや正義感の強い人が多く、表層心理の意志の力で、深層心理が生み出した感情や行動の指令を抑圧できる、抑圧しなければいけないと思い込んでいるので、失敗を重ね、苦悩を重ねるのである。さらに、深層心理の敏感な人には、負けず嫌いや正義感の強い人が多く、深層心理が強いから、心が傷付くことが予想される場所に近寄らないこと、心が傷付くような情況に陥らないようにすることは卑怯だと思い込んでいる人も多く存在するのである。そして、徒らに、苦悩を重ねるのである。確かに、深層心理が敏感なのは生来の体質であり、自分のせいではない。しかし、深層心理が敏感なことで起こした行動といえども、自分自身が起こした行動であるから、自分がその責めを負わなければいけないのである。だから、深層心理の敏感な人は、心が傷付くことが予想される場所に近寄らないこと、心が傷付くような情況に陥らないようにすることを肝に銘じるべきである。しかし、深層心理の敏感な人は、敏感であるが故に、喜びや楽しさを感じる心も強い。だから、喜びや楽しさを感じられそうな場所に出掛けがちである。しかし、喜びや楽しさを感じられそうな場所は、心が傷付く可能性も高いのである。それを知っていても、心の敏感な人は、敏感さに応じた刺激を求め、そのような所へ行ってしまうのである。そして、案の定、期待外れな結果になって、深く傷付くのである。「君子、危うきに近寄らず」である。深層心理の敏感な人は、この言葉を、深く肝に銘じるべきである。大きな喜びや大きな楽しみを期待しないことである。大きな喜びや大きな楽しみを期待するから、深く傷付くのである。そして、深層心理の敏感な人は、他者に期待することが大きすぎたり、他者の存在を実際以上に大きく見がちである。人間は、常に、深層心理の対他化の機能により、他者から好評価・高評価を受けたいという思いで、他者の自分に対する思いを探っている。深層心理の敏感な人は、他者の視線を気にしがちである。しかし、自分と同様に、他者も、相手である自分を見ていない。両者とも、自分に対する評価を気にし、相手に対する評価はなおざりなのである。だから、他者からの評価は、概して、薄っぺらなものなのである。深層心理の敏感な人は、また、他者から高い評価を受けようと思うから、他者を大きく見すぎる傾向になりがちである。だから、他者から悪評価・低評価を受けると、深く傷付くのである。しかし、自分同様に、他者も、深層心理の動物であるから、相手に対する評価には、表層心理の理性による大きな思考力が働いていないのである。だから、他者の存在を過大視する必要は無いのである。しかし、他者から直接に自分に呼びかけられると、どうしても、反応してしまう。それが、他者からの「頑張れ」「根性を出せ」「我慢しろ」などの直接の呼び掛けの言葉である。確かに、これらが励ましとなり、いっそう気力が充実し、体力がみなぎることがある。その時は、素直に、他者の呼び掛けと自分の思いに従えば良いのである。しかし、これらの言葉が負担になれば、無視すれば良いのである。ところが、人間は、深層心理の対他化の機能により、他者から好評価・高評価を受けたいから、残っていない精神力・体力を振り絞って、いっそう励もうとするのである。そうして、精神を壊し、肉体を壊すのである。深層心理の敏感な人は、対他化の機能が強いから、そうなってしまうことが多いのである。しかし、人間は、誰しも、他者に呼び掛けられずとも、何年も、何十年も、頑張り、根性を出し、我慢してきたのである。だから、誰しも、自分の頑張る力、根性の力、我慢する力を知っているはずである。呼び掛けの言葉が負担に感じることは、これ以上の頑張る力、根性の力、我慢する力をは自分に備わっていないことを意味しているのである。人間は、精神の力、肉体の力は、既に、深層心理、深層肉体に備わっていて、それ以上の力は出ないのである。人間にできることは、既に備わっている深層心理、深層肉体の傾向を知り、それを、無理なく現実に応用するしかないのである。だから、無理を要求する他者の呼び掛けは無視すれば良いのである。しかも、「頑張れ」「根性を出せ」「我慢しろ」などの呼びかけの言葉は、聞き手の事情を深く考慮せず、呼び掛け人の満足感・快楽を求めて発せられることがほとんどなのである。日本全体で、これまで、「克己」、「根性」、「大和魂」、「逃げるのは卑怯者のすることである」、「逃げるのは恥ずべき行為だ」などの言葉で、我慢して、そばに居続け、今までと同じことを繰り返すことを強要してきた。それは、政治権力者、資本家、教師などの上に立つ者が、大衆、労働者、生徒を、自らの意図の下に支配したいという、他者を対自化しようという意図の下で行ってきたのである。しかし、それが隠蔽され、それらが美徳として誤って解釈されてきたからである。「君子危うきに近寄らず」であり、環境を換えること、逃げることは、決して、卑怯者のすることでも恥ずべき行為でもない。最も良いのは、深層心理の仕組みを知り、他者の評価に囚われないことである。「たかが他者の思いではないか」、「人生はゲームのようなものだ」と考えるべきなのである。また、確かに、深層心理の敏感な人は、精神の立ち直りが遅く、苦痛が長く続くことになる。誰しも、苦痛を忌避するが、人間は、苦通の中でしか、思考しない。人間は、苦痛から解放されたいがために思考するのである。思考からでしか創造は生まれない。苦通の中の思考は苦悩である。だから、苦悩の中でしか、創造は生まれないのである。ニーチェの「楽しい時には、人間は自分の主人ではなく、苦しい時こそ、自分の主人である。」という言葉はこの謂である。夏目漱石、太宰治、大江健三郎、ドストエフスキー、カフカ、ヘルダーリン、マルクス、ニーチェ、ハイデッガー、ヴィトゲンシュタインは、皆、深層心理が敏感である。