あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理が人間を動かしている。(人間の心理構造その2)

2022-12-30 11:31:38 | 思想
人間は、常に、構造体に所属し、自我を持して行動している。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、そのポジションに応じて行動しようとする、 自らのあり方である。構造体には、家族、国、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップルなどがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、国民という自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、銀行という構造体では、支店長・行員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、いついかなる時でも、構造体に所属し、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動を満たすことによって快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。そして、人間の意識しての精神活動を表層心理と言う。つまり、人間は、表層心理で思考して、すなわち、自ら意識して思考して、行動していないのである。言い換えれば、人間は主体的な思考によって行動していないのである。人間は、自ら、自我を動かすことはできず、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動を満たすことによって快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を他者に働き掛けさせているのである。人間は、単に、自我の欲望を叶えることによって、快楽を得ようとして、生きているだけなのである。深層心理が思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。しかし、多くの人はそのことに気付いていない。多くの人は、自ら意識して思考して行動していると思い込んでいるのである。すなわち、多くの人は、表層心理で思考して行動していると思い込んでいるのである。表層心理での思考の別名が理性である。そして、理性をほめそやすのである。しかし、人間は、自ら意識して思考しても、すなわち、表層心理で思考しても、つまり、理性で思考しても、行動できないのである。なぜならば、人間は、自ら意識して思考しても、すなわち、表層心理で思考しても、すなわち、理性で思考しても、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すことはできないからである。人間は、感情と行動の指令という自我の欲望に駆り立てなければ、行動できないのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動を満たして快楽を得ようと論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。確かに、人間は、表層心理で思考することがある。しかし、人間が表層心理で自らを意識して思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で自らを意識して思考して、すなわち、理性で思考して、深層心理が生み出した行動の指令について拒否するという結論を出し、表層心理の意志で、行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、そのまま、実行せざるを得ないのである。ドイツの哲学者のアドルノが、第二次世界大戦の惨状を嘆いて、「理性の敗北である」と言った。だが、もともと、理性には、強い感情を圧倒する力を有していないのである。さらに、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動において、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままに行動すること、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、いついかなる時でも、自ら意識して思考して、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしていると思っているのである。しかし、人間は、自らが意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、生み出していない自我の欲望によって動かされて生きているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。さて、人間は、いついかなる時でも、構造体に所属し、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動を満たすことによって快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのであり、快楽を得ることが生きる目的であり、快楽は欲動を満たすことによって得られるのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを満たすことによって快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。欲動の四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望を満たそうとする。深層心理は、自我の対他化の作用によって、欲動の第二の欲望である自我が他者や他人に認められたいという欲望を満たそうとする。深層心理は、対象の対自化の作用によって、欲動の第三の欲望である自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望を満たそうとする。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、欲動の第四の欲望である自我と他者の心の交流を図りたいという欲望を満たそうとする。深層心理は、人間の無意識のうちに、この四つの欲望に基づいて、快楽を求め不快を避けようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間を動かしているのである。まず、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化という作用であるが、深層心理は、構造体の自我を確保・存続・発展させることによって、安心感という快楽を得ようとするのである。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っているのは、表層心理で自ら意識して思考すること無く、深層心理が、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているからである。ほとんどの人の生活が毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で自ら意識して考えることがなく、深層心理の思考による無意識の行動だから可能なのである。その日がルーティーンの生活になっているのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。確かに、毎日が、必ずしも、平穏ではない。何かしらの些細な問題が起こる。たとえば、会社という構造体で、上司から叱責を受け、自我が傷つけられる。深層心理は、自我を守るために思考して、怒りの感情と反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆す。しかし、深層心理の中にある超自我という欲望がルーティーンを守るために、反論しろという行動の指令を抑圧しようとする。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、意識して、思考して、将来のことを考え、自我を抑圧しようとするのである。そして、ルーティーンの生活を続けるのである。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言う。しかし、深層心理は瞬間的に思考するのだから、良心がそこで働いているとは考えられない。超自我は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。超自我の働きは、ルーティーンの生活を守ることであり、そのために、道徳観や社会規約を利用しているのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。たとえば、生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社という構造体に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が政権与党に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして政権与党に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されたくなく、友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けるのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとうのである。そして、相手に無視したり邪険に扱われたりして、夫婦やカップルという構造体の復活が無理だとわかると、相手を殺して、夫(妻)や恋人という自我を失う辛さから逃れようとするのである。もちろん、深層心理の中にある超自我の欲望や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできないのである。深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令には逆らえないのである。次に、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用であるが、深層心理が、自我を他者や他人に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者や他人に会ったり、他者や他人が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、深層心理は、自我が他者や他人から見られていることを意識し、他者や他人の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者や他人のまねをしてしまう。人間は、常に、他者や他人から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者や他人の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者や他人の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者や他人の評価の虜、他者や他人の意向の虜なのである。人間は、他者や他人の評価を気にして判断し、他者のや他人意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者や他人に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。そのために、自我が他者や他人によって傷つけられると、深層心理が、怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かそうとするのである。人間は、常に、深層心理が、自我が他者や他人から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現在の自我を保持しようという現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我と表層心理での現実原則の思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、相手に惨劇をもたらすのである。次に、欲動の第三の欲望である自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対自化の作用であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対自化の作用には、有の無化、無の有化という二つの作用がある。有の無化とは、深層心理は、人間の無意識のうちに、他者という対象を支配しようとし、物という対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとし、現象という対象を自我の志向性や趣向性で捉えているということである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのである。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その目的である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば満足感が得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば満足感という快楽を得られるのである。そして、有の無化が高じると、深層心理には、無の有化の作用が生まれてくる。無の有化とは、深層心理は、自らが欲望する他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、人間の無意識のうちに、この世に存在しているように思いこむことである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者の深層心理は自我の犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとしているのである。深層心理は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自己正当化できなければ生きていけないのである。最後に、欲動の第四の欲望である自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用であるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くなること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。





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