あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

いじめを楽しむ気持ちは誰にもある。(自我その270)

2019-12-06 19:48:21 | 思想
またしても、中学生の自殺の原因が、いじめによるものだとわかった。岐阜の中学生が、自殺する前日、同級生三人以上から、トイレの便器に頭を入れられていたという。なぜ、彼は、他の生徒に助けを求めなかったのか。なぜ、彼は、教師に訴えなかったのか。なぜ、彼は、親に訴えなかったのか。それは、そうすることで、いじめっ子たちは罰せられるかも知れないが、自分は、学校という構造体やクラスという構造体に居場所を無くすからである。それを彼は最も恐れたのである。そこで、彼はいじめられる屈辱から解放され、いじめっ子たちは罰せられ、学校という構造体やクラスという構造体に居場所が無くすという不安を味わわないで済むから、自殺したのである。それでは、なぜ、いじめっ子たちは、いじめをしたのか。それも、非人間的ないじめをしたのか。それは、人間にとって、いじめは楽しいからである。嫌いな人間や弱い人間をいじめると、人間は、快感を覚えるのである。人間にとって、嫌いな人間の嫌いな部分とは、自分自身も身に付ける可能性がある、忌避したい部分である。人間にとって、弱い人間の弱いな部分とは、自分自身も身に付ける可能性がある、忌避したい部分である。だから、いじめっ子たちは、自らが持つかも知れない嫌いな部分や弱い部分を持っている同級生いじめることで、それを支配したと思えるから、快楽を覚えるのである。それでは、なぜ、いじめを見ていた周囲の中学生たち注意することも無く、教師に訴えることをしなかったのか。そうすれば、自分が、次に、いじめっ子たちのいじめのターゲットになる可能性があるからである。大人たちが現れ、いじめっ子たちを罰するということがわかったから、安心して、アンケートに答えたのである。しかし、いじめは、遠い存在ではない。毎日のように、芸人たちがいじめを行い、いじめにあっている。漫才で、ぼけ役が話すと、突っ込み役ははぼけ役の頭を殴って反論したり、否定したりする。それが、視聴者の笑いを誘う。売れている先輩芸人が、売れていない後輩芸人に、無理難題を押し付け、売れていない後輩芸人は、案の定、失敗し、困窮の表情を浮かべる。それが、視聴者の笑いを誘う。芸人たちは、罰ゲームと称され、熱湯湯に入れられたり、蟹に鼻を挟まれたり、火傷しそうな熱い物を食べさせられたり、吐くしかない辛い物を食べさせられたり、のどに通らない苦い物を飲まされたりする。それが、視聴者の笑いを誘う。つまり、いじめの番組を見て、視聴者は楽しんでいるのである、つまり、大衆も、また、芸人という弱い人間がいじめられているのを見ることに、快楽を覚えているのである。そして、芸人が、いじめを甘んじて受けるのは、芸人というこう構造体、放送業界という構造体から、追放されたくないからである。人間は、中学生や芸人に限らず、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。中学生は、中学校やクラスやクラブという構造体に所属し、中学生や同級生や部員という自我を持って活動している。芸人は、吉本興業や放送業界や芸人世界という構造体に所属し、芸人という自我を持って活動している。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがある。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、孤独であっても、そこに、常に、他者が絡んでいる。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、暮らしている。人間は、毎日、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。現在、総務庁の役人たちが、桜を見る会の件で、野党の国会議員に質問に対して嘘の答弁繰り返しているのは、そうすることで、安倍晋三首相に喜ばれ、霞ヶ関という構造体で、官僚という自我を存続させることができるだけでなく、立身出世という発展をさせることができるからである。さて、人間、誰しも、「自分はどうして生まれてきたのだろう。」、「自分は何のために生きているのだろう。」と、自分の存在に対して、疑問を抱くことがある。しかし、誰一人として、その答えを見出すことができない。なぜならば、このような自分の存在の疑問は、ある構造体から追放されそうになった時、ある構造体から追放された時、ある自我を奪われそうになった時、ある自我を奪われた時、ある自我に対して他者から無視されたり侮辱されたり暴力を受けたりなどして悪評価・低評価を受けた時などに湧き上がるからである。つまり、構造体・自我・他者に対して疑問を持たなければいけないのに、自分の存在そのものに対して疑問を持つから、答えが見出せないのである。すなわち、焦点を誤っているのである。また、自分の存在に対して疑問を持ったとしても、誰一人として、生まれて来たいから生まれてきたのではなく、気が付いたら、そこに存在しているのであるから、答えを見出すことはできないのである。生まれ出ることの許諾・拒否の意志確認をされたわけでもないのに、答えようが無いのである。また、生まれ出ることを許諾したとしても、そのような意志を表明できるということは、既に、生まれ出て、存在していることを意味するから、そのような設定自体が矛盾しているのである。つまり、誰しも、存在の疑問は、解くことはできないのである。それは、誰しも、自分の存在の意味を有していないからである。つまり、誰しも、存在の意味を有していないのに存在しているのである。これが、人間の存在の真理なのである。しかし、それは、ニーチェの言う、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」なのである。ニーチェは、「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。もしも、深く洞察できる人がいたならば、その誤謬は、人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理の上に、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であることに気付くだろう。」と言っている。まさしく、人間の一生は、「人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬」を重ね続け、「仮象」を「巧みに張り巡らす」ことなのである。人間は存在の意味を有していないのに存在しているという「真理」を「深く洞察」すれば、「人間を滅ぼしかねない」ので、「知性」によって「誤謬」を「作為」し、「仮象」を「巧みに張り巡らす」ようにして、その「真理」をごまかすしかないのである。かないのである。しかし、その「誤謬」は、「人間の生に有用」であらねばならないのである。そこに、人間存在の矛盾と苦悩があるのである。その「誤謬」、「仮象」こそ、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動しているという現象である。人間、誰しも、さまざまな構造体に、自らの自我を中心に生きているのである。しかし、人間、誰しも、自分は、自分の属する構造体の中心であるが、他者にとっては、一つの駒にしか過ぎないのである。だから、中学生は、簡単にいじめられるのである。また、人間相互に、完全に理解し合えることも無いのである。それは、自分の世界はさまざまな構造体から形成され、自分はさまざまな自我から形成され、自我の統合の象徴として自己が君臨しているが、他者にとっては、他者が所属している構造体の一つの駒にしか過ぎないからである。だから、自己は他者から理解されるはずがないのである。なぜならば、自己はさまざまな自我の統合の象徴であり、他者に理解されるのは、ある特定の一つの構造体での自我に過ぎないからである。だから、学校でいじめられ自殺した子供の両親が、学校での子供の生活を知ろうとするが、知りたい気持ちは理解できるとしても、それは、不可能である。なぜならば、両親は、家族という構造体での我が子の自我の行動は理解しているが、学校での生徒という自我でのあり方は理解できないからである。理解できるのは、同じ学校という構造体に所属している者だけである。もちろん、いじめた子たちを裁くために、いじめの詳細を記した書類からいじめの実態は把握できるが、それはいじめた子たちを裁くために書かれたものであり、その書類からは、両親が望むような、我が子の学校での生活の全体を知ることはできないのである。そもそも、人は、他の人の全体を理解することはできないのである。同じ構造体に所属している他者の、構造体内でのその自我しか理解できないのである。それでも、人は、誰しも、自分は親しい人の全てを理解していると思い込み、親しい人は自分の全て理解していると思い込んでいる。そうでなければ、その人と懸隔があると感じ、寂しさを覚えるからである。同じ構造体だけの共感化だけでは空しく感じるからである。まさしく、「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、自己の視点で他者を評価する。)という深層心理の対自化の作用からである。つまり、自分は親しい人の全てを理解していると思い込み、親しい人は自分の全て理解していると思い込みがあって、初めて、他者から認められているという深層心理の対他化を満足し、他者と一体化しているという深層心理の共感化を満足するからである。そうでなければ、その人と懸隔があると感じ、寂しさを覚えるからである。親しい他者の全てを理解しているという思い込みが無ければ、親しい人間関係が存立しないと思っているからである。つまり、自我の安定のためには、理解し合っているという思い込みが必要なのである。しかし、理解し合っているという思い込みは同じ家族・学校・会社などの構造体の属している時にしか成立しないのである。愛し合っているという思い込みは、同じカップル・夫婦という構造体にしか成立しないのである。それを、他の構造体にも、波及させようとするから悲劇が生じるのである。ストーカーの行動は、他者(元彼氏・元彼女・元夫・元妻)が、元構造体(元カップルという構造体・元夫婦という構造体)から他の構造に所属することに脅威を覚え、それを妨害することから起こることである。それは、いじめという快楽を覚える行動ではなく、自我を保つための必死の行動である。