あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、深層心理に始まり、深層心理で終わる。(自我その265)

2019-11-27 20:31:10 | 思想
苦悩とは、解決策を考え出せなくてあれこれ思い悩むことを言う。人間は、なぜ、苦悩するのか。それは、心が傷付いたからである。それでは、なぜ、心が傷付いたのか。それは、他者に、無視されたり、陰口を叩かれたり、侮辱されたり、殴られたからである。すなわち、他者から、悪評価・低評価を受けたからである。人間は、他者から悪評価・低評価を受け、心が傷付き、心が傷付いた状態で、その傷付いた心を癒そう・回復させようと解決策を考え出そうとするのだが、考え出せない場合、あれこれ思い悩んでしまう。それが苦悩である。人間は、常に、他者から高評価や好評価を得ようと、他者の視線を気にして生きているから、他者から悪評価・低評価を受けると、心が傷付くのである。哲学では、この、他者から高評価や好評価を得ようと他者の視線を気にしながら、他者の視線によって自我を反省しながら生きている人間のあり方を対他存在と言う。心理学では、この、他者から高評価や好評価を得ようと他者の視線を気にしながら、他者の視線によって自我を反省する志向性を、自我の対他化と言う。言うまでも無く、対他存在と自我の対他化は同じものである。しかし、自我の対他化は、人間が、自ら意識して、自ら意志して、行っているのではない。すなわち、人間は、表層心理で、自我を対他化しているのではない。深層心理が、自我の対他化を行っているのである。深層心理とは、人間が、自ら意識すること無く、人間の意志によらない、心の働きである。一般に、深層心理は無意識と呼ばれている。人間は、自ら意識することなく、自ら意志すること無くても、深層心理が、思考しているのである。深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか考えるのである。許諾の結論を出せば、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動することになる。拒否の結論を出せば、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧し、人間は、表層心理で、別の行動を考え出さなければならなくなる。別の行動を考え出せなくて、あれこれ思い悩んでいる状態が苦悩である。例えば、会社で、社員が上司から、「おまえは馬鹿だ。」と侮辱される。社員の自我は傷付く。社員の深層心理は、思考し、怒りの感情とともに上司を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出す。社員は、表層心理で、怒りの感情の中で、上司を殴れという行動の指令の通りに行動した後のことを考える。会社という構造体から追放されることを恐れ、上司を殴れという行動の指令を抑圧する。しかし、社員は、表層心理で、上司を殴ること以外の行動を考え出さなければならなくなる。そうしなければ、傷心・怒りの感情は収まらないからである。しかし、なかなか、別の行動を考え出すことができない。そうすると、あれこれ思い悩んでいる状態が続き、苦悩に陥るのである。また、怒りの感情が強ければ、社員は、表層心理で、上司を殴れという行動の指令を抑圧しようとしても、抑圧しきれず、上司を殴ってしまうのである。これが、所謂、感情的な行動であり、後に、悲劇・惨劇を生むのである。また、確かに、この世には、心の傷付きやすい人と心の傷付きにくい人が存在する。すなわち、深層心理が敏感な人と深層心理が鈍感な人が存在する。しかし、自我の対他化の志向性を有していない人は存在しない。なぜならば、自我の対他化の志向性は、人間が、表層心理で、自ら意識して、自らの意志で取り入れたものではなく、先天的に、全ての人間の深層心理に備わっているからである。人間は、深層心理の自我の対他化によって、対他存在を満足させるような生き方をするように強いられているのである。さて、対他存在は、一般的な言葉に当てはめると、プライドという言葉に相当するであろう。しかし、プライドは、強い誇り・自尊心を意味することが多く、「プライドが高い」、「プライドが傷付けられた」などと、特異な人や特異な場合にしか使用されない。しかし、対他存在のあり方、自我の対他化という志向性は、全ての人間の深層心理に存在するのである。人間、誰しも、常に、深層心理が、人間の無意識のうちに、他者の視線に気にしながら、行動を考えているのである。対他存在というあり方、すなわち、自我を対他化するという志向性は、他の動物には見られないものである。人間の人間たるゆえんの現象である。確かに、人間が対他存在のあり方をしていなければ、すなわち、深層心理に自我の対他化の志向性が無ければ、他者の視線を気にすることもなく、心が傷付くことも無いだろう。深層心理に自我の対他化の志向性が無ければ、他者から、無視されても、馬鹿にされても、侮辱されても、すなわち、他者から悪評価・低評価を受けても、心が傷付くことは無いだろう。たとえ、殴られ、体に怪我しても、生活に支障があり、痛みはあるだろうが、心が傷付くことは無いだろう。しかし、深層心理に自我の対他化の志向性が無ければ、暑ければ裸で街を歩き回る者が現れ、道路にゴミが散乱し、ゴミ屋敷が増え、街中で奇声を上げ大声を上げる者が増え、女性は化粧を止め、男性は身だしなみを整えることを止め、礼儀も敬語も廃れ、我が物顔で街をのし歩く者が跋扈するだろう。つまり、個人は自らの行動の統制を取れなくなり、社会は秩序を保てなくなるだろう。そして、人間は、対他存在のあり方をしているからこそ、すなわち、深層心理に自我の対他化の志向性が存在するからこそ、他者から行動や行為が褒められたり、容貌・才能・業績が認められたり、尊敬されたりすれば、喜び・快楽などの満足感を得ることができるのである。人間は、他者から、好評価・高評価を受け、喜び・快楽などの満足感を得るために、時には沈黙したり、積極的に発言したり、化粧したり、身だしなみを整えたり、老人に席を譲ったり、ボランティア活動に参加したり、勉強したり、仕事したりするのである。それが、人生の努力目標になっているのである。このように、人間は、他者から、褒められたり認められたりすると、深層心理の自我の対他化が充足し(プライドを満足させ)、喜び・快楽などの満足感を得ることができるのである。逆に、他者から、無視されたリ、侮辱されたり、嫌われたり、殴られたりすると、すなわち、悪評価・低評価を受けると、深層心理は、傷付き(プライドが傷付き)、落胆・絶望などの心情に陥るとともにその心情から解放されようとして、怒りの感情とともに復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。つまり、我々は、人間は、深層心理の思考・判断によって、他者から、好評価・高評価を受けるように行動し、他者から、悪評価・低評価を受けるような行動を避けるように、作られているのである。しかし、人間は、一旦、他者から、悪評価・低評価を受けると、心が傷付き、深層心理心がその傷心から脱却しようとして、怒りの感情とともに復讐の行動の指令という自我の欲望を出すのである。その時、表層心理が、復讐の行動の指令を抑圧しなければ、自我に悲劇をもたらし、他者に惨劇を与えるのである。だから、表層真理の抑圧、すなわち、超自我の働きは重要なのである。しかし、怒りの感情が強すぎると、表層心理で抑圧しようとしても、感情にに押し切られ、復讐の行動の指令の通りに行動してしまうのである。深層心理の敏感な人は、心が傷付きやすく、傷心から解放されるために、深層心理が、強い怒りの感情と激しい復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであるから、表層心理で、苦慮するのである。怒りの感情が強いから、表層心理で抑圧しようとしても、感情に押し切られ、深層心理が生み出した激しい復讐の行動の指令のままに行動してしまい、悲劇・惨劇を生むのである。たとえ、表層心理で、深層心理が生み出した激しい復讐の行動の指令を抑圧できたとしても、深い傷心、強い怒りの感情はそのまま残っているから、自らを律するのは困難を極めるのである。また、表層心理で、深層心理が生み出した激しい復讐の行動の指令を抑圧した場合、深い傷心・強い怒りの感情から脱却するためは、代替の行動を考え出さなければなければならず、それは、深い傷心・強い怒りの感情の中で行われるから、案出することは容易ではなく、苦悩の状態に陥りがちなのである。そして、人間は、心が傷付いたから、自分が、他者から悪評価・低評価を受けてていることに気付くのである。深層心理が、心を痛むことによって、人間は、表層心理で、自分が他者から悪く評価されたり低く評価されていることを意識するのである。人間は、表層心理では、すなわち、自ら意識して、自らの意志によって、傷心・怒りの感情も、喜びや快楽という感情も、感情という感情を、全て、生み出すことはできないのである。しかし、深層心理が生み出した傷心・怒りという感情も、、喜びや快楽という感情も、感情という感情を、全て、深層心理と共有しなければならないのである。人間とは、感情の動物であり、深層心理にも表層心理にも、同じ感情が流れているのである。また、傷心・怒りという感情が収まれば、他者から悪評価・低評価を受けたということが過去の出来事になり、苦悩から脱出できたということになるのである。たとえ、深層心理で、的を射た解決策を案出できなくても、時間とともに傷心・怒りという感情が収まり、友人との長電話によって傷心・怒りという感情が収まり、酒に酔って傷心・怒りという感情が収まり、音楽・アニメ・漫画・映画などの趣味によって傷心・怒りという感情が収まり、他者から悪評価・低評価を受けたということが過去の出来事になれば、苦悩から脱出できたということなのである。つまり、人間は、深層心理に始まり、深層心理で終わるのである。しかし、人間は、自らは主体的に生きている、もしくは、主体的に生きることができると思っている。主体的とは、自分がある思考や判断や行動などをする時、自分が主体となって動くことを意味する。人間は、誰しも、自分は、自ら考え、自ら判断して、自らの意志で行動している、もしくは、できると思っている。そして、自分が主体的に行動できない時があるとすれば、強力な他者の介入があった時か自分に実力が無い時だと思っている。他者の介入に抗することができない無力な自分に苦悩するのである。無力だから目標を達成することができない自分に堪えきれず、苦悩するのである。つまり、自分のプライドが粉粉にうち砕かれた時、苦悩するのである。しかし、果たして、そこまで、人間はプライドを持つ必要があるのであろうか。なぜならば、人間は、人間社会の中で生きていかなければならないから、その時点で、既に、自己を捨て、自我に捕らわれて、主体的な生き方は失われているからである。自分が主体的な生き方だと思い込んでいる生き方は、自我と他者の欲望に動かされている生き方なのであり、決して、主体的な生き方ではないのである。それでは、なぜ、人間は、主体的な生き方ができず、自我として生きていかざるを得ないのか。それは、人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我を負って生きることしか無いからである。つまり、人間は、人間社会の中で生きていかざるを得ず、いつ、いかなる時でも、常に、ある人間の組織・集合体という構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように、自我として生きていかざるを得ないのである。具体的に言えば、構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。だから、総理大臣、校長、社長、店長、運転手と言えども、単に、一つの自我に過ぎないのである。単に、一つの役割を果たしているのに過ぎないのである。彼らは、国民、教諭・生徒、社員、店員・客、車掌・客などに支えられて存在する。だから、どの自我が絶対的なものではないのである。そして、日本、学校、会社、店、電車という構造体も、家族、仲間、カップルという構造体も、ある時代、ある時期において誕生し、そして、時代の推移、時間の経過によって消滅する。だから、どの構造体も絶対的なものではないのである。つまり、自我にプライドを持ついわれは無いのである。自我にプライドを持つから、プライドが打ち砕かれると、苦悩するのである。自我の務めを淡々と果たせば良いのである。失敗すれば、矯正すれば良いのである。自分のミスが原因で、現在の構造体を放逐されれば、別の構造体を探せば良いのである。その構造体も放逐されれば、また、別の構造体を探せば良いのである。構造体に使われるのが嫌ならば、自分が構造体を作れば良いのである。死を迎えるまで変化し続ければ良いのである。それを、立ち止まってプライドを持とうとするから、それが打ち砕かれて苦悩するのである。また、そもそも、人間は、自らのプライドと言えども、、自ら、生み出したものではないのである。他者の欲望に動かされて、生み出したものなのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」と言っている。この言葉の意味は、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」である。つまり、人間は、主体的な判断などしていないのである。他者の介入が有ろうと無かろうと、自らが、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。プライドを持とうという意欲、プライドを気にするという思いも、全て、他者の欲望を取り入れたからである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断して、つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。さて、人間、誰しも、夢を見る。しかし、寝る前に、今晩、どんな夢を見るか、誰にもわからない。誰一人として、自分で意識して、自分の意志で、夢を作ることはできないのである。すなわち、誰一人として、表層心理の意識や意志で、夢を作ることはできないのである。つまり、人間、誰しも、夢を支配できないのである。夢を作るのは無意識の心の作用である深層心理だから、夢を支配できないのである。それは、苦悩が深層心理によってもたらされるのと同じである。しかし、夢は、眠っている間だけにしか見ないから、目覚めた後は、精神的には影響を与えることがあっても、直接的に行動に結びつくことは無い。夢に見た場面は、目覚めた後の場面と異なるからである。夢を行動に結びつけようとするのは、夢を解釈した表層心理である。また、白昼夢という現象もある。白昼夢とは、真昼に見る夢、夢のような非現実的な空想を意味する。白昼夢も、眠っている時に見る夢と同様に、精神的には影響を与えるとしても、夢を解釈した表層心理の働きがない限り、行動に結びつくことは無い。夢と深層心理の関係について、本格的に研究した最初の人がフロイトである。フロイトは、夢を解釈して、その人の深層心理の思いを理解しようとした。しかし、フロイトは、性欲にこだわって深層心理を理解し、人間の主体性に期待を掛けすぎるあまり、人間の夢ばかりでなく、人間の現実の全体そのものも、深層心理によって作られ、動かされるているということへまでは思いを致すことができなかった。確かに、夢と現実は異なる。夢は、深層心理だけで形成され、現実は、深層心理だけでなく、そこに、深層肉体、表層心理、表層肉体が絡んで、形成されているからである。しかし、夢も現実も、深層心理が中心であることは同じなのである。デカルトは、『省察』(『第一哲学の省察』)で、「確かに、今、私は、目覚めている。この手を意識して伸ばし、かつ伸ばしていることを感覚する。しかし、私は、夢の中で同じようなことしてだまされたことを思い出さずにはいられない。以上のことをより注意深く考えてみると、夢と現実を区別する確実な根拠をどこにも見出すことができないことに気付かされる。」と記している。「夢と現実を区別する確実な根拠をどこにも見出すことができない」のは、両者とも、深層心理が中心となって形成されているからである。そこで、人々は、体の一部をつねってみて、これが夢の出来事なのか現実に起こっている出来事なのかを判別するのである。痛みを感じなければ、夢の中の出来事である。なぜならば、夢は深層心理だけで形成されているから痛みを感じないのである。痛みを感じれば、現実に起こっている出来事である。痛みを起こすのは深層肉体であり、深層心理は、その痛みを受けて、自我の異状に気が付き、感情と行動の指令を生み出し、表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について、そのまま行動するか抑圧するかを考えるのである。抑圧する場合、別の行動を考えることになる。この一連の反応が起こるから、現実に起こっている出来事だとわかるのである。さて、人間は、日常生活において、眠りから覚めると、自我に気付き、深層心理と深層肉体が動き出す。深層心理と深層肉体が合流して行動を起こす。目が覚めると、深層心理は、無意識のうちに、ここは自分の部屋だと認識し、自分が属している家族という構造体と自我(父、母、息子、娘というポジション)を認識し、日付を確認し、時間を確認し、次に向かう高校という構造体での生徒という自我や会社という構造体での会社員という自我に思いを馳せるのである。深層肉体とは、無意識に行う、習慣的な行動である。無意識に行っている行動だから、深層肉体の行動と言うことができるのである。深層肉体の行動は、無意識に行う、ベッドから降り、着替えをし、トイレに向かい、歯磨きを行い、朝食のテーブルに着くなどのような一連の行動である。つまり、深層心理と深層肉体は、深く絡み合っているのである。日常生活に、何ら問題が無ければ、深層心理・深層肉体だけが働き、表層心理も表層肉体も働く余地はないのである。日常生活に、何ら問題が無ければ、悩むことが無く、それによって疲れることが無いから、人間は楽に暮らしていけるのである。つまり、人間は、同じようなことを繰り返して日常生活を送るのは、考え込むことがなく、楽だからである。人間の同じような生活を繰り返そうとする現象は、ニーチェの「永劫回帰(永遠回帰)」の思想に合致している。「永劫回帰(永遠回帰)」について、辞書では、「同じものやことが永遠に繰り返し生じること。世界の出来事は、円環運動を行って、永遠に繰り返すこと。宇宙は、永遠に、回帰運動を繰り返すこと。」と解説され、「目的も意味も無い永遠の反復を、積極的に引き受けるところに、生の絶対的肯定を見る、ニーチェの根本思想。生の各瞬間は、無限回も生起し回帰するが故に永遠の価値を持つとされる思想。人間は、今の一瞬を大切に生きるべきだとする、ニーチェの根本思想。」と意味づけされている。しかし、解説は正しいが、このような意味づけでは、ニーチェの思想は理解できない。ニーチェの「永劫回帰(永遠回帰)」の思想は、「権力への意志(力への意志)」の思想に裏打ちされている。「権力への意志(力への意志)」とは、辞書では、「他を征服し、同化し、いっそう強大になろうという思考を持った意欲。不断の生成の内に、全生命体を貫流させようという思考の意欲。さまざまな可能性を秘めた、人間の内的、活動的生命力を重んじる思想。」と解説されている。つまり、ニーチェは、いっそう強大になろうとする、活動的生命力を重んじる生き方を思考し、楽だから同じような生活を繰り返そうという大衆の生きる姿勢を批判しているのである。だから、ニーチェは、「大衆は馬鹿だ。」と言うのである。ニーチェは、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動することを思考し、実践することを志向しているのである。言わば、「権力への意志(力への意志)」を「永劫回帰(永遠回帰)」することを志向しているのである。しかし、人間は、日常生活を破って思考するのは、苦悩・苦痛がある時である。日常生活が上手くいかず、苦悩・苦痛があるから、それを解決しようとして、思考するのである。思考するのは、表層心理の作用である。そして、それを実践する動きは、表層肉体である。もちろん、人間、誰しも、苦悩・苦痛を忌避する。しかし、苦悩・苦痛が無ければ、誰も、表層心理で思考しないのである。苦悩・苦痛が無ければ、誰も、表層心理で思考せず、深層心理・深層の肉体の下で、同じような生活を繰り返そうとする。だから、ニーチェは、「人間は、楽しみや喜びの中にいては、自分自身の主人になることはできない。人間は、苦痛や苦悩の中にいて、初めて、自分自身の主人になる可能性が開けてくる。」と言っているのである。しかし、人間、誰しも、日常生活が上手くいかず、苦悩・苦痛があるから、それを解決しようとして、表層心理で思考するが、全ての人が、自分自身の主人になれるわけではない。「権力への意志(力への意志)」を「永劫回帰(永遠回帰)」できる者、すなわち、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと表層心理で思考し続ける者だけが、自分自身の主人になれるのである。だから、深層心理・深層の肉体の下で、楽だから同じような生活を繰り返そうという生き方をしている者は、日常生活の奴隷なのである。また、日常生活が上手くいかず、苦悩・苦痛があるから、それを解決しようとして、表層心理で思考しても、思考を短期間で終え、安易に妥協し、以前の日常生活に戻っていく者も、日常生活の奴隷である。つまり、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと、表層心理で思考し続ける者だけに、自分自身の主人になれる道が開け、ニーチェの言う「超人」になる可能性が開かれているのである。ニーチェの言う「超人」とは、ハイデッガーの言う「本来的人間」である。つまり、我々は、「権力への意志(力への意志)」を「永劫回帰(永遠回帰)」するしか、自分自身の主人になれないのである。すなわち、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと、表層心理で思考し続ける者だけに、日常生活の奴隷から脱し、「超人」・「本来的人間」になる道が開かれているのである。そして、自分自身の主人になった人、換言すれば、「超人」・「本来的人間」だけが、日常生活の苦悩・苦痛から解放されるのである。