あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

来年、オリンピックが日本にやって来る。そして、後に、滅亡がやって来る。(自我その273)

2019-12-09 18:07:46 | 思想
来年、オリンピックが、日本で、東京を中心にして、開催される。オリンピック立候補都市の中で、住民の賛成率が最も低かった東京も、オリンピック開催が決定されると、国民は狂喜乱舞した。今や、オリンピック開催のために要するは三兆円に達しようとしていると言われる。予算額八千億円の約四倍である。自民党の国会議員たちは、ほくほく顔である。日本でオリンピック開催が決まれば、開催費用が膨大になろうと、意に介さない大半のマスコミやほとんどの国民の気質を知っているからである。自民党の国会議員は、日米同盟さえ歌い上げれば、思いやり予算というアメリカから脅迫された支援費を、毎年二千億アメリカに出そうとも、黙ってしまう大半のマスコミやほとんどの国民の気質も知っている。自民党の国会議員は、日米同盟さえ歌い上げれば、アメリカから一兆円以上も戦闘機を買おうとも、黙ってしまう大半のマスコミやほとんどの国民の気質も知っている。国家の歳入が無くても、国債を発行すれば良いと思っている。実際に、そうしている。今や、国家の歳出の約三分の一が国債費であり、歳入の約二分の一が新規国債発行である。国家予算は、既に、破綻しているのである。しかい、日本の国債を買うのは日銀・銀行・一般庶民の日本人だから破綻しないと一部の政治評論家・経済評論家は言う。しかし、借金地獄に陥り一時的に金策ができても、必ず、返済しなければいけないのだから、早晩、破綻するのはわかっている。近いうちに、日本人自身が、円に信頼を失い、急激なインフレーションになるだろう。そうなれば、政府は税収が上がり、国債の借金をすぐに返せるだろう。しかし、国民は、今日の生活にも困ることになる。束の間の命である。それでも、大半のマスコミやほとんどの国民は、一部の政治評論家・経済評論家は言うように、日本の国債を買うのは日本人だから破綻しないと信じているのである。太平洋戦争もそうだった。どう見ても、アメリカに勝つはずは無いのに、軍人の言うように、日本は神国だから負けるはずが無いと信じて、無謀な戦争に突き進んだのである。国民は野党の国会議員に頼りないと思っている。確かに、野党の国会議員に頼りない。しかし、その頼りなさを、実際以上に強調したのは、フジテレビ、日本テレビ、産経新聞、読売新聞というマスコミと官僚である。官僚は、野党の閣僚の根も葉もない噂やプライバシーを、徹底的にマスコミに流した。日本の国民は、マスコミに流されやすいから、それを信じた。最も頼りがいのある小沢一郎は、東京地検特捜部による政治資金規正法違反容疑で捜査を受け、政治生命が絶たれた。東京地検特捜部も官僚であり、自民党の国会議員や大半の官僚と同じく、アメリカ一辺倒の考え方をしている。アジア外交に舵を切る民主党政権は、是が非でも、倒したかったのである。東京地検特捜部の自民党寄りの捜査は目に余るものがある。
一民間企業である日産のゴーン会長を失脚させるための捜査はしても、安倍晋三首相が、森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会で罪を犯しても、捜査に動かないのである。さて、頼りないのは、自民党の国会議員も同じである。国会答弁を見ていると、官僚の書いた文章を棒読みしている。しかし、自民党のの国会議員には、それに加えて、深層心理が生み出した自我の欲望を反省せずに、実行しようとする傲慢さがある。それでも、日本の国民は、マスコミに流れやすいから、実質的には自民党の広報である、フジテレビ、日本テレビ、産経新聞、読売新聞というマスコミの言を信じて、自民党に与している。自民党のアリンピック招致活動の成功は、日本国民の愛国心をかき立てるのに功を奏した。しかし、現代人ならば、誰でも、自分が所属している国という構造体に対して愛情を持っている。国際社会において、自分が所属する国という構造体があるから、自らは国民という自我を持ち、国民という自我を主体にして行動できるからである。しかし、国という構造体、国民という自我だけで無く、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体を意味する。自我とは、その構造体の中で、ポジションが与えられ、それを自己のあり方として行動する主体を意味する。すなわち、自我とは、ある役割を担った現実の自分の姿なのである。自己は具体的な自我という形を取ることによって、存在感を覚え、自信を持って行動できるようになるのである。だから、人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、行動できるのである。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、別の時間帯には、別の構造体に所属し、別の自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのである。人間は、広義には、世界内存在のあり方をしているが、実際に生活するうえでは、世界が細分化されて構造体となり、構造体内存在のあり方をするのである。つまり、実際に生活する時には、世界が構造体へと限定され、自己が自我へと限定されるのである。世界が小さな構造体へと限定され、自己が自我へと限定されると、構造体の中で、自分のポジション(役目、ステータス)が自我として定まるから、自我を主体として行動できるのである。自分のポジションを自他共に認めたあり方が自我なのである。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、カップル、仲間、県、国などがある。人間は、これらの構造体の中で、自分のポジション(役目、ステータス)を担って、自我をもち、それぞれの人がその自我に応じて行動しているのである。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があり、県という構造体には県知事・県会議員・県民などの自我があり、国という構造体では総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があるのである。人間は、たとえ、一人暮らしをしていても、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。さて、人間は、常に、構造体の中で、自己が自我となり、他者と関わりながら、自我を主体として暮らしているのであるが、その自我を動かすものは、表層心理ではなく、深層心理である。深層心理とは、人間の無意識での思考である。表層心理は、深層心理の思考の結果を受けて、思考を開始するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。深層心理の動きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味している。つまり、深層心理が、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、快楽を自我にもたらそうという欲望である。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定するのである。表層心理の思考結果による行動は、意志と言われている。現実原則とは、心理学者のフロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。快感原則はその時その場での快楽を求める欲望だが、現実原則は長期的な展望の下で現実的な利益を求める欲望である。人間の表層心理での思考は、常に、深層心理の思考の結果を受けて行われる。安倍晋三首相は、深層心理が、快感原則に基づいて、森友学園・加計学園・桜を見る会で、身内に便宜を図るという罪に値する自我の欲望を生み出したが、彼は、表層心理で、現実原則に基づいて、その欲望を抑圧しなかったのは、安倍内閣も自民党も国民の支持率が高いから、その欲望がかなうと思ったからである。さて、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定した場合、別の行動を考え出さなければならない。その思考が理性と言われるものである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。これが、感情的な行動であり、後に、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多い。そして、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の実際の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活でのルーティーンと言われる習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。さて、人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。快感原則とは、快楽を求める欲望だが、それは、自我が他者に認められること、自我で対象や他者を支配すること、自我と他者が理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって得られる。つまり、深層心理は、この三種類の欲望を満足させることによって、快楽を求めようとするのである。すなわち、深層心理は、自我を他者に認められたいという欲望の下で、自我を対他化する。深層心理は、自我で対象や他者を支配したいという欲望の下で、対象や他者を対自化する。深層心理は、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望の下で、自我を他者と共感化させるのである。この、自我の対他化、対象や他者の対自化、自我と他者の共感化で、深層心理は快楽を得ているのである。深層心理は、自我を対他化して、自分が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考える。人間は、他者に会うと、まず、その人から好評価・高評価を得たいと思いで、その人の視線から、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。この他者の視線の意識化は、自らの意志という表層心理に拠るものではなく、無意識のうちに、深層心理が行っている。だから、自動的な行為のように思われるのは当然のことである。もちろん、他者の視線の意識化は、誰しもに起こることである。しかし、ただ単に、他者の視線を感じ取るのではない。そこには、常に、ある思いが潜んでいる。それは、その人から好評価・高評価を得たいという思いである。つまり、人は、他者に会うと、視線を感じ取り、その人から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自分がその人にどのように思われているかを探ることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人は常に他者の評価を勝ち取ろうとしている。人は他者の評価が気になるので他者の行っていることを模倣したくなる。人は他者の期待に応えようとする。)という言葉は、端的に、対他化の現象を表している。日本の国民が、安倍晋三内閣や自民党を支持しているのは、フジテレビ、日本テレビ、産経新聞、読売新聞という右翼のマスコミの欲望を欲望したからである。それは、戦前の日本の国民が、軍人の欲望を欲望して、太平洋戦争に突き進んだのと同じである。自我の対他化とは、自ら、敢えて、自我の評価を他者に委ねることなのである。だから、サルトルは、「対他化とは、見られているということであり、敗者の態度だ。」と言うのである。そして、「見られることより見ることの方が大切なのだ。」と言うことになる。見ることは、対象や他者の対自化であり、サルトルによれば、勝者の態度なのである。。次に、対自化であるが、また、深層心理には、対象や他者を対自化して、対象や他者を支配したいという欲望を持っている。対象や他者の対自化とは、自我の視線で見るということである。すなわち、対象や他者の対自化とは、対象に対してどのように利用・支配しようか、他者に対して、その人がどのような思いで何をしようとしているのかを探り、支配しようとすることなのである。しかし、対象や他者の思いや欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自我の志向性に則って行うのである。その人の思いや欲望を、自我の志向性に則って評価するのである。志向性とは、自我が、対象や他者を意味づける作用である。すなわち、対象に対しては意味づけし、他者に対しては、その欲望が自我と同じ方向性にあるか逆にあるかを探るのである。他者の思いや欲望が自我と同じ方向性ならばば味方にし、逆の方向性ならば敵にするのである。他者の思いや欲望が自我の志向性と同じような方向性にある場合、味方にするのであるが、他者のステータス(社会的な地位)が自我よりも下位ならば、自我がイニシアチブを取ろうと考え、自我よりもステータス(社会的な地位)が上位ならば、自我を他者に従わせようとするのである。また、他者の思いや欲望が自我の志向性の方向性と異なっていた場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これが、「人は自己の欲望を他者に投影させる」ということなのである。つまり、対象や他者を見るという姿勢、つまり、対象や他者を対自化するとは、自我中心の姿勢、自我主体の姿勢なのである。日本の右翼や国民の多くが、安倍晋三内閣を支持するのは、反中国・反北朝鮮・反韓国という方向性で一致しているからである。彼らが、安倍晋三が、森友学園・加計学園・桜を見る会で不正な行為を行っても、無視できるのは、反中国・反北朝鮮・反韓国という姿勢を貫くことで免罪になっているのである。さらに、日本の右翼や国民の多くは、安倍晋三の総理大臣というステータス(社会的な地位)が自分たちよりも上位なので、反中国・反北朝鮮・反韓国のために、自分たちの自我を安倍晋三という他者に従わせようとしているのである。しかし、これは危険な行為である。ニーチェは、「人間、誰しも、力への意志(権力への意志)を有している。」と言う。力への意志(権力への意志)とは、他者を征服し、同化し、いっそう強大になろうという意欲である。すなわち、徹底的なる、他者の対自化なのである。しかし、日本の最高権力者が、徹底的に他者を対自化し、力への意志(権力への意志)を行使したら、どうなるか。日本は、彼の私物となる。安倍晋三は、森友学園・加計学園・桜を見る会で、公金を使って、身内に便宜を図り、官僚に、公文書を改竄させ、野党の国会議員に嘘の答弁をさせ、自らも嘘の答弁を繰り返している。なぜ、そのような不正ができるのか。それは、安倍晋三が、森友学園・加計学園・桜を見る会で不正な行為をしても、国民の支持率が下がらないからである。安倍晋三は、総理大臣という自我を、国民という他者によって対他化させる必要は無いのである。安倍晋三は、一方的に、総理大臣という自我で、国民という他者を対自化できるから、好き放題にできるのである。ニーチェの「大衆は馬鹿だ。」という19世紀の言葉が、今なお、生きているのである。さて、先に述べたように、深層心理には、自我の対他化と対象と他者の対自化の他に、自我と他者の共感化という快楽を求める視点がある。自我と他者の共感化は、相手に一方的に身を投げ出す自我の対他化でもなく、相手を一方的に支配するという対処や他者の対自化でもない。自我と他者の共感化は、協力するや愛し合うという現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」という四字熟語がある。「仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。」という意味である。仲が悪くても、そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れると、協力して、立ち向かうのである。オリンピックになると、日本の国民は、普段が仲が悪い人同士でも、見知らぬ人同士でも、日本チームや日本人選手を応援するということで一致するから、共感できるのである。また、協力するということは、互いに自我を他者に対他化し、もしくは、一方の自我が他者に対他化し、他者の身を委ね、他者の意見を聞き、両者で共通の敵を対自化して、立ち向かい、戦うのである。日本の右翼や日本の国民の多くは、安倍晋三首相と協力して、中国・北朝鮮・韓国に立ち向かい、いざとなったら、アメリカを後ろ盾にして戦おうと思っているのである。日本の右翼や国民の多くと安倍晋三首相は、中国・北朝鮮・韓国を敵国と考えているから、警戒すべきなのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。日本人にとって、日本のために、日本人という自我が存在するのでは無く、日本人という自我を保証するために、日本という構造体が存在するのである。そのために、日本という国というの構造体に愛着し、それが、愛国心なのである。
だから、国という構造体、国民という自我は、現在の国際社会において、自らの大きな存在基盤なのである。だから、日本人は、日本チームと日本人選手を応援するのである。つまり、愛国心とは自己愛なのである。つまり、国を愛しているように見えて、実は、自分を愛しているのである。だから、オリンピックで、自国の選手を応援している時も、実は、自分自身を応援しているのである。そのために、真剣なのである。オリンピックでの選手の活躍は、その選手の存在主張であるとともに、国際社会における、国という構造体の存在主張であり、国民という自我の存在主張なのである。オリンピックは、自我の発揚の場になのである。だから、オリンピックで求められるのは、何が何でも、自国選手の勝利なのである。その陰がドーピングであり、ドーピングを政府自らが進めている国が現れるのである。果たして、いつか、オリンピックを、自我からではなく、真に、スポーツの祭典として楽しめる時は来るのだろうか。それは、一に、自らの思考に掛かっている。少なくとも、大衆に甘んじている限り、その日が訪れることは無い。このように、日本人ならば、誰しも、日本の国を愛している。自分が、日本人だからだ。日本という国が、国民国家の集団である現代において、自分の所属国だからである。自らにとって、日本という国が所属する構造体であり、日本人が持する自我なのである。だから、日本という国や日本人という国民が、世界で認められると、自分のことのように喜ぶのである。オリンピックでの日本選手の活躍を喜ぶのも、日本人という自我を満足させるからだ。確かに、日本人ならば、誰しも、日本という国の構造体のあり方、日本人という国民の自我のあり方に理想像を持っていて、その理想像が異なることがよくある。しかし、オリンピックでの日本チームや日本選手の活躍は、日本人共通の理想像なのである。しかし、その理想像には、オリンピックでの日本チームや日本選手の活躍は共通しているが、共通していないこともある。しかし、右翼的・保守的な考え方をする人は、そのことに思いが至らない。右翼的・保守的な考え方をする日本人は、「愛国心を持っている日本人ならば、日本という国のあり方に対しても、日本人という国民のあり方に対しても、共通の理想像を持つべきだ。」と思い込んでいる。確かに、オリンピックでの日本選手の活躍は、日本人の共通の理想像だろう。しかし、尖閣諸島、竹島、北方四島の領有に対する理想像は共通していない。確かに、日本人の共通の理想像は、尖閣諸島、竹島、北方四島を領有することだろう。しかし、これらの島々の領有権は、今でも、不安定な状態にある。ある日本人たちは、「いざとなったら、武力でこれらの島々を領有しなければならない」と主張する。彼らにしてみれば、これらの島々は日本固有の領土であり、これらの島々を領有することは日本人の誇りなのである。これとは別の日本人たちは、徹底的に、話し合い・交渉を提唱する。日本人の兵士、中国人の兵士、ロシア人の兵士の血が流れることを忌避するからである。しかも、これらの島々には日本人という国民は一人も住んでいないからである。すると、前者の右翼的・保守的な日本人たちは、後者の左翼的・リベラル派の日本人たちを「反日的な考え方をしている、反日集団だ」と批判する。また、右翼的・保守的な日本人たちは、日本史の教科書から、日中戦争初期の南京大虐殺や従軍慰安婦の強制連行などの日本軍の犯罪の掲載を、取り除くように要請した。これらの掲載は、「反日教育に繋がる」と批判したのである。彼らは、南京大虐殺や従軍慰安婦の史実によって、日本人の誇りが失われることを恐れたのである。しかし、これらの史実によって、日本人の誇りが失われたとしたならば、その誇りは薄っぺらなものにしか過ぎない。むしろ、これらの史実を検証することによって、戦時における、日本人(人間)の心理・行動を追究し、絵空事ではない、戦時状態の日本人(人間)のありのままの姿を見ることによって、そこに、日本という国の政治指針や個々の日本人の生きる指針を探るべきではないだろうか。反日の言葉の意味は、「日本に反対すること。日本や日本人に反感を持つこと。」である。しかし、日本人という自我は、日本の国という構造体を愛することであるから、日本人は、誰一人として、反日感情を持っていないのである。自分と異なる日本の理想像や日本人の理想像を持つ人たちを、反日と批判する人たちは、思惟の乏しい、幼稚な人間たちだと言わざるを得ないのである。