あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自殺する価値のある人間関係は存在しない。(自我その188)

2019-08-19 19:28:47 | 思想
人間は、自我と好み(趣向性)の動物である。しかも、自我は深層心理によって動かされ、好み(趣向性)も深層心理によって決められているのである。つまり、人間は、自分の意志という表層心理で、自我も動かせず、好み(趣向性)も決められないのである。人間は、深層心理の動きの後で、表層心理で、深層心理によって生み出された自我の感情と行動の指針や好み(趣向性)を意識し、それを自分の意志で生み出したと思い込んでいるのである。人間は、深層心理が、自我を動かし、好み(趣向性)を決めていることで、一つの不幸があり、それを、表層心理の意志で行っていると誤解していることで、もう一つの不幸があるのである。さて、それでは、自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。それでは、構造体とは何か。それは、人間の組織・集合体である。人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動しているのである。構造体に所属していない行動は存在しない。また、自我を持たない行動も存在しない。構造体と自我の関係については、具体的に言えば、次のようになる。家庭(家族)という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、クラスという構造体では、担任・クラスメートなどの自我があり、クラブという構造体では、顧問・部員・先輩・同輩・後輩などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があるのである。それでは、深層心理は、自我をどのように動かそうとしているのか。それは、自我の欲望に向かってである。それでは、自我の欲望とは何か。自我の欲望とは、自我の評価(他者からの評価)・存続・発展、そして、構造体の評価(他者からの評価)・存続・発展を求めることである。深層心理は、構造体において、自我のポジションの役目を果たさせ、他者から認めてもらい、構造体においての自我の存在を安定させ、できれば、高い地位に上らせようと考える。さらに、深層心理は、自我は構造体の存続・発展にも尽力するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、構造体のために、自我が存在するのではなく、自我のために、構造体が存在するのである。しかし、時には、自我の欲望が満たされないことがある。すなわち、他者から認めてもらえないのである。その時、苦悩が訪れる。いじめとは、他者から認められないばかりか、他者から、嫌われ、攻撃を受けることである。その時、苦悩は頂点に達することは容易に想像できる。さて、小学生・中学生・高校生は、固定されたクラスという構造体で、毎日、同じクラスメートと暮らしていると、必ず、嫌いなクラスメートが出てくる。好きなクラスメートばかりでなく、必ず、嫌いなクラスメートが出てくるのである。先に述べたように、人間は、好き嫌いの判断・感情を、自ら意識して、自らの意志で、行っているわけではない。意志や意識という表層心理とは関わりなく、深層心理が嫌いなクラスメートを出現させるのである。しかし、生徒は、クラスに嫌いなクラスメートがいても、それを理由にして、自分が別のクラスに移ることもその嫌いなクラスメートを別のクラスに移すことも許されない。わがままだと非難されるから、また、恥ずかしくて、言えない。しかし、クラスという閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いなクラスメートと共に生活することは苦痛である。トラブルが無くても、そのクラスメートがそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。いつしか、不倶戴天の敵になってしまう。すると、自らの深層心理が、自らに、その嫌いなクラスメートに対して攻撃を命じる。しかし、自分一人ならば、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れない。そこで、自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、いじめを行うのである。友人たちは、仲間という構造体から、自分が放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。担任の教師も、いじめに気付いていても、いじめている生徒たちはクラスのイニシアチブを握っていることが多く、彼らを敵に回すと、クラス運営が難しくなるから、いじめに気付いても、厳しく咎めることはせず、軽く注意するか見て見ぬふりをするのである。また、いじめられている生徒というのは、クラスメート間で力が無いからいじめられるだけでなく、往々にして、担任の教師の言うことをそのままを実行する力が無いから、担任にとっても、嫌いな生徒の部類に属し、積極的に助ける気にならないのである。往々にして、よく、いじめが原因で自殺した生徒が出ると、担任の教師はいじめられているのに気付かなかったと言う。しかし、それは、嘘である。毎日、顔を合わせているのに、知らないはずが無い。また、クラブという閉ざされ、固定した構造体においても、同じである。生徒は、毎日、同じ部員と活動していると、必ず、嫌いな部員が現れる。しかし、クラブの参加は自由だと言われながらも、退部や転部は、顧問の教師が恫喝し、担任の教師や親が反対し、他の部員たちが白い目で見るから、その部に留まるしか無いのである。しかし、クラスと同じく、クラブという閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いな部員と活動することは苦痛であり、その生徒から攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。すると、深層心理が、その生徒に対して攻撃を命じる。しかし、クラスと同じく、自分一人ならば、周囲から顰蹙を買うかも知れないから、自分に、仲間という構造体があり、共感化する友人たちがいるので、友人たちに話し、友人たちが加勢し、いじめが可能になるのである。顧問の教師も、同じである。毎日、同じ部員たちに接していると、必ず、嫌いな部員が出てくる。これも、自分の意志で嫌いになろうと思ってそうなるのではなく、深層心理が嫌いな部員を出現させるのである。生徒と同じく、クラブという閉ざされ、固定された空間で、毎日、嫌いな部員に接することは苦痛であり、その部員から攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。すると、深層心理が、その部員に対して攻撃を命じる。ここは、生徒と違い、顧問の教師は、部員に対して権力があり、クラブは鍛錬の場であるという言い訳が利くから、部員に辛く当たっても、許されると思い、体罰を行うのである。そして、苦痛から逃れ、心を癒やそうとするのである。しかも、クラブは、顧問の教師と部員、先輩と後輩の上下関係を中心に動いているから、顧問の教師が、嫌いな部員から、何かの形でプライドが傷付けられると、容易に、体罰の形になって、復讐心を発揮する。よく、自分の体罰が原因で自殺した部員が出ると、顧問の教師は、指導の一環だったと答える。しかし、それは、嘘である。その部員が嫌いだったから、厳しく当たり、体罰を加えたのである。さて、先に述べたように、人間の深層心理は、他者を好悪する機能を有している。だから、人間には、いつの間にか、無意識のままに、好きになる人ができ、嫌いになる人ができるのである。だから、クラスという構造体にも、クラブという構造体にも、嫌いな人ができるのは当然のことである。しかし、クラスという構造体にしろ、クラブという構造体にしろ、閉ざされ、固定した空間であるから、嫌いなクラスメートや部員ができても、毎日顔を合わせなければいけない。そこに、問題が生じるのである。毎日顔を合わせ、その度に苦痛を感じ、心が傷付く。そして、その復讐のために、いじめを行うのである。だから、クラスやクラブという構造体が閉ざされ、固定した空間である限り、いじめが無くなることは無いのである。小学校・中学校・高校も、大学のように、授業を受ける時は、生徒自らが教室を移動し、クラスという閉ざされ、固定した構造体で無くなれば、いじめは激減し、自殺する生徒はいなくなるだろう。中学校・高校のクラブという構造体も、転部、退部が自由という解放された空間にすれば、いじめは激減し、自殺する生徒はいなくなるだろう。しかし、日本人の多くは、小学校、中学校、高校という構造体においては、クラスやクラブを閉ざされた構造体にし、固定したクラスメートたち、固定した部員たち、固定した担任の教師、固定した顧問の教師にしなければ、有効な指導ができないと思っている。だから、クラスやクラブという構造体が解放されることは無いのである。それ故に、日本の小学校・中学校・高校から、いじめが激減することも、いじめによる自殺者がいなくなることも、永遠に無いのである。さて、八月末、九月初め、小学生・中学生・高校生に、他の時期より、自殺する生徒が多い。言うまでもなく、夏休みが終わり、二学期が始まるからである。二学期になると、自由な家庭という構造体に一日中いることが許されず、不自由な学校という構造体に所属しなければならないからである。学校には、避けることのできない、嫌な人間関係が待っている。その最たるものが、いじめである。いじめにあっている生徒が、八月末、九月初めに、自殺を考えるのは当然のことである。そのような生徒は、学校に行かなければ良いのである。家庭という構造体にとどまれば良いのである。そもそも、なぜ、子供は、学校に行くのか。フロイトは、人間の行動には、二つの大きな原則があると言う。現実原則と快感原則である。現実原則とは、必要性に駆られて行動するということである。快感原則とは、楽しさや喜びを求めて行動するということである。それでは、子供が学校に行くことに対して、この二原則を当てはめると、どのようになるだろうか。子供は、勉強の必要性を理解していない。だから、現実原則で、学校へ行くわけではない。それでは、快感原則が理由だろうか。確かに、成績の良い子は、教師や親やクラスメートに褒められるから、学校に行くのは楽しいだろう。しかし、ほとんどの子供は、勉強の必要性が実感できず、おもしろみを感じていないのである。しかし、それでも、学校に行くのはなぜか。それは、ラカンの言葉が説明している。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」と言っている。この言葉の意味は、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」である。つまり、子供は、親や教師の思いに応えて、他の子供が学校に行くから、学校に行くのである。つまり、子供は、主体的な判断をしていないのである。主体的な判断をしていないことは、疑問に思う時が来たり、取り下げようと思う時が来たりするのは当然である。学校に行く必要性も楽しさも感じられない上に、学校に行けば、必ず、いじめられるのだから、学校に行かないことを考えるのは当然のことである。しかし、子供は、学校に行かないことを決断できないのである。それは、他の子供が所属している構造体に、自分だけが所属しないということの不安からである。そして、親の期待に応えられないという申し訳なさからである。この、学校へ行く・行かないことのどちらも決断できないという苦悩から、自殺を選ぶ生徒も出てくるのである。しかし、自殺は邪道である。こんな時は、思い切って、学校に行かないことを選ぶべきである。家庭という構造体にとどまるべきである。なぜならば、人間を含めて、全ての動物の肉体は、どのような場合でも、常に生きようという意志を持っているからである。自分の肉体を裏切る行為は、断じて、するべきではない。常に、自分の味方になるのは、自分の肉体だからである。また、自分が嫌われ、いじめられているのは、自分に大きな欠点があると思い込み、自分を責める生徒が多いが、それは誤りである。人間の好きも嫌いも、深層心理が決めることであり、その理由は取るに足りないことなのである。嫌いが高じて、いじめに発展するのは、クラスもクラブも、閉ざされた、固定した形態を取っているからである。だから、このような形態にしている、日本の大人の考えが間違っているのである。また、いじめる生徒たちも人格が劣っているが、いじめを防止しなければいけない担任教師も顧問教師も、時には、いじめに加担することがあり、いじめに加担していなくても、いじめ自殺事件が起きると、例外なく、校長も教頭も全教師も、被害生徒や被害家族の気持ちを考えず、事件を隠蔽し、保身に回るから、人格は劣っている。そのような教師たちに義理立てせず、学校を行かないようにすれば良いのである。さらに、親に申し訳ないと思うのならば、自殺すれば、更に、親を悲しませることを考慮すべきである。取り返しが付かないことであることを考慮すべきである。