あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

欲望とは何か。(自我その256)

2019-11-15 19:41:28 | 思想
人間は、欲望によって動かされている。欲望とは、感情と行動の指令である。だから、人間は、行動できるのである。しかし、人間は、自分で意識して、自分の意志で欲望を生み出すことはできない。欲望は、人間の心の奥底から湧き上がってくるのである。この、人間が、自らは意識せず、自らの意志で行われていない心の働きを深層心理と言う。そして、自分で意識して、自分の意志で行う心の働きを表層心理と言う。しかし、深層心理は、恣意的に、感情と行動の指令という欲望を生み出しているわけではない。深層心理は、快感原則に基づいて、思考して、欲望を生み出しているのである。快感原則とは、フロイトの用語で、快楽を求める欲望である。例えば、男子高校生に訪れる食欲という欲望は、深層心理が、深層肉体(人間が自らは意識していない肉体の状態)を勘案して、食糧を求める感情と早弁をしろという行動の指令という形で、欲望となって現れるのである。だから、男子高校生が、早弁をし、それで食欲が満たされれば、快感を得るのである。しかし、人間は、必ずしも、深層心理の生み出した感情と行動の指令という欲望のままに行動しない。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した欲望を受けて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について意識して思考し、その結果、意志として行動するのである。現実原則とは、フロイトの用語で、現実的な利益を得ようという欲望である。つまり、人間は、表層心理で、意識して、現実原則に基づいて、行動の指令通りに実行するか、行動の指令を抑圧するかを審議するのである。だから、男子高校生は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して思考し、早弁をすれば、先生に叱られるやクラスの女子生徒たちに軽蔑されると思えば、早弁をしろという行動の指令を抑圧し、昼食時間まで待つのである。しかし、表層心理で、早弁をしろという行動の指令を抑圧することを決定し、昼食時間まで待つことを意志しても、深層心理が生み出した食糧を求める感情(食欲)が強過ぎると、昼食時間まで待つことができず、深層心理が生み出した早弁をしろという行動の指令のままに、早弁してしまうのである。また、早弁をできるのは、高校という構造体には、授業の合間に十分程度の休憩時間があるからである。そして、深層心理が早弁をしろという行動の指令を生み出せるのは、その自我が、男子高校生だからである。女子高校生という自我を持っている者には、深層心理は早弁をしろという行動の指令を生み出さない。また、男子高校生は、表層心理で、早弁をしろという行動の指令を抑圧し、昼食時間まで待とうと考えたのは、現実原則に基づいて、意識して思考し、早弁をすれば、先生に叱られるやクラスの女子生徒たちに軽蔑され、男子高校生という自我の立場が危うくなると判断したからである。人間は、深層心理にしろ、表層心理でにしろ、他者からの自我の評価が高かったり好まれたりすることを欲望する。それを、深層心理や表層心理による自我の対他化による欲望と言う。特に、深層心理は、最初に、欲望を生み出すから、その欲望は強い。また、高校という構造体に、男子高校生、女子高校生、先生という自我があるように、人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って生活している。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。だから、深層心理は、構造体の中で、快感原則に基づいて、自我を主体にして思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、人間は、構造体の中で、表層心理で、意識して、現実原則に基づいて、自我を主体にして思考して、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動するか、行動の指令を抑圧するかを審議し、その結果を、意志として行動するのである。広義の理性は、人間の表層心理での思考を言う。狭義の理性は、人間が、表層心理で、行動の指令を抑圧し、別の行動を考えることを言う。一般的に、狭義の理性が体系的で、深い思考を生み出す。ちなみに、安倍晋三首相が「桜を見る会」を私物化し、公私混同したことも、森田健作千葉県知事が千葉県の台風被災に際して、仕事を放り出し、被災地よりも自分の家の被災状況を見て回ったことも、両者とも、深層心理が、総理大臣の自我・千葉県知事という自我を主体にして思考し、快感原則の思考による行動の指令の通りに行動したからである。彼らは、表層心理で、現実原則で思考しても、両者とも支持率が高かったから、「桜を見る会」を私物化しても、被災地の状況を無視しても、国民・千葉県民という他者の評価を気にしなくてもよい、下がっても高かが知れていると判断し、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動したのである。両者とも支持率が高かったから行ったことであり、彼らの行動の愚かさは、国民・千葉県民の愚かさを意味しているのである。
このように、深層心理は、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。愛情から、守れ、尽くせ、一緒にいろという行動の指令を生み出し、憎しみの感情から、悪口を言え、殴れ、蹴れ、挙げ句の果てには、殺せなどという行動の指令を生み出す。深層心理の活動は、表層心理から見ると、見通しが利かない底なし沼のようなものであるが、表層心理と深層心理は、ある時には一心同体となり、ある時には二心同体となるが、同体であることには変わりないから、表層心理は、深層心理が生み出した自我の欲望を身をもって処理しなければならない。深層心理は、常に自我の欲望が生み出し、それが、人間を動かしているから、キリスト教には、懺悔という儀式が必要なのである。神の代理とされる司祭に、悪事を犯していなくても、悪なる心を抱いただけでも、それを告白し、許しと償いの指定を求めるのである。地球上の人間が、もしも、全員、キリスト教徒ならば、人間全員が懺悔しなければならないだろう。当然、司祭自身も、懺悔しなければならない。さて、それでは、なぜ、深層心理は、悪なる心を生み出すことがあるのか。それは、深層心理は、快感原則に基づいて、自我が他者に認められること、そして、自我の存続・発展に執着して、自我を動かそうとしているからである。深層心理には、道徳心は存在しないのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、快感原則に基づいて、自我が他者に認められること、そして、自我の存続・発展のために、心の奥底で、思考し、感情と共に行動の指令という自我の欲望を生み出している。ラカンの「無意識は言語によって構造化されている。」という言葉はこの謂である。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って、論理的に思考していることを意味している。深層心理が感情と共に行動の指令という自我の欲望をを生み出した後、表層心理は、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令を審議する。審議の結果、表層心理が、深層心理が出した行動の指令のままに行動することを選択すれば、それは、表層心理の意志による行動となる。表層心理が、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを選択すれば、その通りに行動せず、その代わり、自ら、行動を考え出そうとして、理性による深い思考を始める。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、表層心理が深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、抑圧できず、そのまま行動することになる。これが、所謂、感情的な行動であり、犯罪に繋がることが多い。また、稀れには、表層心理が意識せず、深層心理が出した行動の指令のままに、行動することがある。これが、所謂、無意識の行動である。さて、人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動しているが、具体的には、構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。そして、自我を動かしているのが、深層心理である。まず、深層心理が、快感原則に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それによって、人間の心は動き出すのである。意志や意識という表層心理の現実原則の思考は、深層心理の動きがあった後で、初めて、動き出すのである。さて、深層心理の自我の欲望は、どのような機能によって、生まれてくるのだろうか。それは、対自化・対他化・共感化という三機能のいずれかによって生まれてくるのである。対自化とは、人間が、他者や物やことに対した時、それをどのように利用するか、それをどのように支配するか、彼(彼女)がどのように考え何を目的としているかなどと考えて、対応を考えることである。特に、他者に対しては、征服欲・支配欲の視点から観察し、できうれば、征服欲・支配欲を満たしたいと思っている。ニーチェの「権力への意志(力への意志)」の思想は、対自化の機能を認め、積極的に推し進めようとする思想である。対他化とは、人間は、他者に対した時、自分が好評価・高評価を受けたいという気持ちで、彼(彼女)が自分をどのように思っているか、相手の気持ちを探ることを言う。言わば、被征服・被支配の視点である。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」と言う言葉は対他化を普遍化させたものである。この言葉の意味は、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」である。共感化とは、敵や周囲の者に当たるために、他者と協力したり、友情を紡いだり、愛情を育んだりすることを言う。敵や周囲の者と対峙するために、他者と愛し合ったり協力し合ったりして、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにすることが目的である。ところで、一般に、人間は、他者に対した時、自分の自我(ポジション)が相手より強い・優位であると思えば、相手を対自化して、相手の思いを探り、相手を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。人間は、自分の自我(ポジション)が相手より弱い・優位であると思えば、自らを対他化して、相手が自分のことをどのように思っているか探る。人間は、自我が不安な時は、他者と共感化して、自我の存在を確かなものにしようとする。このように、人間は、常に、深層心理が対自化・対他化・共感化の三機能のいずれかを働かせて、自我が他者から認められること、そして、自我の存続・発展を図っているのである。さて、「子供は正直だ。」と言われ、賞賛されるが、実際は、子供は、深層心理が生み出した自我の欲望に正直だから恐ろしい面もあるのである。人間、誰しも、自分の趣向にあった、好きな人や心を許せる人と、楽しく暮らしたいと思っている。子供でも、それは、同じである。毎日のように、クラスという同じ構造体で、生徒という自我を持って暮らしていると、必ず、自分が好きな人、自分を好きな人、自分が嫌いな人、自分を嫌う人が出てくる。自分が相手を嫌いになれば、相手がそれに気付き、相手も自分を嫌いになる。相手が自分を嫌いになれば、自分もそれに気付き、自分も相手を嫌いになる。つまり、片方が嫌いになれば、相互に嫌いになり、その関係が固定するのである。また、嫌いになった理由は、意地悪をされたからとか物を盗まれたからというような明確なものは少ない。多くは、自分でも気付かないうちに嫌いになっていて、嫌いになったことを意識するようになってから、相手の挨拶の仕方、話し方、笑い方、仕草、雰囲気、態度、声、容貌など、全てを嫌うようになる。好き嫌いは、深層心理が決めることだから、その理由がはっきりしないのである。しかし、自分が明白には気付かない、たわい無いことが原因であることが多いのである。しかし、一旦、自分が相手を嫌いだと意識すると、それが表情や行動に表れ、相手も自分も嫌いになり、同じ構造体で、共に生活することが苦痛になってくる。その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がしてくる。自分が下位に追い落とされていくような気がしてくる。いつしか、相手が不倶戴天の敵になってしまう。そうすると、深層心理は、相手を攻撃し、相手を困らせることで、自我が上位に立ち、苦痛から逃れることを指令するのである。自分一人で攻撃すると、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れないので、友人たちを誘うのである。自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、いじめを行うのである。友人たちも、仲間という構造体から放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。しかし、大人は、そういうわけには行かない。いじめが露見すれば、法律で罰せられ、最悪の場合、一生を棒に振るからである。もしも、相手が上司の場合、相手にセクハラ・パワハラがあれば、訴えれば良いが、気にくわないということだけでは、上司を更迭できない。逆に、それを態度に示すだけで、上司に復讐され、待遇面で不利になる。また、同輩・後輩が嫌いな場合、陰で悪口を言いふらして憂さを晴らす方法もあるが、自分がネタ元だと露見すれば、復讐されるだろう。だから、深層心理の言うがまに、相手を攻撃しないのである。子供は、自我の欲望に正直だから、悲劇・惨劇をもたらすのである。さて、ストレスという言葉をよく聞く。ストレスは、表層心理が、深層心理の自我の欲望を抑圧しことから生じる。表層心理が、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令を抑圧したことから、生じる。「現代社会はストレス社会だ。」と言われる。それは、誰しも、「現代社会は過去のどの時代よりも自由な時代だから、自我の欲望は抑圧する必要が無く、かなえることができるはずだ。」と思っているからである。自由な社会なのに、自我の欲望を抑圧しなければいけないから、いっそう、ストレスを感じるのである。しかし、ストレスを感じない社会は、過去に存在しなかった。そして、未来においても、存在しないだろう。なぜならば、深層心理は、自我が他者から認められること、そして、自我の存続・発展を図ることしか考えず、道徳心が無く、善悪の区別無く、自我の欲望を生み出してくるから、表層心理で、それを抑圧しなければならないことが必ずあるからである。人間は、いついかなる時でも、深層心理が、自我のためだけに欲望が生み出してくるから、表層心理が、それを吟味し、実行すれば、自分に対して、他者に対して、社会に対して、不利益や害悪をもたらす欲望がそこに必ず存在するから、それを抑圧する必要があるのである。しかし、どのような自我の欲望でも、抑圧すれば、ストレスを感じる。だから、ストレスを全く感じること無く、自我の欲望をそのまま追求したいという人も存在するのが事実である。子供のいじめがそれである。大人のセクハラやパワハラのそれである。職場で、上司からパワハラやセクハラを受け続けた部下が、ストレスをため込み、鬱病に罹患するのは、パワハラやセクハラを受けた時、深層心理から反発や抵抗や反論や反撃などの自我の欲望が起こったが、表層心理が、その欲望を実行すれば、自分に不利益な結果を招来することを考慮して、自我の欲望を抑圧しからである。部下は、後に、その抑圧を後悔しているからである。上司の意のままになっているというように考え、自己の力不足を嘆き、ストレスをため込み、鬱病になってしまったのである。また、パワハラやセクハラを行った上司は、その地位や権威を利用した自我の欲望が深層心理から湧き上がり、それを実行したのである。上司は、パワハラやセクハラの自己の欲望を抑圧すれば、ストレスを感じるので、実行したのである。暗愚な上司は、自我の欲望を抑圧したことで、心の中で、自己の力不足を嘆き、ストレスを感じ、それをため込んでしまうので、パワハラやセクハラを行うのである。現実には、賢明な上司よりも、暗愚な上司が、断然、多いのである。なぜならば、会社には、上司を止める者がいないからである。だから、部下が団結して、若しくは、部下が外部の力を借りて、上司の欲望を阻止しなければいけないのである。権力者とは、常に、そういう者なのである。権力の旨味とは、自我の欲望を、思う存分に発揮できることなのである。さて、大人が、「子供は正直である。」と言って、子供の心を賞賛するのは、子供は、大人のように、自分に利益をもたらすために、ごまかしたり、策略を用いたりして、悪事を働くことはないと思いたいためである。大人は、たとえ、子供は悪いことをしても、簡単に露見し、注意すれば、素直に従うと思いたいからである。しかし、子供も悪事が露見すれば、友人や他の子供のせいにする。正直に白状することがあるのは、言い逃れをするだけの知恵が無いからであり、正直に言えば、許される可能性が高いことを知っているからである。全国各地において、小学校の低学年の頃から、弱者に対して、陰湿ないじめが長期にわたって繰り返されている。確かに、大人に比べて、悪事のレベルは低いから、犯罪に問われないだけで、悪事の件数から言えば、決して、大人に引けは取らない。それは、各人が、自分の子供時代を振り返ってみればわかることである。自分は、子供時代には、純真だったが、次第に、心が汚れてきたと、誰が言えるだろうか。人間は、子供の頃から、汚れており、不正直なのである。それは、人間は、子供時代から、自我の欲望があり、その欲望は、深層心理から上ってくるからである。それでも、大人が、「子供は正直である」と言いたいのは、大人は、「せめて、子供だけでも、純真な心を持ってほしい」と願っているからである。まさに、「人は自己の欲望を他者に投影する」のである。また、もしも、子供が純真な心の持ち主ならば、少年法は不要だろう。そもそも、正直であることは良いことなのだろうか。正直であるとは、自我の欲望に忠実であるということである。言いたいことを言い、したいことをするということである。深層心理から、自我が他者から認められ、自我の存続・発展のために、いろいろな自我の欲望が湧き上がってくる。表層心理が、取捨選択して、抑圧しなければ、とんでもない社会になる。犯罪社会になり、短期間で、人類は絶滅する。つまり、人間は、深層心理の自我の欲望に忠実でないから、換言すれば、人間は正直でないから、人間社会が成り立っているのである。さて、自己の欲望を忠実に実行できると思っているのは、権力者である。現代においては、政治家である。しかし、政治家が、地方遊説に行くと、大衆が、喜色満面で、歓声を上げて、彼を取り囲む。それを見ても、ニーチェが「大衆は馬鹿だ。」と言うのは納得できる。マルクスは、政治的・経済的な支配権をめぐって、支配階級に対して、被支配階級が階級闘争を起こすことを提唱したが、現代社会においては、それに加えて、人権をめぐっても、階級闘争を起こす必要があるのである。キリスト教徒は、長年、「全知全能の神が、なぜ、善なる心だけでなく、悪なる心を抱く、人間を創造したのか。」という課題に取り組み、いろいろな解答を出してきた。しかし、人間は、自我の欲望の動物であり、自我の欲望は深層心理から湧き上がってきて、深層心理には、善悪の判断はないから、人間の心に、善悪が同居するのは当然のことなのである。さらに、キリスト教徒は、簡単に、善と悪について述べるが、善とは何か、悪とは何かという思考を深めていないのである。例えば、第二次世界大戦の末期、何度も、ヒートラーの暗殺未遂事件があり、彼らは、皆、処刑されているが、彼らは善なる心を抱いていたか悪なる心を抱いていたか。キリスト教徒はどのように答えるのだろうか。簡単に、善とか悪とか決められないはずであり、決めてはいけないのである。人間が生きていくということは、自我の欲望に対して不正直を重ねることである。しかし、それは、必要なことである。