あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

嫉妬心について。(人間の心理構造その5)

2023-01-11 15:59:59 | 思想
人間は、無意識のうちに、感情が生み出される。また、人間は、無意識のうちに、思考している。深層心理が人間を動かしているのである。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。人間の無意識のうちに、深層心理が、欲動に基づいて
思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのである。人間は自らのことを自分と表現するが、自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。すなわち。自分とは、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方なのである。だから、人間には、固定した自分は存在せず、自分を動かすことはできない。人間は。自我に囚われ、深層心理が思考して生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、人間は、自我に執着して生きるしかないのである。人間は、孤独であっても、孤立していたとしても、常に、構造体が所属し、自我として、他者や他人と関わりながら。暮らしているのである。つまり、人間は、誰しも、自分そのものは存在せず、別の構造体に入れば、別の自我を持ち、それに囚われて生きるのである。しかも、人間は、自分の意志では、自我を動かすこともできないのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かしているのである、深層心理が欲動に基づいて思考して自我の欲望を生み出すのは、欲動にかなった行動をすれば快楽が得られるからである。欲動とは、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望という四つの欲望の総称である。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている」と言う。無意識とは、無意識の思考であり、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味する。すなわち、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。つまり、深層心理は、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。すなわち、深層心理は欲動に基づいて快楽を求めて思考し、人間は深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて生きているのである。つまり、欲動が人間を動かしているのである。さて、人間は、誰しも、嫉妬を覚えたり、怨恨を持ったりすることがある。なぜ、そうなのか。それは、自我が他者に認められたいという欲動の第二の欲望から来ている。人間の深層心理は、常に、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探っているからである。深層心理は、常に、好かれたい、愛されたい、評価されたい、認められたいという思いで、自我に対する他者の思いを探っているのである。自分が、他者から、好かれたり、愛されたり、評価されたり、認められたりすれば、喜びや満足感が得られるからである。人間のこのあり方について、フランスの心理学者のラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉で表現している。「人は他者の欲望を欲望する」という言葉の意味は、「人間は、常に、他者の思いや評価を気にしている。人間は、いつの間にか、他者のまねをしている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」である。しかし、人間は、他者から悪評価・低評価を受けることもよくあるのである。その時、深層心理は、傷付き、自我に悪評価・低評価を与えた他者、自我に悪評価・低評価を与える原因を作った他者に対して怒り、うらみ憎しみの感情を持つのである。嫉妬や怨恨とは、深層心理が、自我に悪評価・低評価を与えた他者、自我に悪評価・低評価を与える原因を作った他者に対して怒り、うらみ憎しみの感情を持ち続けることを言うのである。しかし、誰一人として、自ら意識して、嫉妬や怨恨を自らに呼び寄せていない。これらは苦痛の感情であり、誰しも、招きたくない感情だからである。だから、人間は、自ら意識して、思考して、嫉妬や怨恨の感情を生み出しているのではなく、深層心理が、それらを生み出しているのである。深層心理が、自らの心の中に、嫉妬や怨恨の感情を生み出しているから、誰しも、表層心理で、それらが、自らの心の中に起こるのを止めようが無いのである。表層心理とは、人間の意識しての精神活動である。嫉妬とは、自分より高く評価されている者に対してうらみ憎む感情、自分が愛する人が自分以外の者を愛しているのでその者に対してうらみ憎む感情である。怨恨とは、自分の心を傷付けた者に対してうらみ憎む感情である。嫉妬や怨恨が他の喜怒哀楽などという感情と異なるのは、嫉妬や怨恨が継続した感情であることである。なぜ、嫉妬や怨恨という感情が継続するのか。それは、苦痛の状況が継続しているからである。自分が下位にいるという苦痛の状況が解消されず、継続しているのである。たとえ、傍の者からは何ら問題が無いように見えてていたとしても、本人の深層心理が下位の状況にあると判断して、嫉妬や怨恨という感情を抱き続けるのである。だから、恥ずかしくて。嫉妬や怨恨を抱いている理由を、誰にも話せないのである。それでは、誰が上位にいるか。それは、自分より高く評価されている者、自分が愛する人が愛している自分以外の者、自分の心を傷付けた者である。深層心理は、嫉妬や怨恨の感情を起こして、自我より高く評価されている上位にある者、自我が愛する人が愛している自我以外の上位にある者、自我の心を傷付けた上位にある者を下位に落とし、自我が上位に立つような行動をするように、本人に仕向けているのである。嫉妬や怨恨という苦通の感情は、彼らを下位に落とし、自我が上位に立つことによって、消滅するからである。しかし、深層心理が生み出した嫉妬や怨恨という苦通の感情を消滅させるために、怒りの感情と行動の指令という自我の欲望を考え出し、人間を動かそうとしても、人間は行動の指令を容易に実行できないのである。なぜならば、それは復讐であるからである。しかし、深層心理が復讐を行動の指令として考え出しても、深層心理には、欲動の自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望から来る超自我という作用があり、超自我が復讐という過激な自我の欲望を抑圧しようとするのである。言い換えれば、超自我とは、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する作用である。しかし、日常生活において、あまりに異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という過激な自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考して、現実的な自我の利得に反するものを抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が嫉妬や怨恨という継続した感情を一挙に解消するためには、復讐という方法しか考え出せないのである。「江戸の敵を長崎で討つ」という諺がある。この諺の意味は、「意外なところで、また、筋違いなことで、昔のうらみをはらす。」である。復讐とは、「江戸」での出来事で、自分が下位に落とされたので、上位の者に対して、嫉妬や怨恨という感情を持ち続け、「長崎」で、機会を窺い、自分を下位に落とした上位の者を下位に落とし込み、自分は上位に立つことなのである。だから、復讐は、他者から理解されず、社会的に断罪されるのである。「江戸の敵」を「江戸」で正当に討っていないので断罪されるのである。それでは、復讐という不当な方法ではなく、正当な方法によって、自分を下位に落とした者の上位に自分が立つことはできるであろうか。また、自分が上位に立たなくても、嫉妬や怨恨という感情を消滅させることができるのであろうか。それを可能にするのが、深層心理の無の有化作用、有の無化作用、ヘーゲルの「奴隷上位思想」、ニーチェの「真理誤謬思想」、自我の他者化の思想である。まず、深層心理の無の有化作用であるが、それは、深層心理は、自らの志向性や自分の趣向性に合ったものやことが存在していなくても、それが自我の安定に絶対的に必要だと思えば、欲動の自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望の欲望が、深層心理に、それが存在しているように思い込ませるということである。それは、心理学的には、「人は自己の心象を存在化させる」ということであり、哲学的には深層心理の無の有化という作用である。深層心理が、神が存在しなければ生きていけないと思ったから、その欲望が、深層心理に神が存在しているように思い込ませたのである。また、深層心理は、正当な方法によって、自分を下位に落とした者の上位に自分が立つことはできるであろうかと深く考えたから、その欲望が、深層心理に、ライバルという立場を考え出させたのでである。深層心理は、嫉妬や怨恨という苦痛から逃れるために、自分の上位に立つ者に対して、自らをライバルという好敵手に仕立て上げ、正当な方法によって、自分を上位に立たせようとするのである。「江戸の敵」を「江戸」で討たなかった遅れを正当な方法で取り戻そうとするのである。正当な方法とは、他者に認められる方法である。それが、ライバルというあり方である。次に、深層心理の有の無化作用であるが、これも、また、欲動の自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望の欲望から来ているのである。それは、深層心理が、他者や物や現象という対象を、志向性(観点・視点)で捉えて、認識しているということである。だから、志向性が変われば、認識も変わってくるのである。そこで、自分が嫉妬や怨恨の対象とみている、自分より高く評価されている者、自分が愛する人が自分以外の者を愛しているのでその者、自分の心を傷付けた者に対して、他の志向性(観点・視点)があるか、探ってみるのである。他の志向性(観点・視点)があれば、それらの者に対する嫉妬や怨恨が消えるからである。次に、ヘーゲルの「奴隷上位思想」であるが、それは、ヘーゲルの「主人はその地位に安住しているから何も考えず、奴隷は主人に生殺与奪の権利があるから生きるためにさまざまなことを考えているので、奴隷は思想的に主人よりも上位にある。」という思想である。だから、嫉妬や怨恨という感情に苦しめられている者も、その苦痛から逃れるためにさまざまに考えるから、嫉妬や怨恨の対象者よりも、思想的に上位にあるということを意味するのである。思想的に上位にあるから、自分が下位であると悩む必要が無いということである。次に、ニーチェの「真理誤謬思想」であるが、それは、ニーチェの「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。もしも、深く洞察できる人がいたならば、その誤謬は、人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理の上に、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であることに気付くだろう。」という言葉から窺うことができる。人間の一生は、「人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬」を重ね続け、「仮象」を「巧みに張り巡らす」ことなのである。人間は嫉妬や怨恨という「真理」を「深く洞察」すれば、自らを「滅ぼしかねない」ので、ライバルという「誤謬」を「作為」し、「仮象」を「巧みに張り巡らす」しかないのである。嫉妬や怨恨という「真理」は人間の生に無用だが、ライバル心という「誤謬」は「人間の生に有用」だからである。しかし、ライバルという「誤謬」は「巧みに張り巡らされている仮象」でしかないから、何か事があると、嫉妬や怨恨という「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」が、人間の深層心理に湧き上がってくるのである。そして、惨劇、悲劇という復讐劇を生み出すのである。そこに、人間存在の矛盾と苦悩があるのである。次に、自我の他者化の思想であるが、それは、自分を他者としてみようとすることである。自分の深層心理は、自分より高く評価されている者や自分が愛する人が愛する自分以外の者や自分の心を傷付けた者に対して、下位の状況にあると判断して、嫉妬や怨恨という苦痛の感情を抱き続けるのであるが、他者から見れば問題が無いように見えるので、嫉妬や怨恨に気付かないのである。そこで、恥ずかしくて、嫉妬や怨恨を抱いている理由を、誰にも話せないのである。だから、この程度の問題なのだと思い、自分を他者に置き換えて考えてみることである。確かに、嫉妬や怨恨で苦しむような重要な問題では無いことに気付くのである。



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