あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層肉体と深層心理(自我その194)

2019-08-25 19:48:27 | 思想
人間は、肉体にも精神にも、生来、生きる意志がある。だから、人間は、生きていけるのである。しかし、それは、自分が意識して生み出している意志ではない。言わば、肉体そのもの、精神そのものに、生来、備わっている意志である。この、自らが意識する前に、既に、生きる意志を持って存在している肉体を深層肉体、生きる意志を持って存在している精神を深層心理と言う。しかし、深層肉体にも深層心理にも、共通して、生きる意志が存在するが、その方向性は、必ずしも、一致しない。聖書に「人はパンのみにて生くるものにあらず。」とあるが、パンを求めているのが深層肉体であり、パン以外のものを求めているのが深層心理である。それ故に、深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持っていると言える。それ故に、深層肉体の意志は、単純明快である。しかし、深層心理の意志には、人間関係が絡んで、二つの欲望が存在するから複雑である。一つの欲望は、自我(ステータス、社会的な位置、社会的な地位、社会的なポジション)を起点にして、他者から認められたいという自我の欲望である。もう一つの欲望は、好み(趣向性)を起点にして、ひたすら快楽を追求しようという欲望である。しかし、自我の欲望にしろ、快楽を追求する欲望にしろ、かなえられれば、満足感・喜びを得ることができるという点では、同じである。さて、人間に、自殺する人が存在するが、それは、深層肉体の意志ではない。深層肉体の意志とは、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志であるからである。もちろん、自殺するにはそれなりの理由があろうが、しかし、深層肉体の意志を無視して、自らの手で自らの肉体を破壊するほど愚かなことは、この世に存在しない。詩人の石原吉郎は、シベリア抑留を経験し、劣悪な環境を生きのびて、「人間は、どんな環境にもなじむものだ。」と言っている。これが、深層肉体の意志である。作家の武田泰淳は、太平洋戦中、中国大陸で、日本の軍人たちが、中国の庶民に対して、略奪、拷問、レイプ、虐殺を繰り返しているのを目の当たりにし、彼らが、戦後、帰国すると、何の良心の咎めなしに、のうのうと暮らしているのを見て、「人間は、何をしても生きていくものだ。」と言っている。これが、深層肉体の意志である。作家の大岡昇平は、太平洋戦争前、中、後の日本の軍人たちや庶民の生き方を見て、「ずるい人間は、どんな環境においても、ずるく生きのびるものだ。」と言っている。これが、深層肉体の意志である。また、深層肉体は、肉体に損傷・損壊箇所があると、本人(肉体保持者)に肉体的な苦痛を与え、深層心理は肉体のその部分に損傷・損壊があることに気付き、表層心理がその損傷・損壊部分の治療方法と今後の対策を考えるのである。表層心理の思考は、苦痛から始まり苦痛の消滅で終了する。例えば、指の怪我であるであるが、時系列で言えば、指に怪我したからこそ苦痛があるのであるが、本人(肉体保持者)は、最初に指に苦痛を感じ、それによって、指の怪我に気付くのである。つまり、指に苦痛があるからこそ、本人(肉体保持者)の深層心理は、指に着目し、出血している指を発見し、表層心理が、その指の苦痛から解放されようとして治療に専念し、次に、二度とこの苦痛を味わうことの無いように、これからは慎重に包丁を扱おうというように、今後の対策を講ずるのである。つまり、指の怪我に限らず、苦痛があるからこそ、本人(肉体保持者)の深層心理は、その部分が損傷・損壊していることに気付き、表層心理が、その苦痛から解放されるために、その損傷・損壊部分を治すための方法を考え出そうとするのである。苦痛があるからこそ、人間は、損傷・損壊の原因を考え、二度と同じ過ちを犯さないように対策を講ずるのである。それ故に、苦痛からの解放が、損傷・損壊箇所の治療と対策の終了をも意味するのである。もちろん、苦痛が無くなっても、損傷・損壊箇所が十分に治癒していない場合もあるが、それでも、たいていの場合、このまま放置していても、自然に治癒する段階に来ているのである。深層肉体が、このまま放置していても、自然に治癒する段階に来ていると判断したから、苦痛を送らないのである。だから、もしも、苦痛が無ければ、人間は、ほとんどの場合、肉体に損傷・損壊があってもそれに気付かないのである。もちろん、表層心理で、治療やその後の対策を考慮するはずも無い。だから、肉体が損傷・損壊したならば、苦痛は必要なのである。逆に、人間は、どこにも、苦痛が無ければ、どこにも、肉体の損傷・損壊箇所は無いと判断しているのである。深層肉体の意志は、人間が生きのびるためには、必要不可欠なのである。次に、精神的な苦痛について説明することによって、深層心理と自我の関わりについて述べようと思う。深層肉体は、肉体に損傷・損壊箇所があると、本人(肉体保持者)に肉体的な苦痛を与え、深層心理は肉体のその部分に損傷・損壊があることに気付き、表層心理がその損傷・損壊部分の治療方法と今後の対策を考えるのであるが、深層心理も、精神に損傷があると、精神的な苦痛を覚え、感情と行動の指令を生み出し、表層心理が、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が出した行動の指令をそのまま実行するか、行動の指令を抑圧して別の行動を取るか考えるのである。ここでも、表層心理の思考は、苦痛から始まり苦痛の消滅で終了する。さて、精神の損傷とは対他存在の損傷のことである。対他存在の損傷とは、簡単に言えば、プライドの損傷である。対他存在とは、我々が、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、他者が自分がどのように見ているか気にしながら、暮らしているあり方である。対他存在の損傷、つまり、プライドの損傷は、他者からの評価が悪評価・低評価の時、起こるのである。その時、精神的に苦痛を感じ、その苦痛から脱するために、深層心理の思考が始まり、そして、それを受けて、表層心理が思考するのである。さて、我々は、いついかなる時でも、常に、家、会社、店、学校、仲間、カップルなどの構造体に所属し、家族関係、職場関係、教育関係、友人関係、恋愛関係などを結び、父・母・息子・娘、営業部長・経理課長・一般社員、店主・店員・客、校長・教頭・教諭・生徒、友人、恋人などのステータス・社会的な位置・社会的な地位・社会的なポジションを自我として暮らしている。漠然と暮らしているのではなく、常に、我々は、他者から自我の働きに対して、好評価・高評価を受けたいと思って暮らしている。それが、対他存在のあり方なのである。だから、他者から、自我が好評価・高評価をもらえれば嬉しいが、他者から、自我が悪評価・低評価を与えられたならば心が傷付くのである。これが、精神の損傷、プライドの損傷になり、精神的な苦痛をもたらすのである。そうすると、我々は、その苦痛から脱するために思考を始めるのである。苦痛から脱するために、対他存在の損傷、プライドの損傷を回復させる方策を考えようとするのである。深層心理が、感情と行動の指令を生み出し、表層心理が、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が出した行動の指令をそのまま実行するか、行動の指令を抑圧して別の行動を取るか考えるのである。このように、我々は、精神的にも肉体的にも、苦痛から、その損傷・損壊、その原因に気付き、苦痛から解放されようとして、思考するのである。つまり、肉体的な損傷・損傷も精神的な損傷も、その発見も治療も、苦痛を感じることが起点であり、苦痛が無くなることが最終地点なのである。つまり、苦痛の有無が、損傷の治癒のバロメーターになっているのである。それ故に、苦痛が我々の思考の源になっているのである。さて、先に、深層心理の意志には、他者から認められたいという自我の欲望と好み(趣向性)を起点にしてひたすら快楽を追求しようという欲望があると述べたが、次に、好み(趣向性)を起点にしてひたすら快楽を追求しようという欲望について、説明しようと思う。人間、誰しも、自分の趣向にあった、好きな人や心を許せる人と、楽しく暮らしたいと思っている。しかし、人間は、学校、会社、施設などのいろいろな構造体に所属することになるから、毎日のように、同じ構造体で暮らしていると、必ず、自分が好きな人、自分を好きな人以外に、自分が嫌いな人、自分を嫌う人が出てくる。自分が相手を嫌いになれば、相手がそれに気付き、相手も自分を嫌いになり、相手が自分を嫌いになれば、自分もそれに気付き、自分も相手を嫌いになるものである。だから、片方が嫌いになれば、相互に嫌いになるのである。また、嫌いになった理由は、意地悪をされたからとか物を盗まれたからというような明確なものは少ない。多くは、自分でも気付かないうちに嫌いになっていて、嫌いになったことを意識するようになってから、相手の挨拶の仕方、話し方、笑い方、仕草、雰囲気、他者に対する態度、声、容貌など、全てを嫌うようになる。好き嫌いは、深層心理が決めることだから、その理由がはっきりしないのである。自分が明白には気付かない、たわい無いことが原因であることが多いのである。しかし、一旦、自分が相手を嫌いだと意識すると、それが表情や行動に表れ、相手も自分も嫌いになり、同じ構造体で、共に生活することが苦痛になってくる。その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がしてくる。自分が下位に追い落とされていくような気がしてくる。いつしか、相手が不倶戴天の敵になってしまう。しかし、嫌いという理由だけで、相手を構造体から放逐できない。また、自分自身、現在の構造体を出て、別の構造体に見つかるか、見つかってもなじめるか不安であるから、とどまるしかない。そうしているうちに、深層心理が、嫌いな人を攻撃を命じるようになる。深層心理は、相手を攻撃し、相手を困らせることで、自我が上位に立ち、苦痛から逃れようとするのである。ここで、小学生・中学生・高校生ならば、自分一人で攻撃すると、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れないので、友人たちを誘うのである。自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、いじめを行うのである。友人たちも、仲間という構造体から放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。しかし、大人は、そういうわけには行かない。いじめが露見すれば、法律で罰せられ、最悪の場合、一生を棒に振るからである。もしも、相手が上司の場合、相手にセクハラ・パワハラがあれば、訴えれば良いが、気にくわないということだけでは、上司を更迭できない。逆に、それを態度に示すだけで、上司に復讐され、待遇面で不利になる。また、同輩・後輩が嫌いな場合、陰で悪口を言いふらして憂さを晴らす方法もあるが、自分がネタ元だと露見すれば、復讐されるだろう。だから、深層心理の言うがまに、相手を攻撃してはいけないのである。では、どうすれば良いか。言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接すれば良いのである。しかし、それは、偽善ではない。確かに、深層心理には、背いている。しかし、相手を嫌いな理由が、不明瞭であるかたわいないものであるのだから、相手には不愉快な思いをさせず、自分も迷惑を被っていないのだから、これが最善の方法なのである。もしも、第三者に納得できるような明瞭なものであるならば、既に、訴えるか、誰かに相談しているはずである。訴えることもできず、誰にも相談できないような理由だから、一人で抱え込み、悶々と悩んでいるのである。確かに、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接することは、自尊心が傷付けられるかも知れない。しかし、幼い自尊心は捨てるべきである。「子供は正直だ」と言われるが、深層心理に正直な行動は子供だから許されるのである。深層心理に正直な行動は、瞬間的には憂さは晴れるかも知れないが、後に、周囲から顰蹙を買い、相手から復讐にあい、嫌いだという不愉快な感情を超えて、自らを困難な状況に追い込んでしまうのである。また、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接していると、相手が自分のことを好きになり、自分も相手を好きになることがあるのである。少なくとも、人に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接している限り、誰からも、非難されることは無い。だいたい、人間は、好きや愛の感情にとらわれすぎているのである。好きや愛の感情にとらわれすぎるから、嫌いの感情が高じて憎しみになるのである。嫌いになった理由がたわい無いことであるように、好きになった理由もたわい無いことなのである。スタンダールが言っているように、相手がすばらしいのでは無く、自分がたわい無いことで相手を好きになり、自分で思いを勝手に結晶化させて、愛へと高めたのである。自分で思いを勝手に結晶化させた愛の感情だから、相手の自我の欲望に気付いて、幻滅し、別れを告げなければならなくなるのである。自分で思いを勝手に結晶化させた愛の感情のままの状態で、相手の自我の欲望に気付いていないから、相手から別れを告げられると、ストーカーになるのである。カップルや夫婦の破局が多いのは、相手の自我の欲望に気付かず、愛したからである。しかし、人間は、相手の自我の欲望を認めて、愛することは可能だろうか。