あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理が生み出す自我の欲望と精神疾患(自我その288)

2019-12-28 22:50:22 | 思想
人間は、誰しも、自ら意識して、精神疾患に陥ることはない。また、人間は、誰しも、自らの意志で、精神疾患に陥ることはできない。すなわち、表層心理という意識や意志では、自らの心に、精神疾患を呼び寄せることはできないのである。深層心理という人間の無意識の心の働きが、自らの心に、精神疾患をもたらしたのである。精神疾患には様々なものがあるが、代表的なものが、鬱病である。鬱病の基本症状は、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しいといった抑鬱気分である。また、あらゆることへの関心や興味がなくなり、なにをするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れることが多い。抑鬱気分が強くなると、死にたいと考えたる(自殺念慮が起こる)だけでなく、実際に、自殺を図ることもある。自殺率はおよそ15%と高く、注意が必要なのである。日本人の鬱病の生涯有病率は10~15%である。一生のうち、10人に1人以上が罹患する病気であり、女性のほうが男性の約2倍かかりやすいことがわかっている。年代では、10歳代後半から壮年期に多く見られるが、老年期にも見られることがある。原因については、家族という構造体では、結婚、離婚、息子や娘の死亡、学校という構造体では、生徒間のいじめ、校長による教師への指導不足の指摘などのパワハラ、会社という構造体では、上司の連日の部下への叱責などのパワハラ、そして、転勤、退職などが挙げられる。いずれもが、自我が、他者から実際に悪評価・低評価を受けたり、他者から悪評価・低評価を受ける可能性が出てきたり、自我を維持することが不安になったりする時に、起こっている。深層心理は、悲しみ・絶望の感情が強いので、自らの心をある継続した心理状態に置くことによって、自らの肉体が行動を全然起こさないようにする。その時、人間は、表層心理で、自らの心理状態を意識して、自らの意志で、行動を起こそうという気にならない。また、たとえ、自らの意志で、行動を起こそうとしても、肉体が動かない。この、継続した心理状態が鬱病なのである。すなわち、深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体が行動を全然起こさないようにしたのである。つまり、深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体が学校や会社に行かせないようにしたのである。つまり、学校や会社で堪えられない情況にある人間の深層心理が、自らの心を、鬱病に罹患させることによって、抑鬱気分を維持させ、学校・会社の行かせないようにするという、現実逃避よる解決法を画策したのである。しかし、人間は、鬱病に罹患すると、学校や会社に行けなくなるばかりでなく、他のこともできなくなるのである。さらに、自殺を考えたり、実際に、自殺しようとしたりするのである。鬱病は、人間を、継続した重い気分に陥らせ、何もする気も起こらなくさせ、自殺を考えさせ、実際に、自殺しようとさせたりするから、大きな問題なのである。鬱病だけでなく、他の全ての後天的な精神疾患も、深層心理によってもたらされた現実逃避よる解決法である。統合失調症は、現実を夢のように思わせ、現実逃避をしているのでる。離人症は、自我の存在を曖昧にすることによって、現実逃避しているのである。このように、現実があまりに辛く、深層心理でも表層心理でも、その辛さから逃れる方策、その辛さから解放される方策が考えることができないから、深層心理が、自らを、精神疾患にして、現実から逃れたのである。しかし、精神疾患によって、現実の辛さから逃れたかも知れないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛の心理状態が、終日、本人を苦しめるのである。だから、精神疾患に陥った人に対して、周囲のアドバイスも励ましも、無効であるか有害なのである。精神疾患に陥った人は、現実を閉ざしているのであるから、周囲の現実的なアドバイスには聞く耳を持たず、無効なのである。また、周囲の「がんばれ」という励ましの言葉は、「がんばれ」とは「我を張れ」ということであり、「自我に執着せよ」ということであるから、逆効果であり、有害なのである。自我に執着したからこそ、現実があまりに辛くなり、精神疾患に逃れざるを得なくなったからである。そして、今、現実が見えない状態であるから、現実から来る苦しみはないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛によって苦しめられているのである。さて、精神疾患の苦痛から解放するために、薬物療法とカウンセリングが多く用いられる。確かに、精神疾患そのものの苦痛の軽減・除去には、薬物療法は有効であろう。しかし、現実は、そのまま残っている。現実を変えない限り、たとえ、薬物療法で、精神疾患の苦痛が軽減されても、その人が、そのことによって、再び、現実が見えるようになると、再び、元の精神疾患の状態に陥るようになることが考えられる。そこで、重要になってくるのが、カウンセリングである。カウンセリングは、自己肯定感を持たせることを目的として、行われる。精神疾患に陥ったのは、自分が無力であるため、現実に対処できず、深く心が傷付いたからである。そこで、自己に肯定感を持たせ、自信を与え、現実をありのままに受け入れるようにするのである。しかし、自分に力が無いと思い込んでいる者に対して、肯定感を持たせ、自信を持たせ、現実をありのままに受け入れるようにさせることは、至難の業である。だから、カウンセリングは、長い時間が掛かるのである。さて、人間が、精神疾患に陥るのは、深層心理が自我にこだわるからである。深層心理が自我にこだわるということは、人間が自我にこだわるということなのである。なぜならば、人間は、深層心理という無意識の心が、まず、自我を主体に立てて、快感原則によって、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すからである。深層心理の働きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味する。つまり、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という欲望を生み出しているのである。それを受けて、人間は、意識して思考し、表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則によって、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令の許諾するか拒否するか決めるのである。許諾すれば、行動の指令のままに行動し、それが意志による行動である。拒否すれば、行動の指令を抑圧し、人間は、表層心理で、別の行動を考えださなければならなくなる。それが、理性による思考である。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを、目的・目標としているのである。現実原則とは、心理学者のフロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。それは、長期的な展望に立っている。さて、それでは、深層心理や表層心理が主体に立てている自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。それでは、構造体とは、何か。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我などがあり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員という自我などがあり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。深層心理が自我を動かしている。深層心理は、自我の存続・発展のために思考し、自我を動かそうとする。なぜならば、人間が社会生活を営む上で、自我が主体として立つからである。つまり、人間が社会生活を営む上で、自我が存在しなければ、人間も存在しないのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するようにも思考するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。確かに、人間は、深層心理が、自我にこだわらなければ、精神疾患に陥らない。自我の不幸を他者の不幸のように見なすことができれば、精神疾患に陥らない。しかし、自我を捨て去ることはできない。人間は、社会生活を営む上で、構造体の中で、自我を持って生きているからである。自我を捨て去れば、この世では、人間は社会的な生活を送ることはできないのである。つまり、精神疾患に陥らずに社会生活を営むには、自我を保持しつつ、自我にこだわらないことが大切なのである。さて、先に述べたように、人間は、まず、深層心理(人間の無意識の心の働き)が、自我を主体に立てて、快楽を得ようという快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。深層心理は、自我を他者に認めてもらうことによって、自我で他者・対象物・対象事という対象を支配することによって、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとする。自我が他者に認められたいという欲望は、自我を対他化することによって得られる。自我で他者・対象物・対象事という対象を支配したいという欲望は、他者・対象物・対象事という対象を対自化することによって得られる。自我と他者が理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望は、自我を他者と共感化することによって得られる。自我の対他化、他者・対象物・対象事という対象の対自化、自我と他者の共感化という三化の機能は、深層心理に先天的に備わている。三化の機能は同時に働くことはなく、その都度、いずれかの一化が機能している。
さて、まず、自我の対他化であるが、それは、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることである。人間は、他者に会うと、まず、その人から好評価・高評価を得たいと思いで、その人の視線から、自分がどのように思われているかを探ろうとする。つまり、人間は、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、視線を感じ取り、その人から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自我がその人にどのように思われているかを探ることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間は、一般に、自我にこだわり、プライドを持っているのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、自らのプライドと言えども、自ら、生み出したものではないのである。深層心理の自我の対他化の作用による他者の欲望に動かされて、生み出したものなのである。すなわち。人間は、主体的な判断などしていないのである。他者の介入が有ろうと無かろうと、自らが、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。プライドを持とうという意欲、プライドを気にするという思いも、全て、他者の欲望を取り入れたからである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。人間が精神疾患に陥るのも、深層心理の自我の対他化の機能による。すなわち、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なったのだが、深層心理が生み出した自我の欲望からも表層心理での思考からも、傷心した心を救う有効な手立ては見つからないので、深層心理が、学校や会社という構造体を避けようとして、自らの心を精神疾患に陥らせたのである。次に、他者・対象物・対象事という対象の対自化であるが、それは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、他者・対象物・対象事という対象を、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)で捉えて、解釈している。人間は、他者・対象物・対象事という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えて、解釈している。人間は、他者、対象物、対象事、自我などという対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で、存在しているように創造する。)という言葉に表れている。これは、他者・対象物・対象事・自我という対象を支配したいという欲望である。自分の志向性(観点・視点)とは、対象を支配したという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性(観点・視点)は冷静に捉え、趣向性(好み)は感情的に捉えていることである。自我の対他化は見られることならば、対象の対自化は、見ることなのである。他者・対象物・対象事という対象を自らの志向性(視点・観点)や趣向性(好み)で見るということである。深層心理は、他者・対象物・対象事という対象を対自化することによって、他者を支配するために他者がどのような思いで何をしようとしているのかその欲望を探り、対象物をどのように利用しようか思考し、対象事を自らの志向性(視点・観点)で捉え、自我の行動をコントロールしようとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これが、「人は自己の欲望を他者に投影する」ということの意味でもあるのである。これを徹底したものが、ニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。だから、一生戦うことを有言実行したサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。」と言っているが、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの「見られることより見ることの方が大切なのだ。」という言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。大衆は、他者・対象物・対象事という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えることが多い。だから、大衆の行動は、常に、感情的なのである。また、人間は、他者、対象物、対象事、自我などという対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で、存在しているように創造することがある。神の存在がそうである。人間にとって、神が存在しなければ不安だから、神が存在するのである。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、坂本龍馬、板垣退助、江藤新平などの勤王の志士という歴史上の人物は、テレビドラマで、「国民のため、新しい日本を作るために、立ち上がるのだ。」と叫んでいる。しかし、彼らは、国民のために新しい日本を作ろうとして立ち上がったのではない。彼らのほとんどは、外様大名の下級の武士であったり、郷士であったりするので、江戸幕府が続く限り、立身出世が望めないばかりか、一生、貧窮の生活を送らなければいけない。そんな彼らが、ペリー来航以来、弱体を露わにした徳川幕府に対して、打倒に向かうのは当然のことである。彼らは、朝廷(天皇家)のためではなく、外様大名の下級武士・郷士という自我を捨て去り、新しい自我を求めて、命を賭けて、徳川幕府と戦ったのである。大衆は、彼らを、国民のために新しい日本を作ろうとして立ち上がった勤王の武士と思いたいから、テレビドラマで、「国民のため、新しい日本を作るために、立ち上がるのだ。」と叫ばせたのである。かつて、視聴率の高いテレビドラマに、「水戸黄門」という時代劇があった。水戸黄門が、身をやつし、身分を隠して、助さんと格さんを引き連れて、諸国を漫遊し、悪大名、悪代官、悪商人を成敗する物語である。悪人たちと立ち回りになり、悪人たちが、打ちのめされた頃合いに、助さんか格さんが、葵の紋の印籠を掲げて、「さきの副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ。」と言うと、悪人一味は、土下座し、平伏して、降伏を宣する。大衆は、庶民を救う権力者が欲しいから、「水戸黄門」というテレビドラマの時代劇を作ったのである。しかし、水戸黄門は、水戸からほとんど出ず、女癖が悪く、城内で、大した理由もなく、家臣を斬殺しているのである。現代政治においても、大衆は、庶民を救う権力者を求めている。だから、安倍晋三や森田健作に支持が集まったのである。しかし、安倍晋三首相は、強行採決を繰り返して日本を私物化し、森友学園・加計学園の自分の信奉者・友人に、不正な優遇をし、「桜を見る会」を私物化し、公私混同した。森田健作千葉県知事が千葉県の台風被災に際して、仕事を放り出し、被災地よりも自分の家の被災状況を見て回った。現在、視聴率の高い、テレビ朝日のテレビドラマに、「相棒」という刑事ドラマがある。東大法学部を卒業した、キャリアの杉下右京警部が、警視庁特命係という、仕事らしき仕事のない部署で、相棒の部下を一人従えて、強引に難事件に首を突っ込み、解決していくというドラマである。東大法学部卒などのキャリアと呼ばれる官僚たちは、安倍晋三のために、公文書を改竄し、嘘の答弁をし、都合良く健忘症になる。戦前の旧東大法学部卒の特高の幹部だった安倍源基は、部下を指揮して、小林多喜二を初めとして、数十人の共産主義者や自由主義者を拷問で殺している。大衆は、高学歴の人間に、ありもしない夢を抱いているのである。権力者や高学歴の人間が、いつか、自分たちを救ってくれるのではないかと期待を抱いているのである。そして、自分たちは、何もせず、そのような人が現れるのを待っているのである。それが、両ドラマを高視聴率に導いているのである。しかし、大衆が、どれだけ待とうと、権力者や高学歴の人間は、大衆の意を酌んでくれない。彼らは、その権力や高学歴を生かして、自分たちの利益を最大限に求め続ける。それは、集団的自衛権の国会成立、原子力発電所の再稼働に、如実に現れているではないか。世論調査で、圧倒的に、集団的自衛権の成立に反対・原子力発電所の再稼働に反対の結果が出ても、自民党を中心とした勢力は、強引にそれを推し進めたのである。しかし、それでも、大衆は、権力者や高学歴者が、自らを救うの待ち続けるであろう。人間は、他者、対象物、対象事、自我などという対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で、存在しているように創造するからである。大衆は、特に、そうなのである。ニーチェの「大衆は馬鹿だ」の声が聞こえてくる。そして、自我と他者の共感化であるが、それは、自我を他者に一方的に身を投げ出すという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」(仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。)という四字熟語があるが、これもまた、自我と他者の共感化である。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなるから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じているからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。その屈辱感を払うために、ストーカーになる者までいるのである。さて、先に述べたように、人間は、常に、構造体の中で、自己が自我となり、他者と関わりながら、自我を主体として暮らしているのであるが、その自我を動かすものは、表層心理ではなく、深層心理である。表層心理は、深層心理の思考の結果を受けて、思考を開始するのである。表層心理とは、人間が、意識して、思考し、その結果を、意志として行動するあり方である。もしも、人間が、最初から、自分で意識して考え、意識して決断して、行動できれば、人間は主体的な活動ができ、主体性を持していることになる。しかし、表層心理は、深層心理の思考の結果を受けて、思考を開始するから、人間は、本質的には、主体的なあり方をしていず、主体性を持していないことになる。深層心理とは、人間が自らは意識していないが、心の中で行われている思考行動である。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。人間が、表層心理で、意識して思考するのは、深層心理の思考の後である。人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定し、その決定通りに行動しようとするのである。表層心理とは、人間が、自ら意識して行う思考行為である。その思考結果による行動は、意志と言われている。しかし、表層心理での思考は、常に、深層心理の結果を受けて行われるのである。さて、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定した場合、別の行動を考え出さなければならない。その思考が理性と言われるものである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。これが、感情的な行動であり、後に、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多い。そして、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活での、ルーティーンと言われる、習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。このように、人間は、人間の無意識のうちで、深層心理が、快感原則によって、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が動くのである。深層心理が動いて、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。その後、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令の採否を考えるのである。それが理性と言われるものである。理性と言われる表層心理の思考は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定するのである。行動の指針を抑圧して行動しないことを決定するのは、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。しかし、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理は、意志で、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出そうとするのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。その時、理性による思考は長く続き、それは苦悩であるが、偉大な思想を生み出すこともあるのである。偉大な思想の誕生には、常に、苦悩が伴うのである。