あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

愛という名の執着心について(自我その249)

2019-11-06 20:41:09 | 思想
人間は、何かに執着しているから、目標を持つことができ、それに向かって行動することができ、目標をかなえられれば、喜びと満足感を得ることができる。しかし、人間は、何かに執着しているから、目標を持たされ、それに向かって行動させられ、目標を達成できなければ、哀しみと苦悩を味わうのである。しかし、何ものにも執着していなければ、人間は、何かするか迷ってしまい、行動が取れなくなるだろう。しかし、執着心は、意識して、意志で、湧いてくるのではない。いつのまにか、心が、何かに執着しているのである。自ら、意識して執着しているのではない。だから、執着している自らの心情に気付き、意識、自らの意志で、執着心を取り除こうとしても、取り除けるものではない。しかも、人間は、毎日、執着するものが異なることはない。毎日、同じことに執着している。つまり、人間は、その無意識の心の働きに動かされているのである。その無意識の心の働きを深層心理と言う。意識して、意志して行おうとする心の働きを表層心理と言う。愛とは、執着心を意味する。同じように人を好きになっても、愛と恋は異なる。愛は、カップルという構造体で成立し、二人が恋人という自我を持った時から始まる。その時、恋愛関係が成立したのである。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間として行動できるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、人間は、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理という無意識が自我を持つのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。さて、相手に知られていない恋慕である片思いは、カップルという構造体がまだ形成されていず、恋人という自我がまだ存在しないから、愛とは言わない。恋である。一般に、人間は、相手に自分の思いをつげ、相手に拒否されたら、恋で終わる。愛まで発展しない。しかし、それでも、相手を諦めきれなければ、一方的ではあるが、愛に発展する。それは、自分一人で、カップルという構造体を作り、恋人という自我を持ったからである。人間とは、観念の動物であり、深層心理が気持ちを作るから、誤解によって、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を持つことができる。いくらでも、愛を形成できる。ストーカーも、また、愛を持った者の行動である。カップルという構造体が、実際に壊れていても、カップルという構造が初めから存在していなくても、恋人という自我を持っている者には、愛が存在しているのである。愛とは、執着心だからである。さて、愛は恋愛だけでなく、愛国心、家族愛、県民愛、愛校心、愛社精神などさまざまなものがある。それぞれ、国という構造体の構造体の中で国民という自我を持ち、国という構造体の構造体の中で国民という自我を持ち、県という構造体の構造体の中で県民という自我を持ち、学校という構造体の構造体の中で生徒という自我を持ち、会社という構造体の構造体の中で国民という自我を持ち、自我に執着して、目標を持って行動しているのである。自我に執着する心が愛なのである。愛があるから、目標ができるのである。そして、目標を達成できれば、喜びと満足感を味わい、目標が達成できなければ、哀しみと苦悩を味わうのである。悲しみと苦悩を味わわないために。仏教が、愛を煩悩の根源だとして、それを絶つことを勧めたのは正しい。愛を絶てば、哀しみと苦悩を味わわなくて済むからである。しかし、愛を絶てば、生きる目標を見出すことはできない。即身成仏となり、人間ではなくなる。愛は人間を救いもし、愛は人間を滅ぼしもするのである。有史以来、人間は、愛という執着心に惑わされてきた。現在のところ、これからも、惑わされるしかないように思われる。人間は、大海に浮かぶ小舟のような存在である。