あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層肉体と深層心理(自我その194)

2019-08-25 19:48:27 | 思想
人間は、肉体にも精神にも、生来、生きる意志がある。だから、人間は、生きていけるのである。しかし、それは、自分が意識して生み出している意志ではない。言わば、肉体そのもの、精神そのものに、生来、備わっている意志である。この、自らが意識する前に、既に、生きる意志を持って存在している肉体を深層肉体、生きる意志を持って存在している精神を深層心理と言う。しかし、深層肉体にも深層心理にも、共通して、生きる意志が存在するが、その方向性は、必ずしも、一致しない。聖書に「人はパンのみにて生くるものにあらず。」とあるが、パンを求めているのが深層肉体であり、パン以外のものを求めているのが深層心理である。それ故に、深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持っていると言える。それ故に、深層肉体の意志は、単純明快である。しかし、深層心理の意志には、人間関係が絡んで、二つの欲望が存在するから複雑である。一つの欲望は、自我(ステータス、社会的な位置、社会的な地位、社会的なポジション)を起点にして、他者から認められたいという自我の欲望である。もう一つの欲望は、好み(趣向性)を起点にして、ひたすら快楽を追求しようという欲望である。しかし、自我の欲望にしろ、快楽を追求する欲望にしろ、かなえられれば、満足感・喜びを得ることができるという点では、同じである。さて、人間に、自殺する人が存在するが、それは、深層肉体の意志ではない。深層肉体の意志とは、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志であるからである。もちろん、自殺するにはそれなりの理由があろうが、しかし、深層肉体の意志を無視して、自らの手で自らの肉体を破壊するほど愚かなことは、この世に存在しない。詩人の石原吉郎は、シベリア抑留を経験し、劣悪な環境を生きのびて、「人間は、どんな環境にもなじむものだ。」と言っている。これが、深層肉体の意志である。作家の武田泰淳は、太平洋戦中、中国大陸で、日本の軍人たちが、中国の庶民に対して、略奪、拷問、レイプ、虐殺を繰り返しているのを目の当たりにし、彼らが、戦後、帰国すると、何の良心の咎めなしに、のうのうと暮らしているのを見て、「人間は、何をしても生きていくものだ。」と言っている。これが、深層肉体の意志である。作家の大岡昇平は、太平洋戦争前、中、後の日本の軍人たちや庶民の生き方を見て、「ずるい人間は、どんな環境においても、ずるく生きのびるものだ。」と言っている。これが、深層肉体の意志である。また、深層肉体は、肉体に損傷・損壊箇所があると、本人(肉体保持者)に肉体的な苦痛を与え、深層心理は肉体のその部分に損傷・損壊があることに気付き、表層心理がその損傷・損壊部分の治療方法と今後の対策を考えるのである。表層心理の思考は、苦痛から始まり苦痛の消滅で終了する。例えば、指の怪我であるであるが、時系列で言えば、指に怪我したからこそ苦痛があるのであるが、本人(肉体保持者)は、最初に指に苦痛を感じ、それによって、指の怪我に気付くのである。つまり、指に苦痛があるからこそ、本人(肉体保持者)の深層心理は、指に着目し、出血している指を発見し、表層心理が、その指の苦痛から解放されようとして治療に専念し、次に、二度とこの苦痛を味わうことの無いように、これからは慎重に包丁を扱おうというように、今後の対策を講ずるのである。つまり、指の怪我に限らず、苦痛があるからこそ、本人(肉体保持者)の深層心理は、その部分が損傷・損壊していることに気付き、表層心理が、その苦痛から解放されるために、その損傷・損壊部分を治すための方法を考え出そうとするのである。苦痛があるからこそ、人間は、損傷・損壊の原因を考え、二度と同じ過ちを犯さないように対策を講ずるのである。それ故に、苦痛からの解放が、損傷・損壊箇所の治療と対策の終了をも意味するのである。もちろん、苦痛が無くなっても、損傷・損壊箇所が十分に治癒していない場合もあるが、それでも、たいていの場合、このまま放置していても、自然に治癒する段階に来ているのである。深層肉体が、このまま放置していても、自然に治癒する段階に来ていると判断したから、苦痛を送らないのである。だから、もしも、苦痛が無ければ、人間は、ほとんどの場合、肉体に損傷・損壊があってもそれに気付かないのである。もちろん、表層心理で、治療やその後の対策を考慮するはずも無い。だから、肉体が損傷・損壊したならば、苦痛は必要なのである。逆に、人間は、どこにも、苦痛が無ければ、どこにも、肉体の損傷・損壊箇所は無いと判断しているのである。深層肉体の意志は、人間が生きのびるためには、必要不可欠なのである。次に、精神的な苦痛について説明することによって、深層心理と自我の関わりについて述べようと思う。深層肉体は、肉体に損傷・損壊箇所があると、本人(肉体保持者)に肉体的な苦痛を与え、深層心理は肉体のその部分に損傷・損壊があることに気付き、表層心理がその損傷・損壊部分の治療方法と今後の対策を考えるのであるが、深層心理も、精神に損傷があると、精神的な苦痛を覚え、感情と行動の指令を生み出し、表層心理が、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が出した行動の指令をそのまま実行するか、行動の指令を抑圧して別の行動を取るか考えるのである。ここでも、表層心理の思考は、苦痛から始まり苦痛の消滅で終了する。さて、精神の損傷とは対他存在の損傷のことである。対他存在の損傷とは、簡単に言えば、プライドの損傷である。対他存在とは、我々が、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、他者が自分がどのように見ているか気にしながら、暮らしているあり方である。対他存在の損傷、つまり、プライドの損傷は、他者からの評価が悪評価・低評価の時、起こるのである。その時、精神的に苦痛を感じ、その苦痛から脱するために、深層心理の思考が始まり、そして、それを受けて、表層心理が思考するのである。さて、我々は、いついかなる時でも、常に、家、会社、店、学校、仲間、カップルなどの構造体に所属し、家族関係、職場関係、教育関係、友人関係、恋愛関係などを結び、父・母・息子・娘、営業部長・経理課長・一般社員、店主・店員・客、校長・教頭・教諭・生徒、友人、恋人などのステータス・社会的な位置・社会的な地位・社会的なポジションを自我として暮らしている。漠然と暮らしているのではなく、常に、我々は、他者から自我の働きに対して、好評価・高評価を受けたいと思って暮らしている。それが、対他存在のあり方なのである。だから、他者から、自我が好評価・高評価をもらえれば嬉しいが、他者から、自我が悪評価・低評価を与えられたならば心が傷付くのである。これが、精神の損傷、プライドの損傷になり、精神的な苦痛をもたらすのである。そうすると、我々は、その苦痛から脱するために思考を始めるのである。苦痛から脱するために、対他存在の損傷、プライドの損傷を回復させる方策を考えようとするのである。深層心理が、感情と行動の指令を生み出し、表層心理が、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が出した行動の指令をそのまま実行するか、行動の指令を抑圧して別の行動を取るか考えるのである。このように、我々は、精神的にも肉体的にも、苦痛から、その損傷・損壊、その原因に気付き、苦痛から解放されようとして、思考するのである。つまり、肉体的な損傷・損傷も精神的な損傷も、その発見も治療も、苦痛を感じることが起点であり、苦痛が無くなることが最終地点なのである。つまり、苦痛の有無が、損傷の治癒のバロメーターになっているのである。それ故に、苦痛が我々の思考の源になっているのである。さて、先に、深層心理の意志には、他者から認められたいという自我の欲望と好み(趣向性)を起点にしてひたすら快楽を追求しようという欲望があると述べたが、次に、好み(趣向性)を起点にしてひたすら快楽を追求しようという欲望について、説明しようと思う。人間、誰しも、自分の趣向にあった、好きな人や心を許せる人と、楽しく暮らしたいと思っている。しかし、人間は、学校、会社、施設などのいろいろな構造体に所属することになるから、毎日のように、同じ構造体で暮らしていると、必ず、自分が好きな人、自分を好きな人以外に、自分が嫌いな人、自分を嫌う人が出てくる。自分が相手を嫌いになれば、相手がそれに気付き、相手も自分を嫌いになり、相手が自分を嫌いになれば、自分もそれに気付き、自分も相手を嫌いになるものである。だから、片方が嫌いになれば、相互に嫌いになるのである。また、嫌いになった理由は、意地悪をされたからとか物を盗まれたからというような明確なものは少ない。多くは、自分でも気付かないうちに嫌いになっていて、嫌いになったことを意識するようになってから、相手の挨拶の仕方、話し方、笑い方、仕草、雰囲気、他者に対する態度、声、容貌など、全てを嫌うようになる。好き嫌いは、深層心理が決めることだから、その理由がはっきりしないのである。自分が明白には気付かない、たわい無いことが原因であることが多いのである。しかし、一旦、自分が相手を嫌いだと意識すると、それが表情や行動に表れ、相手も自分も嫌いになり、同じ構造体で、共に生活することが苦痛になってくる。その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がしてくる。自分が下位に追い落とされていくような気がしてくる。いつしか、相手が不倶戴天の敵になってしまう。しかし、嫌いという理由だけで、相手を構造体から放逐できない。また、自分自身、現在の構造体を出て、別の構造体に見つかるか、見つかってもなじめるか不安であるから、とどまるしかない。そうしているうちに、深層心理が、嫌いな人を攻撃を命じるようになる。深層心理は、相手を攻撃し、相手を困らせることで、自我が上位に立ち、苦痛から逃れようとするのである。ここで、小学生・中学生・高校生ならば、自分一人で攻撃すると、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れないので、友人たちを誘うのである。自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、いじめを行うのである。友人たちも、仲間という構造体から放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。しかし、大人は、そういうわけには行かない。いじめが露見すれば、法律で罰せられ、最悪の場合、一生を棒に振るからである。もしも、相手が上司の場合、相手にセクハラ・パワハラがあれば、訴えれば良いが、気にくわないということだけでは、上司を更迭できない。逆に、それを態度に示すだけで、上司に復讐され、待遇面で不利になる。また、同輩・後輩が嫌いな場合、陰で悪口を言いふらして憂さを晴らす方法もあるが、自分がネタ元だと露見すれば、復讐されるだろう。だから、深層心理の言うがまに、相手を攻撃してはいけないのである。では、どうすれば良いか。言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接すれば良いのである。しかし、それは、偽善ではない。確かに、深層心理には、背いている。しかし、相手を嫌いな理由が、不明瞭であるかたわいないものであるのだから、相手には不愉快な思いをさせず、自分も迷惑を被っていないのだから、これが最善の方法なのである。もしも、第三者に納得できるような明瞭なものであるならば、既に、訴えるか、誰かに相談しているはずである。訴えることもできず、誰にも相談できないような理由だから、一人で抱え込み、悶々と悩んでいるのである。確かに、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接することは、自尊心が傷付けられるかも知れない。しかし、幼い自尊心は捨てるべきである。「子供は正直だ」と言われるが、深層心理に正直な行動は子供だから許されるのである。深層心理に正直な行動は、瞬間的には憂さは晴れるかも知れないが、後に、周囲から顰蹙を買い、相手から復讐にあい、嫌いだという不愉快な感情を超えて、自らを困難な状況に追い込んでしまうのである。また、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接していると、相手が自分のことを好きになり、自分も相手を好きになることがあるのである。少なくとも、人に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接している限り、誰からも、非難されることは無い。だいたい、人間は、好きや愛の感情にとらわれすぎているのである。好きや愛の感情にとらわれすぎるから、嫌いの感情が高じて憎しみになるのである。嫌いになった理由がたわい無いことであるように、好きになった理由もたわい無いことなのである。スタンダールが言っているように、相手がすばらしいのでは無く、自分がたわい無いことで相手を好きになり、自分で思いを勝手に結晶化させて、愛へと高めたのである。自分で思いを勝手に結晶化させた愛の感情だから、相手の自我の欲望に気付いて、幻滅し、別れを告げなければならなくなるのである。自分で思いを勝手に結晶化させた愛の感情のままの状態で、相手の自我の欲望に気付いていないから、相手から別れを告げられると、ストーカーになるのである。カップルや夫婦の破局が多いのは、相手の自我の欲望に気付かず、愛したからである。しかし、人間は、相手の自我の欲望を認めて、愛することは可能だろうか。







深層心理の自我の欲望としての感情と行動の指令(自我その193)

2019-08-24 20:28:45 | 思想
ニーチェの思想に「権力への意志(力への意志)」がある。権力への意志(力への意志)」とは、現世において、神を恐れず、名誉欲・支配欲・権力欲をひたすら追求しようという自我の欲望である。自己の欲望ではなく、自我の欲望である。個人の欲望ではなく、そのポジション(社会的な位置、地位、ステータス)にあるからこそ生まれた欲望である。確かに、ヒットラー、スターリン、トランプ、プーチン、習近平、金正恩、安倍晋三などは、総統、書記長、大統領、主席、委員長、首相というポジションを得たから、途方もない野望を抱いたのである。しかし、庶民と言えども、そのポジションに応じて、自我の欲望を抱くのである。しかし、「権力への意志(力への意志)」という自我の欲望は、人間が、意識して、意志して求めたものではない。人間の表層心理である意識や意志は、「権力への意志(力への意志)」という自我の欲望を生み出すことはできない。「権力への意志(力への意志)」という自我の欲望を生み出すのは、人間の深層心理なのである。深層心理とは、人間の無意識のうちに、働く心の作用である。これが、無意識の思考である。深層心理は、人間の無意識のうちに、自我に応じて、主体的に思考し、常に、名誉欲・支配欲・権力欲をひたすら追求しようとし、感情とともに行動の指針を生み出すのである。ラカンが「無意識は言葉によって構造化されている」と言ったのは、この謂である。もちろん、「無意識」とは、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、思考されているということを意味する。人間の思考は、言語を使っての論理的なものだからである。ラカンが、「構造化されている」というふうに、受動態にしたのは、深層心理の活動は、人間が意識していない世界で、行われているからである。深層心理の主体的な思考が感情や行動の指令を生み出し、それが、人間の行動の起点になっているのである。表層心理は、それを受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を意識しつつ、行動を考えるのである。たいていの場合、表層心理は、深層心理の出した指令をそのまま受け入れて、行動する。これを、世間では意志による行動だと言う。しかし、これは、意志という表層心理が発案した行動ではない。深層心理が指令を出した行動なのである。ニーチェが言うように、「人間は、意志を、意志することはできない。」のである。しかし、人間は、必ずしも、深層心理が出した行動の指令のままに、動かない。表層心理は、時には、意志によって、深層心理が出した行動の指令を抑圧し、別の行動を考える。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、表層心理の抑圧が功を奏さず、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動せざるを得ない。これが、感情的な行動である。案の定、他者を傷付け、時には、犯罪者として逮捕されることになってしまう。稀れには、表層心理が、深層心理の出した指令を意識することなく、行動することがある。それが、無意識の行動である。さて、深層心理は、現世において、神を恐れず、名誉欲・支配欲・権力欲をひたすら追求しようという自我の欲望に基づいて、感情と行動の指令を生み出すから、表層心理が、行動の指令を吟味しないととんでもないことになる。深層心理の自我の欲望には、道徳観が無いから、深層心理が出した行動の指針のままに行動すると、他者の肉体・精神を傷付け、その復讐や処罰によって、自分自身の肉体・精神が傷付けられ、挙げ句の果てには、構造体(国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の集合体・組織)から追放されるどころか、死刑に処せられるはめに陥ることがあるのである。なぜならば、深層心理の自我の欲望は、他者を侮辱せよという指令、他者を蹴れ・殴れという指令、他者を殺せという指令まで出してくることがあるからである。もちろん、深層心理の自我の欲望には、他者に寄付をしろ、他者に席を譲れ、他者を助けろなどの人間愛に満ちたものもある。しかし、深層心理は、名誉欲・支配欲・権力欲を満たすためには、自我の欲望として、怒りの感情とともに他者を侮辱せよという指令、他者を蹴れ・殴れという指令、他者を殺せという指令を生み出すことがあるのである。表層心理が、抑圧しないと、とんでもない事態を引き起こす可能性がある指令を、深層心理が出すのである。もちろん、表層心理が深層心理の出した行動の指令を抑圧するのは、そのまま行動すると、他者から顰蹙を買ったり、非難されたり、構造体から追放されたり、裁かれたりして、自分自身が不利益を被るからである。つまり、他者の批判が恐いから、抑圧するのである。もちろん、他者の批判が無かったり、賛意を示してくれたならば、人間は、深層心理が出した指令のまま行動することになる。よく、「毎日、ストレスを感じて暮らしているから、辛い。」などと言う人が存在するが、ストレスを感じていない人は一人もいない。ストレスとは、深層心理が出した行動の指令を、自らが抑圧したか、他者によって妨害されたかして、実現できなかったとき、起きるからである。どんなに野放図な行動の指令を、深層心理が出したとしても、それを、自分で抑圧し、他者から妨害されれば、ストレスを感じるのである。だから、人間は、死ぬまで、ストレスから逃れられないのである。さて、「正直」、「腹蔵」という言葉がある。言うまでも無く、「正直」とは、「嘘、偽りの無いこと。素直なこと、ありのまま。」という意味である。「腹蔵」とは、心の中に思っていることを包み隠すこと」という意味である。しかし、他者から、「私について思ったことを正直に話して下さい。」や「私について腹蔵無く話して下さい。」と言われて、正直に、腹蔵なく話せば、二人の関係は壊れてしまうだろう。どんなに親しくしていても、どんなに信頼していても、どんなに愛し合っていても、時には、深層心理が、相手に対して、不信感、嫌悪感を抱くことがあるからである。深層心理を、人間は支配できないから、いろいろな思いが湧いてくるのである。そして、人間は、対他存在(相手が自分をどのように思っているか気にして生きている存在)の動物だから、相手が不信感や嫌悪感を抱いている(いた)ということを知った段階で、二人の関係にひびが入り、修復が難しいのである。だから、人間は、不正直で、腹蔵を持って、暮らしていくしか無いのである。もちろん、不正直であること、腹蔵を持つことは、ストレスを感じることであるが、それはどうしようもないことなのである。また、キリスト教に、「懺悔」という制度がある。「神の代理とされる司祭に罪を告白し、許しと償いの指定を受けること。」である。キリスト教の結婚式において、神の前で、相手を永遠に愛することを誓うのだから、結婚すれば、人間は、「懺悔」しなければいけないことになる。夫(妻)が妻(夫)への愛を失ったり、別の女性(男性)に心を奪われたりするのは、深層心理がなすことだから、人間は、どうしようもできないのである。キリスト教信者の既婚者は、一生、「懺悔」しなければいけないことになるのである。さて、ヒットラーはユダヤ人大虐殺など数々の悪事を犯し、スターリンは大量粛清など数々の悪事を犯し、トランプは人種差別など数々の悪事を犯し、プーチンは自らの批判者の暗殺を指示するなど数々の悪事を犯し、習近平は民主化運動活動家の弾圧など数々の悪事を犯し、金正恩は異母兄である金正男の暗殺の指示など数々の悪事を犯し、安倍晋三は森友学園・加計学園に対しての不正な便宜・供与など数々の悪事を犯すことができたのは、ヒットラー総統、スターリン書記長、トランプ大統領、プーチン大統領、習近平書記長、金正恩委員長、安倍晋三首相などというように、彼らは、総統、書記長、大統領、委員長、首相というポジションを得た上に、大いなる大衆の支持があったからである。彼らは、皆、悪人の政治権力者である。しかし、政治権力者は、大衆の批判、妨害が大きく無ければ、皆、悪人になるのである。人間は、皆、深層心理からもたらされた感情・行動の指令という自我の欲望を、表層心理が、深層心理からもたらされ感情の中で、吟味して、適当な行動の指令はそのまま行動に移し、不適当な行動の指令は抑圧し、別の行動を考えようとする。不適当な行動の指令だと判断したのは、その行動の指令のままに行動すると、他者から批判され、自我(自分の立場)が危うくなるからである。力の弱い庶民ほど、他者から批判され、自我(自分の立場)が危うくなることを恐れて、深層心理からもたらされた行動の指令を抑圧することが多くなるのは当然のことである。だから、力の弱い庶民ほど、ストレスを感じることが多いのである。しかし、政治権力を握った者は、有頂天になり、自分自身、他者から批判される立場にいないと思っているから、対抗馬がいて、大衆の批判、妨害が大きく無い限り、深層心理からもたらされた行動の指令という自我の欲望をそのまま実行しようとする。特に、大衆の支持率が高い場合は、遠慮会釈無く、実行する。誰が政治権力者になっても、対抗馬が存在せず、大衆の支持率が高い場合は、ストレスを感じることを忌避し、名誉欲・支配欲・権力欲を満足させたいから、深層心理からもたらされた行動の指令という自我の欲望をそのまま実行しようとするのである。ニーチェが言うように、「大衆は馬鹿だ。」から、これからも、ヒットラー、スターリン、トランプ、プーチン、習近平、金正恩、安倍晋三のような人が、政治権力を握り、大虐殺、大量粛清、人種差別、自らの批判者の暗殺の指示、民主化運動活動家の弾圧、近親者の暗殺の指示、不正な便宜・供与などの悪事を犯していくであろう。

肉体は自己として、精神は自我として生きる。(自我その192)

2019-08-23 16:24:17 | 思想
人間の肉体は、人間の意志に関わらず、常に、生きようとしている。だから、心の中でも、言葉に出しても、「心臓よ、止まれ。」と願っても、心臓は止まらない。すなわち、人間は、死なない。なぜ、人間は、自分の意志だけでは、死ねないのか。それは、人間は、自分の意志で生まれてきていないからである。自分の意志で生まれてきていないのだから、自分の意志で死ねないのは当然のことである。人間、誰しも、気が付いたら、そこに、自分が存在しているのである。しかし、芥川龍之介の『河童』という小説では、河童の胎児には、生まれるか生まれないでおくかの選択権が与えられている。そこでは、河童の父親が、胎児に、生まれる意志があるかどうか尋ね、胎児が、熟考の末に、「生まれたくない」と答えて、存在が消滅してしまう。そこでは、河童は、人間よりも進化しているから、そのようにできるのである。しかし、そこまで進化していない人間には、生まれるか否かの選択権は与えられていないのである。しかし、確かに、人間には、生まれ生まれないの選択権はないが、自殺という手段によって、自らの意志で死を選択できると言う人がいるかも知れない。つまり、自殺が自らの意志による死の選択だと言うのである。しかし、肉体は常に生きようとしているのに、精神が、敢えて、それに背いてまで死を選択するのだから、それは選択ではない。精神が苦しいから、自殺を選択したのである。つまり、自殺を選択させられたのである。だから、どのような手段で自殺しても、肉体は、最期の最期まで、苦しみの中で、生きる意志を示すのである。さて、人間は、誰しも、他者の束縛がなければ、自分の意志で、自由に行動できると思っている。しかし、人間は、精神的に、他者に束縛されている。他者が束縛しているのではなく、人間は、無意識のうちで、自ら、他者に束縛を求めているのである。他者に束縛を求め、束縛をされた姿が自我である。それは、自由に必死に生きようという肉体の自己とは全く異なるものである。確かに、人間は、肉体と同じく、精神にも、死を厭う感情はある。しかし、精神の死を厭う感情は、自我を失うことの恐怖から来ているのである。わかりやすい例で言えば、祖父・祖母が孫が可愛く思うのは、死を身近にして、祖父・祖母という自我を失うことに恐怖を覚えているが、孫の存在があることで、自らが死んでも、この世に、祖父・祖母という自我が残っているような気がするからである。それでは、自我とは何か。祖父・祖母が家族という構造体における自我がその一例であるように、自我とは、おのおのの構造体における自分のポジションである。構造体とは、人間が活動する、家、学校、会社、コンビニ、道路、電車、カップル、仲間など、人間の組織・集合体の空間を意味する。人間、誰しも、いついかなる時でも、自我である。自我から離れることはできないのであるから、自由になることはできないのである。人間、誰しも、朝、起きた時から、束縛が始まる。他者に束縛されるのではない。自我に束縛されるのである。朝、家という構造体で目が覚めるやいなや、祖父、祖母、父、母、息子、娘などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。ただ単にそこに存在するのではない。常に、深層心理が、他者から、自我(自分のポジション)としての活動が認められるように活動するように動かされている。これが、対他存在のあり方である。また、自我(与えられたポジション)は引き受けざるを得ない。なぜならば、自分で、別の家の構造体を選ぶことができず、現在の家の構造体でも別のポジションに変えることはできないからである。これが、自我のあり方である。高校という構造体へ行くと、校長、教頭、教諭、一年生、二年生、三年生などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。会社という構造体へ行くと、社員、課長、部長、社長などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。コンビニという構造体へ行くと、店長、店員、客などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。道路という構造体を使用する時には、歩行者、自動車運転手、自転車の乗り手などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。電車という構造体に乗る時には、客、運転手、車掌などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。カップルという二人から成る構造体の中では、恋人を自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。仲間という数人から成る構造体の中では、友人を自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。つまり、おのおのの構造体の中で、自我(自分のポジション)としての活動が認められるように、活動している。そして、全ての構造体には、文律もしくは不文律のルールがある。ルールを破れば、注意されたり、罰せられたりするが、あまりにひどいルール破りは、構造体から追放される。誰しも、構造体から追放されるのが嫌だから、ルールを守ろうとする。一つの構造体から出ても、別の構造体に入れてもらえる保証も無く、自我(自分のポジション)が与えられる保証も無いからである。それほど、人間にとって、構造体に属し、ポジションを与えられ、それを自我として活動することが重要なのである。なぜならば、自我(自分のポジション)としての活動があって、初めて、対他存在(他者から認められたり高く評価されたりすること)を満足する機会が与えられるからである。先に述べたように、人間の肉体は、常に生きようとしているが、学校という構造体や職場という構造体で自殺するのは、自我が認められなかったからである。学校でいじめに加担するのは、仲間の一人がいじめをしていて、自分がいじめに加担しなければ、仲間という構造体から放逐され、その後、別の仲間の構造体には入れてもらえる保証は無く、不安だからである。ストーカーになるのは、カップルという構造体を形成していた恋人という自我を持っている女性が恋人という自我を捨てて、別れを告げて去ろうとしているのを見て、残された男性が、恋人という自我を失い、カップルという構造体が消滅することに限りなく不安を覚えるからである。ストーカーにならずとも、カップルという構造体を形成していた女性が別れを告げると、残された男性は、誰しも、ストーカー的な心情に陥るのである。このように、我々は、いついかなる時でも、ある構造体に属し、ある特定のポジションを与えられ、それを引き受けて、自我として活動している。そして、常に、深層心理に、他者から、自我(自分のポジションとしての活動)が認められるように活動するように、対他存在を満足させるように動かされている。つまり、いついかなる時でも、構造体と自我から逃れることはできないのである。人間は、生まれるやいなや、家族という構造体に所属する。子は、親を選択することはできない。生まれるか生まれないかを選択できないのだから、どの親に宿り、どの家族に所属する選択権が与えられているはずがないのである。だから、「親に感謝しなさい」と教師は言い、親自身もそう思っているが、子には、この世に誕生させてくれたということで親に感謝するいわれは無いのである。良い親だと思われる家庭に巡り合えば、幸運だと見なすしか無いのである。かつて、親戚や近所の人や教師は、子に対して、「親の恩は、山より高く、海より深いのです。親に感謝しなさい。」とよく言ったが、それは、言外に、親の言う通りにしなさいと言っているのである。しかし、子は、誕生の選択権も親を選択する権利を有していないのだから、育ててくれたということで親に感謝するいわれは無いのである。これもまた、良い親だと思われる人に巡り合えば、幸運だと見なすしか無いのである。そもそも、大人たちがそういう風に言うのは、親戚・近所の人・教師・親という大人グループが、自らの思いのままに、子供を動かそうという意図からである。また、一般に、親が、我が子を紹介するのに、「厳しく育てました。」と言うと喜ばれ、「のびのびと育てました。」と言うと喜ばれないのは、紹介された大人は、子供に対して、御しやすいか御しにくいかの観点から見ているからである。大人という自我を持っている者は、自我中心の観点で子供を見るばかりで、子供の感性に対して思いを馳せることができないのである。また、親も子を選択することはできない。親は、生まれてきた子は、どんな子であろうと、我が子として育てるしか無いのである。しかし、往生際の悪い、精神年齢の低い親は、子が自分の言う通りに行動しないから、自分の思い描いたように活躍しないから、自分のことを好きになってくれないからという理由などで、虐待するのである。それは、親という自我を持っている者の深層心理には、子に、親として認めて欲しいという欲望があるからである。しかし、どのような親や子であろうと、共通して、家族という構造体を形成し、その中で、父・母・息子・娘などの自我を持って行動し、その深層心理には、自らの自我を認めて欲しいという欲望があるのである。そして、家族という構造体に限らず、人間は、日々の生活において、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動し、その深層心理には、他者から自我を認めてもらいたいという欲望がある。深層心理は、他者から自我を認めてもらえるように、自我を動かす。深層心理とは、人間自身がその存在にもその動きにも気付いていない、無意識の心の働きである。しかし、無意識と言っても、思考せずに、本能的に行動しているという意味では決して無い。深層心理は、人間の無意識のうちに、心の奥底で思考し、感情と共に行動の指針を生み出しているのである。ラカンの「無意識は言語によって構造化されている。」という言葉はこの謂である。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って、論理的に思考していることを意味している。さて、家族という構造体において、父・母・息子・娘の自我の行動の仕方は、自分が育った家族や他の家族の父・母・息子・娘の行動を学習・模倣したものになる。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」と言っている。この言葉の意味は、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」である。つまり、父・母・息子・娘という自我を持った人間は、深層心理が、本人の無意識のうちに、自分が育った家族や他の家族の父・母・息子・娘の欲望を取り入れているのである。つまり、家族という構造体における父・母・息子・娘という自我は、自ら主体的に選択しないままに、無意識のうちに、深層心理が取り入れざるを得ず、父・母・息子・娘という自我の行動も、自らが主体的に選択しないままに、深層心理が、自分が育った家族や他の家族の構造体の父・母・息子・娘の行動のあり方を取り入れているのである。次に、義務教育の小・中学校を終えての進路についてであるが、ほとんどの人は、高校に進学する。なぜ、ほとんどの人が高校に進学するのか。それも、また、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」の言葉通りである。すなわち、他の生徒が高校に進学し、教師や親がそれを勧めるからである。それでありながら、勉強しない生徒に向かって、教師たちは、「おまえたちは、就職という道もあり、他の高校に進学する道もあったのに、この高校に進学してきた。自分で、この学校を選んで入ってきたのに、なぜ、勉強しないのだ。」と叱る。一応もっともな論理であるが、選択の意味を取り違えている。他の生徒が高校に進学し、教師や親がそれを勧めるから、高校進学することにし、成績によって進学する高校が決まったのである。だから、主体的に、高校に進学し、どの高校に進学するかを選択したのでは無いのである。深層心理が、周囲の人たちの影響を受けて高校進学することを決定し、その後、成績がどの高校にするかを決めたのである。だから、教師の指摘は、表面的には正しいが、人間の深層心理、そして、現実の状況を把握していないのである。また、生徒は、学校において、クラスを選択できないから、自分がアニメを好きでも、クラスにアニメ好きを公言する者がいなくて、周囲の者がプロ野球の話題ばかりをしていれば、興味がなくても、テレビでプロ野球を見ざるを得ない。これもまた、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」の言葉の現象である。小学生・中学生・高校生にとって、孤立化することは、恐怖・不安を感じることこの上ないからである。さて、自我の悲劇は、数え切れないほどあるが、その最たるものは、太平洋戦争での特攻(特別攻撃)という作戦であろう。TBSのテレビ番組で、「若者たちは、家族を守るために、特攻を志願した。」と解説していたが、いつまで、このような、小学生レベルの幼稚なたわごとを言っているのだろうか。海軍・陸軍の指導者たちは、太平洋戦争が負け戦だとわかった段階でも、国体護持(天皇制の維持)を連合国側に認めてもらうまで戦いを引き延ばそうとし、自分たちに敗戦の責任があるので、降服を延ばそうとしていたのである。彼らの自我を守るためである。一億総玉砕とか本土決戦などと叫んで、国民を皆殺しにする作戦まで導入しようという上官が多かったのも、自らの自我を守るためである。若者たちは、特攻を志願したのではない。志願させられたのである。特攻とは、戦果に関わりなく、自殺である。しかし、肉体は常に生きようとしているのに、精神が、敢えて、それに背いてまで自殺するのだから、それは選択ではない。上官に脅され、弱虫という汚名を受けたくないから、自殺、つまり、特攻を選択せざるを得なかったのである。自我を守りたいが故に、特攻へと追い詰められたのである。このように、我々は、深層心理によって、自我を他者から認めてもらうように、動かされて生きているのである。そのためには、時には、常に生きようとする肉体の意志まで踏みにじることがあるのである。

表層心理の役割(自我その191)

2019-08-22 19:40:41 | 思想
人間は、時として、心が傷付く。そして、そこから脱しようとして、苦悩する。苦悩とは、傷付いた心のままで、傷付いた心を脱する方法を思考し、良い方法が思い浮かばないままに、思考を継続している状態である。それでは、なぜ、人間が傷付くのか。それは、他者から、悪評価・低評価を与えられたからか、無視されたからかのいずれかである。無視されることは、評価されるに値しないと思われているのではないかと思い、いっそう、心が傷付くことになる。人間は、他者から好評価・高評価を得ようと、他者の視線・言動・態度を窺いながら、暮らしている。これが、対他化である。対他化とは、他者によって、自己を知るあり方である。しかし、人間は、意識して、対他化を行っているのではない。また、自らの意志で、対他化を行っているのではない。意識や意志という表層心理は、対他化には関与していない。対他化は、深層心理の仕業なのである。深層心理とは、人間の無意識のうちでの心の働きである。ラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。もちろん、「無意識」とは、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」というように受動態に表現したのは、深層心理の活動は、人間が、無意識の世界で、行われているからである。また、「言語によって構造化されている」は、論理的に思考するということを意味する。人間の思考は、言語を使っての論理的なものだからである。つまり、深層心理が、人間の無意識のままに、論理的に思考し、感情と行動の指針を生み出しているのである。対他化とは、人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者から好評価・高評価を得ようと、他者の視線・言動・態度を窺い、他者によって、自己を知ろうとすることであるが、それにとどまらない。深層心理は、他者が自分に対して、好評価・高評価を持っているならば喜びを感じ、自分に対して、笑顔を作るように行動の指針を出し、悪評価・低評価をすれば怒り・悲しみを感じ、自分に対して、相手を侮辱せよ、殴れ、涙を流せなどの行動の指針を出すのである。表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指針の可否を考えるのである。笑顔を作ること、涙を流すことは、何ら問題はないだろう。相手を侮辱すること、殴ることが問題なのである。そのようにすれば、相手から決定的に嫌われるばかりか、復讐にあったり、周囲の人からも顰蹙を買い、人間関係が閉ざされるからである。そこで、表層心理は、深層心理が生み出した、相手を侮辱せよや殴れという行動の指針を抑圧するのである。しかし、そこでとどまることはできない。なぜならば、傷付いた心や怒りの感情は、表層心理が、深層心理の生み出した、相手を侮辱せよや殴れの行動の指針の代わりの行動を考えだし、傷付いた心や怒りの感情を鎮めなければならないのである。しかし、なかなか、良い方法が思い浮かばない。傷付いた心のままで、良い方法が思い浮かばないから、苦悩するのである。このように、人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が動くのである。深層心理が動いた結果、そこに、感情と行動の指針が生まれてくるのである。表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指針を認識し、意識し、行動を考えるのである。しかし、稀れには、人間は、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が生み出した行動の指針のままに、行動することがある。それが、無意識による行動である。しかし、たいていの場合、表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指針を意識し、行動の指針のままに行動するか、行動の指針を抑圧して行動しないかを決定するのである。行動の指針を抑圧して行動しないことを決定するのは、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。しかし、深層心理が、行動の指針を抑圧して行動しないことを決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理は、抑圧して、深層心理が生み出した行動の指針のままに行動しない場合、代替の行動を考え出そうとするのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情感情がまだ残っているからである。傷心・怒りの感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。傷心・怒りの感情感情がが弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、傷心・怒りの感情感情が強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないように思われるのである。それでは、表層心理で考え出そうとしている代替の行動の目的は何か。それは、相手の上位に立つことである。相手の上位に立てれば、傷心・怒りの感情が消えるのである。そもそも、相手から、悪評価・低評価を与えられたり、相手から無視されたりしたということは、相手から自分が下位に落とされたということなのである。深層心理が、自分自身に、相手を侮辱せよや殴れという行動の指針を出したのは、そうすることによって、相手の地位を下げさせ、自分自身が上位になろうという意図からである。しかし、深層心理による短絡的な行動の指針は、そのまま行動すると、周囲から顰蹙を買い、いっそう、自分を下位に落とすのである。だから、表層心理が、抑圧し、その代わりの行動を考え出し、傷心・怒りの感情を鎮めようとするから、苦悩するのである。しかし、そもそも、他者が自分に対する悪評価・低評価を与えたことや他者が自分を無視したことが、深層心理に傷心・怒りの感情を覚えさせたのだが、それほど、大したことなのであろうか。深層心理は、短時間で短絡的に反応するから、大したことでなくても、大げさに捉えるのである。悪評価とは、相手を嫌うことであり、低評価とは、文字通り、相手を低く評価することであるが、誰しも、皆、行っていることである。無視することも、相手と関わりを持ちたくない時は、誰しも、皆、行っていることである。自分自身を含めて、誰しも行っている、大したことでないことを、自分がされたら、心が傷付き、怒るのである。もちろん、それは、自分が意識して行っていることでも、意志して行っていることでもない。自分の無意識のうちに、深層心理が行っていることである。だから、深層心理が起こした感情や行動の指針は自分の責任ではない。しかし、表層心理で、深層心理が起こした感情の中にいながら、深層心理が生み出した行動の指針を意識した時から、自分の責任が始まる。深層心理が、相手から悪評価・低評価を与えられたり、無視されたりして、相手を侮辱せよ、殴れの行動を指針を出したことに対して、表層心理が、それを抑圧したことは正解である。しかし、そのことによって、表層心理が、傷心・怒りの感情の中にいながら、傷心・怒りの感情を鎮める方法を考え出さなければならなくなった。しかし、なかなか思いつかない。そして、苦悩が始まる。しかし、なかなか良い方法が思いつかないのは当然のことである。傷心・怒りの感情と相手を侮辱せよ・殴れという行動の指針は対になっていて、深層心理は、短時間で短絡的に、傷心・怒りの感情を生み出し、短時間で短絡的に、それを解消するために、相手を侮辱せよ・殴れという行動の指針を出したからである。表層心理は、長時間を掛けて長期的な展望に立って思考するものであり、深層心理とは合わないのである。もともと、表層心理の思考を待つまでもなく、短時間で短絡的に、傷心・怒りの感情を鎮めるためには、侮辱すること・殴ることしかなかったのである。もちろん、それは抑圧しなければならない。しかし、その人が表層心理が抑圧した段階で、苦悩することになるのである。しかし、表層心理が抑圧したことが間違っているのではない。深層心理が、大したことのないことで、傷心し、怒りの感情を持ったことが問題なのである。人間は、自我の動物であるから、どうしても、自らを対他化して、他者の評価にこだわりやすい。しかし、自分自身、相手を深く見ていないように、相手も自分を深く見ていないのである。だから、相手が、自分を悪評価・低評価をしても、無視しても、自分のことを理解していない人だと思えば良いのである。表層心理は、深層心理が生み出した傷心の感情・怒りの感情や相手を侮辱せよ・殴れという行動の指針を意識しながらも、それに屈せず、自己分析、他者分析を深めていくべきである。そうすれば、深層心理にそれに伝わり、徐々に、傷心の感情・怒りの感情が収まっていき、日を追うごとに、激しい感情・過激な行動の方針が生まれなくなっていくであろう。



人間は、愚かにも、宇宙をも、征服しようと考えている。(自我その190)

2019-08-21 18:11:50 | 思想
人間は、地球を汚すだけでは飽き足らず、宇宙まで汚そうとしている。人間は、いつまで、どこまで、「権力への意志(力への意志)」に支配されるのであろうか。ニーチェの言う「権力への意志(力への意志)」とは、現世において、神を恐れず、自らの深層心理から発する自我の欲望の一つである、支配欲・権力欲をひたすら追求することである。この宇宙支配こそ、まさしく、「権力への意志(力への意志)」の発現である。現代において、宇宙旅行、宇宙開発、宇宙研究、衛星探査などという言葉が飛び交い、まるで、宇宙に飛び立つことが、夢、ロマンであるように語られている。実際は、宇宙旅行、宇宙開発、宇宙研究、衛星探査は、ロマンでも夢でもない。宇宙を征服しようとしているのだ。ハイデッガーは、「表象作用が、人間性を失わせている。」と言っている。「表象作用」とは、ものやことを、人間が自我的に利用することを言う。宇宙旅行、宇宙開発、宇宙研究、衛星探査とは、表象作用なのである。大国は、敵国の監視や攻撃のために、人工衛星を飛ばしている。そして、大国は、敵国の人工衛星を破壊するために、衛星攻撃ミサイルを開発している。大国の権力者の自我の欲望は、地球にとどまらず、宇宙にまで広がっているのである。庶民は、自らの夢が、権力者の自我の欲望と同じであること、権力者の自我の欲望を後押ししていることに気付かず、宇宙旅行に夢を馳せ、下町ロケットや金満家のロケット製造までして、自我の欲望を強くしている。マスコミも、大衆も、権力者の行動、庶民の行動を批判するどころか、賛意を示している。ニーチェは、「大衆は馬鹿だ」と言ったが、まさしくその通りである。宇宙飛行士たちが、地球に帰還すると、大衆から、英雄が帰国したかのような歓迎を受ける。彼らは、何か偉大なことを成し遂げたのだろうか。権力者の自我の欲望である、宇宙開発という国策に準じただけではないのか。しかし、宇宙飛行士になることが夢であると言うような子供まで現れている。それは、宇宙飛行士たちが地球に帰還すると、国民から拍手喝采の歓迎ぶりを受けていたのを、テレビで見ているからである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」と言っている。この言葉の意味は、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」である。つまり、子供の中に、宇宙飛行士が国民から英雄扱いされているのを見たから、自分も宇宙飛行士になりたいと思う者が現れたのである。しかし、これは、何ら不思議なことではない。「子供は正直だ」と言われるが、それは、子供は自我の欲望に正直だという意味である。ラカンの言うように、誰しも、自我の欲望は他者の欲望に大きく影響される。子供ならば、なおさら、そうなのである。ところで、「そこに山があるからだ。」という有名な言葉がある。イギリスの登山家のジョージ・ハーバート・リー・マロリーの言葉である。1923年3月18日付きのニューヨーク・タイムズの記事に、彼が記者から、「あなたはなぜエベレストに登りたいのですか。」と聞かれ、「そこにエベレストがあるからだ。」と答えのが載っていたが、日本では、「そこに山があるからだ。」と意訳されたのである。しかし、エベレスト山に登る理由を尋ねられ、そこにエベレスト山があるからと答えたのでは、答えになっていない。しかし、彼にとって、エベレスト山は世界最高峰だから、登山家が登頂を目指すことは当然のことなのである。彼に限らず、登山家が山に登る理由ははっきりしている。山と対峙し、山を征服したいのである。登山家にとって、山頂を極めることが山を征服することなのである。特に、エベレスト山は世界最高峰だから、山頂を極め、征服することが登山家の憧れなのである。しかし、日本では、古来、山は、神が降下し領する所や神が住む清浄の地として信仰の対象とされたり、自然の恵みをもたらしてくれる感謝すべき場所とされたり、恐ろしいものを住む畏怖すべき場所とされたりして、決して、人間と対峙するものではなかった。確かに、明治時代以来、日本にも、登山する風習が始まったが、それは、欧米人が、明治初期、日本の山々を登ることだけを目的としたもの、すなわち、登山したことを模倣したのである。つまり、日本人は、欧米人から、山を征服すること、登山の概念を学んだのである。しかし、なぜ、欧米人は登山を始めたのだろうか。キリスト教には、自然は、人間より格下と見る教えがある。欧米人は、人間が山を見上げなければならない立場にいることが我慢ならなかったからである。山の屹立している姿に、我慢ならなかったのである。山頂を極めることで、山を征服しようと考えたのである。日本人が、登山という形を採用したのは、欧米人から、山を征服する喜びを学んだからである。そして、神が降下し領する所や神が住む清浄の地として信仰の対象とされ、自然の恵みをもたらしてくれる感謝すべき場所とされ、恐ろしいものを住む畏怖すべき場所とされた、山の姿を失ったのである。ハイデッガーが批判した「表象作用」を採用し、ハイデッガーが推奨した「存在」を失ったのである。山を、信仰・感謝・畏怖すべき対象としての「存在」の意味合いを捨てて、「表象作用」で、登山という形で、征服する対象としたのである。それは、宇宙が、無限、月の兎、占星術、星座、神々が住む所という「存在」が捨て去られ、「表象作用」で、宇宙旅行、宇宙開発、宇宙研究、衛星探査という形で、征服の対象とされたのと同じである。ハイデッガーは、名著『存在という時間』以来、「人間に存在を取り戻す」ことを主眼に、活動していたが、ハイデッガーの嘆きが聞こえてくるようである。