あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間の構造体と自我の基本構造について(自我その254)

2019-11-12 20:25:12 | 思想
人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我とは、あるポジションを得たということであり、ある役割を担った現実の自分のあり方なのである。自我が存在しない人間は、単に、動物としての存在にしか過ぎない。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体とは、人間の組織・集合体である。例えば、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルがある。例えば、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我がある。人間は、一人でいても、孤独であっても、孤立していても、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、暮らしている。人間は、一日のうちでも、複数の構造体に所属し、複数の自我を持って行動するが、同時に、複数の構造体に所属することも、複数の自我を持つことはできない。例えば、街中を仲間と連れだって友人という自我を持って歩いている男性は、偶然、母親に出会うと、仲間には、友人という自我で母親を紹介し、母親には、息子という自我で仲間を紹介する。彼らも、コンビニという構造体に入れば、男子高校生という自我ははぎ取られ、一人の客という自我で行動しなければならなくなる。つまり、人間は、常に、ある一つの構造体に限定されて所属させられ、ある一つの自我を限定されて持たらされているのである。このように、人間は、毎日、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、常に、他者と関わりながら、社会生活を営んでいるのである。ある自我を持っているということは、ある構造体において、アイデンティティーを得たということである。アイデンティティーは、日本語では、自己同一と翻訳され、自己承認だけで成立するように思われているが、他者の承認が加わって、初めて成立するのである。むしろ、他者の承認があって、自己承認できるのである。それ故に、アイデンティティーを得たということは、自我を持つということであり、それは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーを得、アイデンティティーが確立された状態である。そうして、人間は、ある構造体の中で、自信を持って行動できるのである。さて、人間が最初に所属する構造体は、家族であり、最初の自我は、男児(長男、次男、三男など)、女児(長女、次女、三女など)である。さて、人間は、自我を持つと同時に、深層心理が、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。快感原則とは、快楽を求める欲望である。深層心理とは、人間の、自分自身では意識していない、心の働きである。深層心理は、人間に意識されず、人間の意志によらず、自ら、動くのである。それ故に、人間は、自我の欲望は、心の底から湧いてくるように感じるのである。しかし、深層心理は、無作為に自我の欲望を生み出しているのではない。深層心理は、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。深層心理の働きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味している。つまり、深層心理が、快感原則に基づいて、人間の無意識のうちに、人間の意志によらず、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、深層心理が思考して生み出した感情の中で、深層心理が思考して生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを思考し、その結果、意志によって行動するのである。表層心理とは、人間の意識、意識しての思考、意志、意志による行動である。現実原則とは、自我に現実的な利益をもたらそうとする欲望である。さて、フロイトの説く、エディプスの欲望とは、男児が、家族という構造体の中で、長男、次男、三男などの自我を持ち、深層心理が、快感原則に基づいて、思考し、母親に恋愛感情という欲望を抱くことである。エディプス・コンプレクスとは、男児は、表層心理で、現実原則に基づいて、父や周囲の人々から家族という構造体から追い出されないために、母親に対する恋愛感情という欲望を抑圧することである。男児は、自分の意志で、意識して、思考して、すなわち、表層心理で、思考して、母親に恋愛感情を抱いたのではない。男児の深層心理が、快楽を得ようという快感原則に基づいて、思考して、母親に恋愛感情という欲望を抱いたのである。そして、男児は、表層心理で、現実原則に基づいて、思考して、母親に対する恋愛感情という欲望を抑圧したのである。人間は、深層心理が思考した結果を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、思考するのである。このように、人間は、深層心理が、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、まず、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、そのすぐ後、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、思考し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令のままに行動するかどうかを決めるのである。だから、人間は、エディプス・コンプレクスのように、表層心理で、深層心理が出した行動の指令のままに行動しないことを決断することがあるのである。なぜならば、深層心理は快感原則に基づいて思考するから、深層心理が出した自我の欲望の行動の指令の中には、表層心理の現実原則に相容れないものが存在するからである。深層心理の快感原則は、道徳観や将来に対する配慮を有さず、ひたすらその時快楽を得ることを目的としているからである。だから、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、思考し、深層心理が出した行動の指令を、意識して、意志で抑圧しなければいけない時があるのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、表層心理の抑圧は功を奏さず、深層心理が生み出した感情に押し切られ、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに動いてしまうのである。それが感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。ストーカーの行動とは、深層心理が生み出した未練の感情が強いために、表層心理で、その行動を抑圧できなかった、悲劇・惨劇である。さらに、人間は、時には、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動することがある。それが、無意識の行動である。無意識の行動は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して思考することが必要ではないような、安心できる、毎日繰り返す行動、つまり、ルーティーンのことが多い。ニーチェが、森羅万象の動きと同じように、人間の生活行動を、永劫回帰(同じことを永遠に繰り返すこと)と言ったのは、人間の無意識の思考である深層心理は、習慣的な行動を選ぶ傾向にあり、人間の意識しての思考である表層心理も、思考する苦労から免れるためである。つまり、人間は無意識の行動を毎日繰り返しやすいのである。だから、人間は、毎日、同じような時間に家を出て、同じ会社や学校という構造体に行き、同じ社員や生徒という自我を得て活動し、同じような時間に退社・下校し、同じ家族という構造体に戻り、同じ父・母・息子・娘という自我を得て、生活するのである。さて、先に述べてように、人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。快感原則とは、快楽を求める欲望だが、それは、他者に認められたい、他者を支配したい、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという三種類の欲望を満足させることによって得ることができる。深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出す。深層心理は対象や他者を対自化することによって、対象や他者を支配したいという欲望を生み出す。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。若者が有名大学や有名会社に入ろうとするのは、深層心理が、日本という構造体の中で、日本人という自我を日本人全体の他者に対して対他化することによって、日本人という自我を日本人全体に認めてもらいたいという欲望があるからである。国会議員が総理大臣になろうとするのは、深層心理が、日本という構造体の中で、総理大臣という自我で、国民という他者を対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに日本を動かすことができれば、支配欲を満足させることができ、充実感があるからである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに快楽を得ることができるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。男児は、家族という構造体から追放されないために、母親に対する恋愛感情というエディプスの欲望を抑圧したのである。このように、人間は、人間の無意識のうちで、深層心理が、快感原則によって、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が動くのである。深層心理が動いて、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。その後、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令の採否を考えるのである。それが理性と言われるものである。理性と言われる表層心理の思考は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定するのである。行動の指針を抑圧して行動しないことを決定するのは、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。しかし、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理は、意志で、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出そうとするのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。その時、理性による思考は長く続き、それは苦悩であるが、偉大な思想を生み出すこともあるのである。偉大な思想とは、常に、苦悩を伴うのである。芸術も、また、理性の行為である。芸術は、苦悩を作品化して、苦悩を支配する行為なのである。芸術は、理性と同じように、自我の対他化による苦悩で始まるが、その苦悩を作品化して、対自化する行為なのである。人間は、自己の世界を切り開くには、自我の対他化による苦悩を、理性によって、思想によって支配するか、芸術によって、作品化して、支配するしかないのである。それが、対他化という被支配から対自化という支配へと行く道なのである。