あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、自分として存在できないのに、どうして自分に執着するのか。(自我再論3)

2022-07-03 15:06:46 | 思想
人間には、自分という自らが生み出したあり方・生き方は存在しない。人間は、常に、自我として生きているのである。自我を離れて生きることはできないのである。自我は構造体の中で生まれてくる。人間は、構造体を離れても生きることはできない。人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って、生きているのである。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。だから、ある人は、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って行動しているのである。また、ある人は、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。だから、息子や娘が母、父だと思っている人は、家族という構造体では母、父という自我を所有しているが、他の構造体では、日本国民、妻、夫、教諭、人事課長客、乗客、妻などの自我を所有して行動しているのである。しかし、息子や娘は母、父という一つの自我しか知ることができないのである。人間は、その構造体における他者の自我しか理解できないのである。他者の一つの自我しか知ることができないのに、それを全体像だと思い込んでいるのである。しかし、人間は、「あなたは何。」と尋ねられると、その時、所属している構造体に応じて、自我を答えるしかないが、他の構造体では、異なった自我を所有しているのである。人間は、誰しも、異なった構造体に所属し異なった自我を所有し、各構造体は独立していているから、その人の一つの自我から全体像を割り出すことはできないのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属して、ある一つの自我として生きていて、他の構造体では、他の自我を有しているから、自分というあり方は固定していないのである。しかし、ほとんどの人は、自らは自分として固定して存在しているように思っているのである。しかし、自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。それは、他者もその人の自我として存在し、他人もその人の自我として存在していることを意味するのである。だから、人間関係は自我の絡み合いの中で行われ、誰も、自分として動いていないのである。なぜ、そうなのか、それは、人間は、誰しも、自分の意志によって生まれてきていないからである。そうかと言って、生まれることを拒否したのに、無理矢理、誕生させられたわけでもない。つまり、自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、そこに存在しているのである。だから、人間は、誰しも、親を選んでいないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。その家族を構造体として、娘、息子を自我として存在しているのである。しかし、親も、子を選べない。生まれてくるまで、どのような子なのかわからないのである。生まれてきた子の父、母を自我として生きるしか無いのである。また、人間は、誰しも、生まれてくる時代も選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その時代に存在しているのである。だから、現代日本人は、誰しも、藩という構造体に所属できず、武士という自我を持つことはできないのである。さらに、人間は、誰しも、生まれてくる国を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているのである。日本という国に生まれたから、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持っているのである。だから、パスカルが、『パンセ』で、「私の人生の短い時間が、その前と後ろに続く永遠のうちに、『一日だけで通り過ぎてゆく客の思い出』のように飲み込まれ、私の占めている小さな空間、さらに、私の眺めているこの小さな空間が、私の知らない、また私を知らない無限のうちに沈んでゆくのを考える時、私はあそこにいず、ここにいるのを見て、恐れ、驚く。というのは、なぜあそこにいずここにいるのか、あの時にいず今この時にいるのか、全然その理由がないからである。誰が私をここに置いたのだろうか。誰の命令と指図によって、この場所とこの時が私のために当てがわれたのか。」と述べているように、人間は、誰しも、自らが存在していることの不安を覚える時があるのである。そこで、その不安を打ち消すために、ますます、人間は構造体と自我に執着するのである。しかし、構造体は他者が創造したものであり、自我は他者から与えられたものであるから、構造体が消滅し、自我が奪われる不安は拭えないのである。一生、その不安が付きまとうのである。人間は、偶然に生まれてきているから、一生、自我が奪われる不安が付きまとうのである。だから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、苦痛を覚える時もあるのである。そして、その苦痛を解消するために、国民がこぞってそのことだけを思考し、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。



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